48.濡れた瞳に此の姿が映って
暗闇の中を、リオウは走っていた。一瞬の隙を突いて坑道を抜け、石榮村を突っ切る。杜影月は無理だった。漣が罠を張ったが、紅秀麗も無理だった。いや、彼女を逃がしたのは自分だ。円陣の中に踏み込もうとした彼女を、自分が止めた。裏切った。理由など分からない。ただ、身体が動いていたのだ。理由など知らない。
虎林城まで休むことなく走り続けてきたリオウは、突如全身を襲った不快感に跳ねるように足を止めた。地面から這い上がってくる嫌悪。爪と皮膚の境から、眼球の裏、臓腑の内、毛穴すべてに至るまでどろりとしたものがリオウを侵す。絡め取られる。捕食者を前にした小動物のように、リオウの身体が震える。彼はこの感覚を知っている。自分の父を、伯母を前にしたときの、あの、丸ごと呑み込まれるような、恐怖。
三日月の下、少女が笑う。
「・・・・・・あぁ、終わったんだ?」
尋ねてくる声は、細く甘い。頼りなくはかなげに聞こえるのは、おそらく暗闇で顔が見えないからだろう。どす黒く赤い何かが光り、目を凝らせばそれは、少女の左手中指にはめられている指輪だと分かった。あんな色だっただろうかと、リオウは思う。
「秀麗ちゃんは無事、影月君もとい陽月君は逃亡中。あぁ、変なのが出てきたね。あれ、誰? ロンクウェーブ、繊細な顔立ち、性格悪そう? 属性はおそらくスリザリン」
刃のように鋭い月を見上げ、少女はまるで見ているかのように呟いている。その間もリオウを蝕む不快感は離れない。それが目の前の少女から来ているのだと、すでに気づいていた。杜影月、紅秀麗に次ぎ、璃桜が手中にしたいと望んでいる人物。
異なる者、。
「・・・・・・俺を、どうするつもりだ」
かすれた声での問いかけに、少女が笑んだのが雰囲気だけで分かった。
「別に、どうも? もうね、あんまり気にしたくなくて。っていうか馬鹿馬鹿しくなってきた? 関わりたいことには関われなくて、関わりたくない人からばっかりお誘いを受ける。どういうこと、これ。あんまりだと思わない?」
「・・・・・・」
「どうもねぇ、よくない傾向だよ。余裕がないんだ。だから君を見逃してあげたいけど、死の呪文もかけてみたい。魔法、使っちゃいけないんだって。でも縹家に対してなら今更だよね? あー、ちょっと待って。違うんだ。殺したいんじゃないんだよ。だけどすごくいじめたい気分なんだ」
リオウに問いかけているようで、問いかけていない。自分の思考と感情を整理するかのように、少女は自答し続けている。つい先日虎林城で垣間見たときとは、ずいぶんと印象が違った。顔が見えないから声の印象がすべてになるが、まさか、とリオウは思う。
「正直今までねぇ、どこの世界に行っても基本はファンタジーだったんだよ。それこそ特殊な力を持ってる人が私の周りにはたくさんいたんだ。だけどここにはいない。私は残される側になる。そして、死んでいく彼らに何をすることも許されない」
指輪が少し、赤味を失う。
「まぁ、ね? こんな力を有しているわけですし? そういうことも想像してなかったわけじゃないですよ? だけどさぁ、こうも間近で見せられるとちょっとは切なくなるわけで。しかも頑張って生きる彼らの手伝いが私には出来ないわけでして?」
「・・・・・・」
「魔法使わなきゃいいとか言われてるけど、使えば次の瞬間に死ぬ人だって助けられるんだよ。それなのに使うなって何の拷問? 私に人殺しになれって言ってるようなもんじゃん。いじめは見てるだけでもいじめだって理論、ご存じないのかな」
「・・・・・・」
「あぁ本当に嫌になってきた。彩雲国は好きなんだよ。出会った人々も大好きなんだよ。だけどどうにも時代背景が悪かったらしい。もっと楽な設定で出会えればよかったのに。老衰じゃなく死ぬ人が、この世界には多すぎる。政治の及ばない範囲もまだまだ多い」
「・・・・・・」
「秀麗ちゃんを見てるのも、ちょっと切なくなってきたよ。私も魔女っ子にならなければ、秀麗ちゃんみたいになれたのかなぁ。鶏たまご、たまご鶏。どうしようもない仮定だって知っているけど」
「・・・・・・」
「それでも願いたくなる気持ち、君なら知っているでしょう?」
気がつけば、リオウの全身を拘束していた嫌悪感は消えていた。一歩踏み出せば、それだけ少女が近くなる。月の作る影が触れ、リオウの手が少女へ伸びた。普通より体温の低い指先よりも、少女の頬の方がはるかに冷えていた。
「・・・・・・あの人ならずっと、おまえの近くにいられる」
「性格悪い男は好きじゃないんだ」
「あの人は老いないし、縹家は異能の者が多い」
「そうだね、顔だけはいいよね。だけど美男よりも美少年が好きなんだ」
「・・・・・・」
「もうお帰り、リオウ」
触れた頬は冷たかった。濡れてはいなかった。だけどそれ以上に、リオウの鼓動は震えていた。じんわりと浮かんでくるものが何なのか、彼は知らない。
だけど笑っている少女に言いたかった。泣くなと、言いたかった。泣け、と言いたかった。
「もうお帰り、リオウ。私がこれ以上君をいじめたくなる前に」
顔は見えなかった。触れていた手をそっと剥がされる。
「今なら見逃せるから、早くお行き」
「・・・・・・俺がいなくなったら、おまえは泣けるのか?」
「さぁ、どうだろうね。ここしばらく泣いたことなんてないし、泣き方を思い出すところから始めなきゃかな」
おどけたように声が笑い、少女はリオウを押し返す。二人の合間に差し込んだ月光が、青白い彼女の顔を浮かび上がらせた。
「バイバイ。私のためにも君のためにも、もう会わないことを祈るよ」
とん、と肩を押され、リオウの身体がふらつく。態勢を崩しながらも彼の瞳は、少女をずっと捉え続けていた。泣くな、と強く願いながら。
おまえが泣くと俺も泣きそうになる、と思いながら。
泣かないで。泣かないで。泣いて、泣いて、泣いて。
2006年9月27日