はぁ、はぁ、という切れ切れの吐息が路地裏に響く。ほとんど立てられない足音の代わりに、ぼたぼたと何かが滴り、生臭い鉄の臭いが色濃く広がる。壁に背を預け、影はずるずると崩れ落ちた。一点物と思われるスーツも、今は無残に赤黒く変色している。
「・・・っ・・・ちょ、マジで、もう、無理・・・・・・」
唇から言葉が漏れると同時に、溢れた血が顎を伝う。いつもは血色の良い顔色も今は蒼白に変わっており、肩口からは肉の焼ける臭いもかすかにする。太股は弾が貫通していないようで、じくじくと鈍い痛みが続いているはずだが、すでにどこがどう痛いのかなんて感じることすら出来ていない。路地裏は薄暗いはずなのに、何故か視界は白く染まってきて、あぁこれは本気でまずいと、いよいよ実感したとき。
沢田綱吉の目の前に、一匹の大きな黒ヒョウが現れた。
路地裏でにゃあと鳴け(番外編)
いやいやながらに10代目ドン・ボンゴレを襲名して早数年。本日の綱吉の予定は同盟ファミリーとの会談だった。勢力的にはキャバッローネに劣るものの、先代から交流のある信頼できるファミリーだったので、油断していたのも事実。
「まさか・・・・・・裏切られる、とは、なぁ・・・」
ごほっと咳込めば、どろりとした血がせり上がる。汚れた路地にそれを吐き出し、綱吉は深い溜息をついた。
「やっぱりジャッポネーゼの若造なんか信用できないってことかなぁ。九代目のときは仲良かったのに、俺じゃダメだって、じゃあ誰ならいいんだよ。これでも俺、あのリボーンの教え子なんだよ? 今はまだダメダメかもしれないけど、これでも昔に比べたらマシになってるんだし、もうちょっと経てばもっとマシになるかもしれないじゃん。なぁ、そう思うだろ?」
乾いた笑いを向ければ、黒ヒョウはぱたぱたと尻尾を振る。まるで返事のようなそれに気を良くし、綱吉は言葉を続けた。喋らなければ意識を失う恐れがあると、彼自身分かっていたのだ。
「携帯は壊れちゃったし、発信機は落としたし、追っ手はまだいるみたいだし、あぁ、くそっ、これって本気で八方塞がり? 申し出てくれた通り、獄寺君をつれてくればよかった。獄寺君じゃなくてもいいから、誰か幹部つれてくればよかった」
守護者が一人でもいてくれたなら、こんな事態にはならなかっただろう。今日連れてきていた護衛は、みんな殺されてしまった。悔しいし悲しいが、今は自分が生き残ることが彼らへの手向けになる。そう思って綱吉はひたすらに逃げてきたというのに。もう、指の一本すら動かせない。
「XANXUSが超直感で迎えに来てくれないかなぁ・・・。無理だよなぁ、昨日喧嘩したばっかだし。こんなことなら目玉焼きは醤油だって同意しとけばよかった。大体あいつ、イタリア人のくせに味覚が日本人すぎるんだよ。『奈々の作った料理が食べたい』なんて、おまえは何様だっつーの。ってか人の母さんを呼び捨てすんな。ついでに俺に和食作らせようともすんな」
まるで走馬灯のように思い出がよみがえって来る。これは本気で最期だと悟り、綱吉は笑った。
「何か俺、本気で可哀想じゃない? 平凡にダメツナしてたのにリボーンなんかに来襲されて、無理やりマフィアのドンになる教育とかさせられて、パンツ一丁にはさせられるし、毛糸の手袋は常備だし、痛いことも山ほどあったし」
語る内容は愚痴ばかりなのに、不思議と綱吉の顔は穏やかだ。ヒョウは紅い目でじっと彼を見つめ、独白に耳を貸している。
「京子ちゃん、元気かなぁ。もう結婚したのかなぁ。お祝いのカードとか、送りたかったなぁ。イーピンの結婚式では、俺、スピーチするつもりだったのに、なんかそれも無理っぽいし。ランボ、泣かないといいけど。あいつ、いくつになっても泣き虫だから。それにフゥ太、今度一緒に遊びに行く約束したのに、破ったら怒るよな、絶対」
ぺろりと、ヒョウの紅い舌が、綱吉の指先を舐めた。ぺろぺろというくすぐったい感触が、僅かに伝わる。
