63.月を追い越すまで
藍州の州都にある、広大かつ雅な城。庭園の樹木一つとっても格を感じさせるそこに、侵入する影があった。慣れたように壁を越え、茂る草木に身を隠す。影はいくつもある建物のうちから迷うことなく離宮を選び、最短距離でそちらへと向かって行った。
人目を憚っての行為だったが、もし誰かに見つかっていたとしても、何ら文句を言われることはなかっただろう。翻る衣は、異国のもののように鮮やかだ。
本邸から少し離れたところにある宮は、大きくはないけれど見事な作りをしている。そこに確かな気配を感じ、影は一歩踏み出そうとした。けれど、それよりも先に投げかけられた声が動きを制する。
「そこまでだよ、龍蓮」
「それ以上は許さない」
「そこまでだよ、龍蓮」
細く離宮の扉が開き、三人の人物が庭へと出てくる。写したかのように酷似した容姿を持つ彼らはまた、影ともよく似ていた。
久方ぶりに見る末弟に、藍家三当主は緩やかに唇を吊り上げる。
「久しいね、龍蓮。少し見ないうちにずいぶんと成長したようだ」
「背が伸び、男らしくなった」
「それは、が理由かい? 我らの寵姫」
真意を紛れ込ませる、言葉遊びのようなからかいの言。龍蓮は眉をしかめ、三人の長兄たちを睨み付けた。
「久しいな、愚兄一二三。私が成長している間に、兄らは歳を取ったようだ。人の心を勝手に詠み、他愛ない戯言に本音を忍ばせるとは」
「言うようになったね、龍蓮」
「けれどまだ青い。ここに来たのがその証拠」
「おまえはに会い、一体何を告げる気だ?」
余裕のある声が、龍蓮を遮る。彼と離宮を妨げるように、三人の兄たちは立っている。護っているのだと、龍蓮には見えた。少女を傷つけるすべてのものから、彼女を護っているのだと。
ふわりと風が、彼らを撫でる。藍家特有の漆黒の髪が、さらわれるように優しく揺れた。
「に今必要なのは、謝罪ではない」
「慰めでもない」
「愛の言葉でもない」
「一人で考え、己と向き合い、過去を省み、今に納得する時間」
「そしてそれを抱きしめ、何も言わずに待ち続ける腕」
「それらが今のには必要だ。そして龍蓮、おまえはそれを与えられない」
三兄は出来の悪い弟を見るように、優しいまなざしを龍蓮に向ける。
「おまえはに焦がれているから、それを与えることは出来ない」
奥歯をかみしめた龍蓮に、やはり彼らは優しく笑う。しかし手が差し伸べられることはなく、扉の前から動きはしない。ただ声だけが、龍蓮を優しく撫でる。
「龍蓮、世界は美しいだろう?」
「君はまだ産まれたばかりの赤子同然」
「そんな輩に、我らが寵姫は預けられない」
三つ揃って向けられた笑みは、龍蓮にも楸瑛にも似ていたけれど、今の彼らには決して出来ない類のものだった。
風が、そっと少女を隠す。
「世界を知り、己を知り、どんどん成長するがいい」
「私たちよりいい男になれた暁には、の前に立つことを許そう」
「それまではひたすら、己を磨くといい」
「「「勝負はいつでも受けて立つよ―――藍龍蓮」」」
その言葉に今の龍蓮が出来るのは、きつく彼らを睨み付けることだけだった。けれどそれも軽笑に流される。届かない離宮の中で、少女はひたすらに眠り続けている。
優しい腕に己の身を預けながら。折れてしまった羽を、少しずつ癒しているのだ。
世界が容易くないことを私は知った。だからこそ君を望むのだ。
2006年11月1日