朝方、人々が活動し始める直前に帰ってきたに、ルックは眉を顰めた。
猫の姿をしているためにそれは表情に現れなかったけれど、気配だけは伝わったようでが困ったように小首を傾げる。
湧き上がってくるどす黒い感情を抑えようとすると、知らず声が掠れた。
「・・・・・・・・・一つ聞くけど」
震える。空ろではない、今は確固として在る心が震える。
これが人か。人である証なのか。
「特別に好きってわけじゃ―――ないだろうね?」
「・・・・・・うん。はルックと同じ、私にとっては可愛い弟みたいなものだよ」
言われた言葉に、安堵と失望が広がった。
服の合間から見える首筋の赤い鬱血が、やけに目に付いて離れなかった。
空はいつでも見守ってるよ
「ねぇ」
かけられた声に、甲板を歩いていたは振り向いた。
けれど辺りに人はいない。遠くに碇の準備をしているクルーたちが見えるだけで。
首を傾げると、もう一度声が名を呼んだ。
「ねぇ、ちょっと聞いてる? それともこんな至近距離で名前を呼ばれても聞こえないほど耄碌してるわけ?」
「・・・・・・・・・ルック?」
音源のする方を捜して目線を下に向ければ、そこには翠色の毛並みをした猫がいた。
金色の目で見上げてくるその猫は、この船に魔術師として乗っているのペットである。
だから彼が甲板にいることに不思議はないのだけれど、それよりも驚きの事実には膝をついてルックを覗き込んだ。
「君・・・・・・喋れるの?」
「喋れないなんて誰が言った? 君のものさしで勝手に僕を測らないでほしいね」
「あ、いや、うん・・・・・・そうだね。でもそっか、やっぱり君は普通の猫じゃなかったんだ」
どこか納得したようにが笑う。その様子に先ほど押し込めた気持ちがせり上がって来て、ルックは苛立たしげに前足で甲板を叩いた。
「―――僕のことはどうでもいいんだよ」
金色の目がを貫き、低い声が波音を遮る。
「君、まさかの優しさを勘違いしてないだろうね―――・・・・・・?」
雲の陰が船を横切る。一瞬だけ暗さを帯びる視界。
息を呑んだは、自分を睨みつけるルックの瞳が何よりも鋭い剣のように思えた。
「が君を許したのは、君がこの船のリーダーだからだ。そこに特別な情なんてものは欠片もない。一度きりの行為で彼女を得られただなんて思わないことだね」
「・・・・・・ルック」
「彼女は本当ならこんな場所にいるべき人物じゃないんだ。罰の紋章を持つ君だからこそ手助けをしてるけれど、それだって戦いが終われば終わる。はいつまでも同じ場所にいるような人じゃないんだよ」
玲瓏な声は、おそらく自分と同じか少し年上くらいの少年のもの。
否定を許さない強い声音が心臓に響いて、の鼓動が不安定に速まっていく。
手のひらを握り締める。この手はまだ、彼女の温かさを、柔らかさを覚えている。
にとって、もはやは特別な存在になっていた。大切な、愛おしい存在。
――――――だからこそ気付けたのかもしれない。
「ルックも・・・・・・・・・のことが、好きなんだ・・・・・・?」
口をついて出た言葉に、金色の目が見開かれる。
その仕草だけでにとっては十分だった。猫として大人しくしていた彼がこうして本質を現したのも、剣のような視線を向けたのも、棘のある言葉を連ねたのも。
すべてはルックがを想う所以だったのだ。
だからこそ、その言葉はを経由し、ルック自身へと突き刺さる。
切りつけた刃は、自分へも向けられたもの。どうしようもない想いに何かしていないと立っていられなくて。
嫉妬だけではない気持ちが、ルックにこんな行動を取らせた。
その事実には眉を下げて笑う。少しだけ泣きそうになってしまったのは、ルックの中に自分の姿を見たからかもしれない。
どんなに焦がれても手に入れることは出来ないと知っているのに、諦められないこの想いを。
紋章を宿している今、きっと文字通り永遠にこの想いを抱くのだろう。
そう考えると、どうしても失笑を堪え切れなかった。
「・・・・・・俺とルックは同じだね」
「・・・・・・・・・勝手に言ってれば」
投げかけた言葉は否定されなかった。
海原を行く船、甲板の上。
永遠を持った彼らの想いを、空だけが見ていた。
2005年6月12日