64.刹那が全て、焔の華
桜が咲き始めた、春を間近に控えた暖かい日だった。
王の顔が一瞬歪んだのを、旺季は見逃さなかった。それだけで十分だ。紫劉輝が、紅秀麗を特別に想っていることを確認するには。それが確認出来たからこそ、旺季は二つ目の提案をするべく口を開く。
「冗官の退官及び処分に加えまして、門下省では春の人事に先駆け、一人の官吏を我が省に配属させたく思います」
ざわりと宰相会議の場が揺れた。貴族官吏の牙城ともなっている門下省は、主だった長官を抜きにしてほとんどが謎に包まれている。本来ならば、こういった公の場で官吏の配属などは宣言されない。それは同僚である官吏の罪を暴き、また朝廷に諌言を申す立場という門下省の責務による。だからこそ、彼らは正体を秘してきたのだ。それなのに何故、と一部の者たちが眉を顰めているのをよそに、旺季はゆったりと微笑み、明確に告げる。
「尚書省工部所属、女官吏―――彼女を我が門下省に迎え入れたい」
だんっと拳の叩き付けられる音が騒がしくなりかけた場を沈黙させた。誰もが視線を向けた先で、管飛翔は拳を強く握りしめている。それは今にも、再度机に叩き付けられそうだった。酒ではなく、怒りに満ちた声が彼の口から発される。
「・・・・・・あいつは俺の部下だ。てめぇなんかのとこにくれてやるつもりはねぇ」
「門下省の人事については、長官である私に優先権があります。話し合うのならば相手はあなたではなく、尚書省をまとめる鄭尚書令でしょう」
「は六部の所属だ。六部の人事については私の管轄。余計な口出しはしないでもらおう」
「それは失礼、紅吏部尚書」
開かれた扇に、旺季は言葉だけの謝罪を返す。それが伝わったのだろう。広まった剣呑な空気に、劉輝の方が焦りを感じた。
「・・・・・・旺門下省長官、官吏は貴族の出ではないぞ?」
「存じております。確かに門下省は貴族出の者を多く含みますが、それ以外の者がいないわけではありません」
白々しい、と黎深が扇の下で呟いた。は藍家の寵姫とはいえ、元は庶民。彩七家も一般庶民も、そのどちらも嫌っている貴族たちの中に放り込まれ、彼女が何事もなく仕事をこなせるとは思えない。
「では何故、官吏を欲しがるのだ? 理由があるのなら述べてくれ」
劉輝の問いに、旺季はやはりゆったりと笑みを浮かべる。六十近くになる彼の威圧は、黎深や奇人とは違い、積み重ねてきたものによる誇りだ。たとえ三公を前にしても引けを取らない雰囲気は、貴族たる者の所以かもしれない。
「では、僭越ながら申し上げます。私が官吏を門下省にと望むのは、彼女の働きを見てきたからです。門下省は朝廷に座す官吏すべてに目を配っております。その中でも本年の官吏の働きは、実に見事なものでした。茶州での医官としての働きはもとより、注視すべきは藍州にかけられた橋です」
「・・・・・・橋?」
「左様でございます。設計師や技師などの人材の召集、使用する材木などの手配、日程や工程の管理、予算の確保など、それらすべての草案を官吏が一人でまとめ上げ、ほぼ直しもなく着工したという件です」
旺季はさらりと述べたが、それは他の者にとっては驚くべき内容だった。官吏になったばかりの新人が、すべてを処理し、ほぼ直す必要のない草案をまとめ上げた。王である劉輝でさえ、草案は絳攸に何度もやり直しを命じられている。ましてや人材や予算を確保するには、吏部と戸部の両尚書の裁可をもらわなくてはならない。それがいかに困難なことか、官吏は皆、身を持って知っているのだ。
「そ、それは本当なのか? 管尚書」
尋ねられ、飛翔は苦々しい表情のまま頷いた。そのことで更に、感嘆の空気が広がる。
「ならばなおさら、官吏は工部にいるべきではないのか?」
「いいえ、これくらいの働きならば努力次第で誰でも出来るでしょう。私が注目したのは、工事工程です」
「工程?」
「官吏が作成した工程と実際の工事過程は、寸分のずれもありませんでした。竣工が遅れることはもとい、一日ずつの作業分にも、何ら遅れは見られなかったのです」
それには、今まで黙っていた黎深や奇人らも驚きの表情を見せた。舌打ちした飛翔とは反対に、旺李は笑みを浮かべ続ける。
「工事は大抵の場合に遅れが出ます。気象の関係や、予定工程に間に合わなかったりなど、その理由は様々です。ですが官吏は、それらをも工程の中に組み込んだのです。彼女は技師らの体力的な疲労や、精神的な疲れから来る作業の遅延までをも、すべて正確に見通していた」
「・・・・・・っ」
「ここまで言えば、もうお分かり頂けたでしょう」
場を見回し、旺季は笑う。静かな微笑は、けれど覇者に近いものだった。
「人の心の機微をも組み立てることが出来る。そんな人材を放っておくつもりはありません。―――彼女は、我らが御史台が頂く」
尚書が宰相会議に出れるのかどうかはスルーの方向で・・・。
2006年11月13日