58.下手くそな睦言を
どこかぼんやりとしている楸瑛の横顔に、胡蝶は注ごうとしていた銚子を卓に下した。静かな夜更けだけれども、それ以上の沈黙がこの部屋には満ちている。常に自分の態度を崩さない楸瑛のそんな様子に、胡蝶は内心で少しだけ驚いていた。けれど、態度には出さない。どこか当然とも感じていたから。
「・・・・・・悔しいとね、思ってしまったんだよ」
ぽつりとこぼれた声は、戸惑いを含んでいる。返事の求められていないそれに、胡蝶は沈黙を持って返した。
「庭園で立ち尽くしていた殿は、確かに藍の衣に包まれていたのに、それが私のものでないことが、すごく、悔しかった」
楸瑛の手の中で、ゆるりと酒器が傾けられる。琥珀の液体が一歩遅れて円を描き、口へ運ばれぬまま弄ばれる。
「別に、愛しいと思ったことなんてないんだよ。確かに殿は可愛らしく、機転が利いて、共に暮らすのに問題のない相手だった。交わす会話は楽しい。だけど、それだけだった」
酒を見つめる目はどこも見ていない。今は藍州の空の下にいる少女を思い描いているのか。酒器を握る手に込められた力は、他の男に抱かれている彼女を思い描いたからか。
「それなのに私は、兄たちに囲まれていた殿を、抱きしめたいと思ってしまった」
歪む楸瑛の表情を、胡蝶は初めて見た。浅くはない付き合いの中、素の「藍楸瑛」を見た、初めての瞬間だった。
「抱きしめて、この胸で泣けと言いたかった。涙を拭い、口付けたかった。殿は兄たちの寵姫なのに、それが悔しくて堪らなかった」
浮かべられた笑みは自嘲以外の何ものでもない。緩慢に向けられたまなざしは、すでに確信をその奥に秘めている。楸瑛自身分かっているのだろう。認めるのに、時間がかかった。抱く悔しさを吐露できるまでに消化するのに、彼は時間を必要としていたのだ。
まるで自分自身を笑うかのように、楸瑛は唇を歪める。
「一人の邸をこんなに寂しく感じるなんて、初めてだよ」
「・・・・・・もう分かっているんだろう? 藍様」
「あぁ、もう分かっているよ」
表情を穏やかな、柔らかなものに変え、楸瑛はまぶたを伏せる。その仕草すべてを、胡蝶は逃さず見守った。
囁かれた言葉は、まるで今宵のように静かだ。
「まったくいつの間に・・・・・・恋を、していたんだろうね」
卓に戻された酒器は、まだ満たされたまま。
その琥珀色が溢れるような幻覚を、胡蝶はこの夜、目の前の男に感じていた。
思い浮かべれば微笑を誘われ、思い焦がれれば切なさを抱く。
2006年10月23日