鼓動の時間





その、何とも表現しがたい塊が、舗装されていない土の地面に落ちていくのを、彼らは三者三様に見送った。否、の視線はずっとイトナに固定されたままだった。触手を削ぎ落とした指先は今なおイトナの髪に添えられており、ゆるりと再び動き出す。細い指先が滑る。薄い手のひらがこめかみに触れる。ぶわり、イトナの全身が粟立った。
「っ、イトナ!」
シロのそれは反射的な制止だったのかもしれない。二本目の触手を落とされそうになって、イトナの防衛本能が働いた。公にはしていないものの、E組でもトップクラスの運動神経を誇るとて、殺せんせーとほぼ同じ速さで繰り出されるイトナの触手を避けることが出来るはずもない。突き刺さんばかりに伸びてきたそれはの首に巻きつき、彼女を地面へと押し倒した。イトナが夏服の上に馬乗りになる。けれども首を絞めようとした触手もまた、次々に音を立てては融解し、崩れ落ちていく。これには流石のシロも目を瞠った。イトナも触れては減りゆく己の触手に目を瞠っている。
「これは・・・」
シロはざっとを検分した。イトナに跨られて、その細い身体は地面に縫い付けられている。刹那とはいえ、イトナの力で首を絞められたのだ。は咽て乱れた咳を繰り返しており、立てられた膝からその度にスカートが少しずつ太腿をずり落ちていく。艶めかしい脚は白だ。手のひらも同じく、何も細工されている様子は見えない。イトナに近づいた歩みとて、濡れた髪を拭いた所作とて、その後の接触とて、何ら不自然な仕草は見られなかった。ならば、どうして。どうやって彼女はイトナの触手を崩落させた。どうして。どうやって。
。殺せんせーの暗殺には積極的ではない、けれど様々な意味で優秀な生徒。それくらいの情報はシロも把握している。だけど答えは導かれない。イトナの触手は、殺せんせーのそれと同じもので出来ている。つまりダメージを与えるには、対殺せんせー用の特殊武器が、それこそE組の生徒に支給されているようなナイフや銃が必要だ。しかしはそれを持っていない。彼女は素手で、ただ触れただけでイトナの触手を奪い取った。何故。どうやって。
「・・・ごめん、ね。驚いたよね」
ごほ、と最後に大きく咽てから、は己を見下ろすイトナに向けて微笑みかける。長い睫毛が瞬き、生理的な涙が一筋零れ落ちた。だが、その横顔に動揺や恐怖は見られない。余裕も歓喜もだ。常と変わらず穏やかな笑みはこんなときでさえ潜まることなく、シロは感心するよりも先に訝しく感じた。E組の生徒は元がただの中学三年生にしてみたら優秀な暗殺者候補が揃っているけれども、これは毛色が違う。油断してはいけない。何か、何かヒントはないのか。イトナをも封じ込める、彼女の力のヒントは何か。
シロは素早く、それでも見落とすまいかと注意深く、の全身を検分する。何か、何か。異端を見つけ出そうと忙しなく動く眼球が、地面に転がる小物を拾い上げた。携帯電話だ。他にも筆箱や弁当箱など、の私物と思われるものが、大地の上に散らばっている。きっとスクールバッグのチャックを閉めていなかったのだろう。イトナに押し倒された拍子にそれらが肩から落ち、中身が転がり出たに違いない。怪しいものはない。すべて学生が所持するような、どこにでもある代物だ。けれどその中できらりと輝く物があった。ペットボトルだ。五百ミリリットル入りのそれはパッケージのラベルがなく、木々の合間から差し込む夏の始まりの日差しを浴びて煌めいている。水でも茶でもジュースでもない。不思議な色の液体だ。シロはそれを見たことがあった。どこで、と思い当った瞬間に息を呑む。
「っ・・・!」
まさか、とを振り返れば、彼女はまだイトナに跨られたままだった。その手が、ゆっくりとイトナに伸ばされていく。先程イトナの触手を削ぎ落とした、何の細工も見られない、ただの少女の綺麗な手が。イトナは眉間に深く皺を刻んでおり、近づこうとしている指先を睨み付けている。だが、触手を伸ばせば逆に落とされるため、動きようがないのだろう。イトナは触手という殺せんせーにも対抗できる武器を持っているが、腕力や脚力は未だ人間の範囲内だ。男女の差こそあるからを押し倒すことが出来ているものの、本気で抵抗されたなら振り払われる可能性がある。
