36.忘れてください苦しめたくない。





酒宴から放り出された。違う。楸瑛さんが帰してくれた。女の子には遅い時間だからね、と言ってさりげなく辞させてくれる彼は、やっぱり苦労人だと思う。
静蘭さんは一度だけ私の頭を撫でて、そして柔らかく耳を塞いだ。囁かれた言葉はとても優しかった。
眠ったままの李侍郎。顰められた眉。うっすらと痕の残った手首。嫌いじゃないから嫌になる。
「・・・・・・本当に、どうしてこんな体質なんだか」
こんなことなら誰か一人と恋しちゃって、その人以外見えなくなれたらいいのに。だけど私は、そうはなれない。恋という選択肢すら、私の中にあり得ないから。自覚してるから性質が悪いよ。誰だ一体、こんな私に作ったのは。
魔女っ子だからってどうしようもない。そろそろ真面目に隠居した方がいいのかもしれないなぁ。リドるんにさえ言えば、多分彼はすべてのものから私を断絶してくれる。世界が私一人で完結すれば、誰も何も苦労はしなくて済むのだろうに。

「だが、それでは世界は形成されない。己がいて他者がいて、その関係が成り立つからこそ、初めて世界は意味を成すのだ」

藍邸の見事な庭園の中に、不釣合いな影が一つ。朝賀に出るため来ていると話には聞いていたけど、実際にこうして顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。相変わらずの美形だなぁ。少し背が伸びたね。綺麗になった。
「久しぶり、龍蓮」
「久方ぶりだな、優しき愛人よ」
「元気だった?」
「見ての通りだ。優しき愛人は元気ではないな」
「そんなことないって言っても無駄かなぁ」
奇抜な格好は今日もそのまま。深夜だというのに、どうして寝てないんだろう。その理由を多分私は知っている。自意識過剰と言われようと、何故か分かってしまうのだ。本当にどうしようもない性質だとうんざりするよ。どうしてこんな女を、みんな気にかけてくれるのか。
「それは優しき愛人が魅力に溢れているからだろう。君自身を語る言葉を私は持たぬ。だが例えよと言うのならば、この世の雄大なる自然をすべて用いて語ろうではないか。そうでもしなければ、君の魅力は伝えられぬ」
「私にそんな魅力はないよ。あるとしたら多分、魔女っ子っていう属性だけだね」
「否定するのは怖れているからか」
「怖れているよ。私は好きな人を傷つけてばかりいる」
深く息を吐き出した。本当はこんなこと言いたくないんだけれど、言わずにはいられないくらい、私は龍蓮のことが好きらしい。本当に嫌な女だなぁ。どうしようもない。後は笑うくらいしか。
「だから龍蓮、君も私を忘れなさい。君の世界は拓かれたばかりだし、これから数多くの出会いを得るよ。その中には間違いなく、君を愛してくれる人がいる。そういう人と幸せになって」
「それが優しき愛人の願いか」
「うん。君の幸せが、私の願いだよ」
「なるほど。つまり君は私を愛しているのだな」
・・・・・・思わずきょとんとしちゃったよ。あれ? 私、そんな話をしてたっけ? 酷いお言葉でお別れを告げてたつもりなんだけど。
なのに龍蓮はいたって普通に、むしろ納得したような顔で一歩足を踏み出してきた。反射的に、私は下がる。
「相手に幸せになってほしいと願う。それを『愛している』というのだと茶州で学んだ」
「あぁ・・・・・・隣人愛の『愛してる』か。うん、茶州はよい学習塾だったみたいだねぇ」
「そしてもう一つ、私は学んだ」
龍蓮は普通に続ける。
「相手を『自分の手で』幸せにしたいと希望することを、『恋している』というのだ」
「あぁ・・・・・・うん、そうかもしれないねぇ。私には経験がないので何とも意見できないけれど」
「それを踏まえた上で告げよう」
やっぱりここでも、私は耳を塞ぐのに間に合わなかった。

「優しき愛人よ。私は君に恋をしている。君の喜び怒り悲しみ微笑むすべての理由が私であってほしいと願う。何度でも告げよう。私は君に、恋をしている」

手のひらで耳を覆った。どうしたって逃げてしまう私に、龍蓮は一歩近づく。二歩、三歩と近づいて、熱を持つ指先が私の手のひらを剥がしにかかる。握り込まれ、無防備になってしまった両耳は、先ほどよりもリアルに彼の存在を知覚した。
「・・・・・・焦がれている」
熱い、吐息が触れる。
「このように心を変化させたのは初めてだ。心の友其の一も其の二も愛しているが、恋をしているのは君一人だ」
緩く、けれど強く抱き寄せられる。
「兄上たちにも渡せない。君が他の男のところにいると思うと、胸が焼き尽くされるように怒り、悲しむ」
刻む鼓動が、早い。
「だから請う。優しき愛人よ」
龍蓮の声が、月下の庭に響く。



「私のものにならなくても良い。だからどうか、誰のものにもならないでくれ」



それさえ在れば、私はこの先も君に恋をし続けられる。そう言った龍蓮の声は優しく、そして深かった。顔を埋めている服越しに、彼の鼓動が聞こえてくる。懸命なそれに答えられない自分が情けなかった。愚かだと思った。
ゆっくりと放され、だけど腕は離れない。近い距離で見上げる龍蓮は最後に会ったときよりも、ずっとずっと大人びていた。私一人が、成長しない。
「優しき愛人よ。君は気にしなくていい。君に恋をしている者は私も含め、十分幸せになっている。何故か? 私たちは君に恋をしているからだ」
優しい指先が、頬に触れた。龍蓮は本当に、優しく笑うようになった。
「だから請う。私たちから君に恋をするという幸せを取り上げないでくれ」
「・・・・・・私、応えられないよ?」
「それでいい。君は恋が出来ないのだから仕方ない。このような言い方は好きではないが、恋が出来ないところも含めて、君は君ということなのだろう」
「龍蓮は甘いね」
「では聞こう。今まで君に恋を告げた男の中で、君を諦めた男は存在したか?」
「・・・・・・・・・えーと」
「いないだろう。案ずるな。君は私たちの人生にまで責任を持たなくてよい。私たちは勝手に君に焦がれ続ける。君は安心して恋をされていればいいのだ」
「それ、ものすごい悪女みたいなんだけど」
「良いではないか。悪女、実に良い響きだ。では彩雲国一の悪女の誕生を祝し、ここに記念の一曲を―――・・・・・・」
言葉だけで笛を取り出そうとはしない。代わりに龍蓮は長いまつげをそっと伏せた。形の良い鼻がわずかに角度を変えてすり寄せられる。言葉を紡げば唇の触れる距離で、龍蓮は吐息のように囁いた。

「・・・・・・この気持ちを、『愛おしい』と言うのだろうな」

重ねられた唇は、ついばむように二度三度と触れ、貪るような深いものへと変わった。
きらきらと月が輝き続ける夜の中で、ほんの少しだけ、救われた気がした。





何もない場所で、私は眠る。誰の声も届かない場所で、ひとり。
2006年9月9日