「ハルにも結局、応えてやれなかったし。バジル君には迷惑かけっぱなしで、雲雀さんには怒られっぱなし。了平さん、ボクシング出来なくてごめんなさい。骸、おまえはもういいよ、六道から解放されて、楽になっていいから。ディーノさん、ちょっと今日の会談相手、殲滅しちゃって下さい。何ならうちのヴァリアー貸すんで。あと、山本。もう一回山本のホームラン、見たかったなぁ。それと獄寺君、ビアンキと仲良くね。俺なんかに尽くしてくれて、ほんとありがと」
ヒョウが綱吉の太股をスーツの上から舐める。押し上げられるようにして転がり出た弾丸に、綱吉は気づかない。すでに意識は遠く、繋ぎ止めるために声を出すだけで精一杯。
「コロネロ、スカル、おまえたちは長生きしろよ。あと、リボーン。おまえが来てからほんと散々だったけど、こんな路地裏でヒョウだけに看取られて死ぬくらい散々だったけど、もうほんとめちゃくちゃ散々だったけど、でも、楽しかったよ。おまえのおかげで、みんなと、会えた。ほんと、おまえのおかげ。ありがとな。俺はここで死ぬけど、おまえの教育不足じゃないよ。俺があまりにも、ダメツナだった、だけ。気にするなよ。おまえはほんとに、最高の、家庭教師なんだから」
痛みはすでにない。ただヒョウの存在だけを感じられた。優しい気配だった。包み込まれるような、温かさ。
「父さん、母さんのこと、お願い。母さんは、いつまでの元気で。九代目、あなたの期待に応えられず、申し訳ありませんでし、た」
意識が途切れる瞬間、綱吉は笑った。誇らしく、それは高々と。
「ボンゴレファミリーに幸あれ・・・・・・!」
それが、彼の最後の言葉だった。
次に綱吉が目を覚ましたのは、自室のベッドの上だった。高く豪華な天井の前に、点滴の袋が見える。瞬きをしたが、まぶたも動く。
「・・・・・・あれ?」
俺、生きてる? 首を傾げようとして、肩に激痛が走った。思わずうめいた痛みの強さに、やっぱり生きてる、と綱吉は涙をにじませて思う。意識してみれば肩と太股はギブスに固定されており、他も多数包帯で巻かれているのが分かった。
「・・・・・・何、起きたの?」
ドアを開けて入ってきた雲雀が、ぱちりと目を瞬いて問うて来る。どうにか生きてました、と綱吉はかすれた声で返した。
「雲雀さん、あの会談から何日経ってます?」
「ちょうど一週間だよ。言っとくけど相手はもう潰したから」
「もう完璧ぐちゃぐちゃに潰しちゃって下さい。それより俺、どうして見つかったんですか?」
「XANXUSが『嫌な予感がする』って言うもんだから確認取ってみれば、君が襲われたって言うじゃない。後は街を片っ端から捜索」
「XANXUS、ありがと・・・! 今度俺、おまえのために和食を作るよ・・・!」
「見つかったと思ったら全身血だらけだし、もう死んだと思ったよ」
なのに傷はあらかた治療されていたし、肩と太股の銃創については塞がってすらいた。大量の失血も補われており、その様はあのシャマルでさえ奇跡と言ったほどだった。
話を聞いた綱吉は思い当たる節を探ってみるが、これといった心当たりはない。最期だと思った路地裏は薄暗く汚れていて、変わっていたことといえば―――・・・・・・。
「あ」
綱吉の呟きに、雲雀が振り返る。
「そういえば俺、ヒョウを見ました」
「―――ヒョウ?」
「そうです。大きくて、黒くてつやつやの毛並みで、ルビーみたいに瞳が紅くて綺麗なヒョウ」
身ぶり手ぶりで示す綱吉は、雲雀の目が僅かに見開かれたことに気づかない。次いで彼が唇を吊り上げたことも知らず、ただそのヒョウの美しさについて語っている。
「綱吉、君って本当に強運だね」
「あ、俺も今回ばかりはそう思いましたよ。実はあのヒョウがあの世からのお迎えかなーなんて思ったりもしたんですけど」
「彼女は死神じゃないよ。魔女っ子だ」
へ? と目を瞬いた綱吉に、雲雀は笑った。それはそれは珍しく、心からの愛を乗せて。
「君の命の恩人の名は。僕のペットの魔女っ子だよ」
それから後、無事に回復して役目に戻ったドン・ボンゴレは、一つの大きなぬいぐるみを執務室に持ち込んだ。
黒い毛皮に紅い目をしたヒョウは、以後ボンゴレファミリーによって末代まで奉られたという。
これにておしまい。お付き合い下さりありがとうございましたにゃー。
2006年7月20日