は視線を逸らさない。自身を睨み付けてくるイトナに向かい、まだ笑みを浮かべている。ごめんね、と再度彼女は繰り返した。
「ごめんね、堀部君。殺せんせーで試すわけにはいかないから」
だから、と彼女は手を伸ばす。
「だから、堀部君で試させてほしいの。・・・身体に、触れてもいいかな? まずいと思ったら、突き飛ばしてくれていいから」
検分し熟考し仮説を打ち出すだけの頭脳が、イトナにはない。だが、シロにはある。彼が脳内で導き出した推論は、の台詞によってより固められていく。殺せんせーで試すわけにはいかない。それはそうだ。殺せんせーは標的なのだから。だから彼女は、同じ触手を持つイトナを狙った。イトナに通用すれば、それすなわち殺せんせーにも適用できると考えたのだろう。の考えは正しい。だが、ずれているところもある。
「・・・イトナは触手を持っているとはいえ、元は人間だよ。特に胴体はその傾向が顕著だ。触っても望む結果は得られないかもしれない」
「でも、何も感じないことはないと思うんです。堀部君の感じる一は、きっと殺せんせーなら十になると思うから」
「・・・そうかもしれないね。分かった。イトナ、試されてあげなさい」
シロの命令にイトナは振り向いたけれども、は変わらずイトナだけを見つめている。不服ではあるがイトナが退けば、も乱れたスカートの裾を直しながら上半身を起こした。向かい合って座り込むふたりの距離は近い。
「じゃあ、触るね?」
断りを入れて、がゆっくりと手を伸ばし始める。その指先はそっと、イトナの二の腕に触れた。最初は人差し指と中指、薬指の腹だけで。イトナが拒絶を示さないのを確認し、掌全体を添えるように変える。
「痛い?」
「痛くない」
「どんな感じ?」
「・・・痺れる。少し」
「そう」
イトナの身体は人間だ。もちろん触手を操るくらいの運動能力の改造はしてあるし、動体視力に関しては、殺せんせーのマッハ20を目で追うことが出来るくらい異常なものになっている。このままシロが調整を加えていけば、いずれその身体も殺せんせーと同じものになるのかもしれない。だが、今のイトナはまだ人間だ。触手を切り落とすの異常性も、まだ大半が人間である胴体には効果が薄いらしい。手のひらが腕から離される。は自身の手の甲を見つめ、眼差しを伏せているが、今度は代わりにイトナがそんな彼女をじっと見つめていた。長い睫毛が一度震えて、静かに持ち上げられればふたりの視線が重なる。緩く、が拳を握った。
「・・・『心臓』に、触れてもいい?」
今度、ぴくりと装束を揺らしたのはシロだった。いくら効き目は弱いといえど、何があるか分からない。危惧して止めようとするが、それよりもイトナの方が速かった。
「別に。いい」
自己主張を余りしない、するだけの経験値がないイトナの口にした言葉に、シロは目を瞠る。ありがとう、とは微笑み、またしてもゆっくりと手のひらを解き、イトナの胸へと近づけていった。左胸だ。黒いタンクトップ一枚を隔てて、ふたりの身体が触れ合う。爪先が掠めた一瞬だけイトナは身体を僅かに跳ねさせたけれども、それ以降は大きな反応も見せず、ただされるがままになっていた。
「痛い?」
「痛くない」
「どんな感じ?」
瞳を合わせての問いかけに、イトナは首を傾げ、自身のに触れられている胸元を見下ろし、再度見つめ合って答える。
「・・・うるさい」
「・・・ドキドキしてる」
「分からない。おまえが言うのなら、そうかもしれない」
「私も、緊張してる」
イトナの答えに、もはにかんだ。少しばかり頬を染めて、柔らかくどこか嬉しそうに。
「何だか、恋みたいだね」
笑うと、首を傾げるイトナと、武器と心臓を触れ合わせて交流する様を、シロだけが目撃していた。夏を迎えた山の中、そうして少女と少年は出逢った。





死に至る病、なんて。
2013年10月21日