28.彼の人はさいごまでアカペラだった





殿は絳攸がお嫌いかな?」
珍しく主のいる宵の始まりの藍邸で、酒器を傾けながら楸瑛は向かいの少女に問いかけた。
両手で器を抱えている少女の指先は、そういえばたおやかなものではない。どちらかといえば秀麗に似た、家事を執り行う主婦のそれに似ている。きらびやかな着物と簪の双龍蓮泉がなければ、とても藍家当主方の寵姫には見えないだろう。
「嫌いだなんて、そんなことないですよ。李侍郎は仕事も早く適確だし、とても尊敬しています」
「そうやってはぐらかすのは君の弱さだね。臆病だと言ってもいい」
「自分は拒むのに他人の領域には踏み込む。それがあなたの強さですか?」
「友のために尽くしたいと思うのは悪いことかな」
「麗しい友情ですね。李侍郎がそのような友を望まれているとは意外でした」
にこりと微笑みながらも、少女の言葉には毒が含まれている。相手と場によって自身を変えるその器用さは、秀麗や絳攸が決して持ち得ないものだ。おそらく、こんなところを兄たちは気に入ったのだろう。一筋縄では行かない、そんな少女だからこそ愛人にした。
「今はまだ気づいたばかりで戸惑っているけれど、彼が決めたなら揺るがないよ。おそらく紅家すら捨てるだろう。元より黎深様は君を気に入っているようだし、思うままに生きろと絳攸を教育をしてきた」
「紅家本家がそれを許すとでも? 私はこれでも藍家三当主の寵姫ですから。他の男性に惹かれることはありません」
「嘘はいけないよ、殿。君は兄たちだって愛してないだろう」
「人の恋路に口を出す前に、ご自分の恋愛をどうにかしたらいかがです? 振り向いてもらいたいから女遊びを繰り返し、叱られても視線を留めたいから後宮の女官ばかりにちょっかいを出す。幼い恋ですね、あなたともあろう方が」
「・・・・・・関係ないだろう、君には」
「私のことも、楸瑛さんには関係ないでしょう?」
にこりと、少女は笑った。
「一度の優しさにすがりついた、劣等感から来る顕示欲。甘やかされたいだなんて惨めなものですね。珠翠さんは決してあなたを見ない。唯一愛している人がいらっしゃるようですし」
怒りを覚える言葉の数々に、楸瑛は拳を握り込む。けれどふと気づいた。少女は向けられた分の感情を相手へと返すのだ。度を過ぎたそれは、決して踏み込まれたくない証。
先に傷をつけたのは自分だと、気づいたからこそ冷静になれる。少女がどんなにそれを恐れているのかも、今更ながらに楸瑛は悟った。触れてはいけなかったのだ。この件だけは。
「・・・・・・絳攸さんのことは好きですよ」
困ったように、少女が笑う。

「だけど私は、誰か一人を特別に想うということが出来ないんです」

その表情は、まるで途方に暮れた子供のようだった。
抱き寄せたがる手を強く握り込むことで、必死に堪えた。





唯一の弱点。
2006年9月2日