それに一番最初に気付いたのは、シン・アスカだった。
うとうとと早朝のまどろみの中、彼は誰かしらの声に目を覚ました。
まだ睡眠を主張する瞼は、磁石のようにくっついて離れない。力を入れることでうっすらと目を開けると、向かいのベッドでルームメイトのレイ・ザ・バレルが身を起こしているのが見えた。
あぁ、じゃあまだ寝られる。常日頃レイが規則正しく生活しているのを思い、シンは後10分、と睡眠に身を任せようとした。
そのときに、聞こえたのだ。

「・・・・・・おはようございます」

聞いたことのない甘く優しい声で、レイ、誰に挨拶してんの?
シンは疑問に思いながらも、欲望に逆らえず再び眠りに落ちた。





Baby, cheer up!





「―――でさ、その後もちょっと注意して見てたんだけど、写真に話しかけてるみたいなんだ」
「レイが!?」
「写真に!?」
「そう、あのレイが」
シンが深々と頷くことで、日頃レイがどんな風に見られているのか判るものである。少なくとも道端の猫に「かわいいでちゅねぇ」と幼児言葉で話しかけるタイプとは思われていないらしい。
打ち明けられた話に、ルナマリアとメイリンはパチパチと目を瞬き、信じられないように息を吐き出す。
「へぇ・・・・・・あの、レイがねぇ。写真に向かって『おはよう』? に、似合わない・・・・・・っ!」
ルナマリアは想像したのか、腹を抱えて笑い出した。豪快に声を上げて笑う彼女は、顔とスタイルは良いけれど男前な性格が災いしてか、男性から恋焦がれるということはあまりない。
逆に大人しそうな雰囲気からか、意外と声をかけられるメイリンは、興味津々といった様子で聞いてくる。
「他には? 他には何て言ってたの?」
「えーっと・・・・・・」
首を傾げ、シンはここ数日監視して得た情報を羅列した。
「さっきも言ったけど、朝は『おはようございます』で、夜は『おやすみなさい、また明日』。訓練のときは隊服からパイロットスーツにちゃんとパスケースを移して『いってきます』で、帰ってきたら『ただいま帰りました』だろ? 食事のときは多分パスケースを入れてる胸ポケットに手を当てて『いただきます』だし、ちょっと時間があれば写真を眺めて笑ってるし」
俺、この事実に気づいたとき自分で自分を疑ったよ。それともアレはレイじゃなくて、レイのクローンなのかな。
もはや驚きという次元すら飛び越えたのか、感心したようにシンは指折り数える。
最初はふんふん、と頷きながら聞いていたメイリンも、最後の方では肩を震わせて必死に俯いていた。ちなみにルナマリアはソファーに転がって爆笑である。
時折通りかかるクルーが不思議そうな顔をしているが、可笑しな雰囲気を察してか話しかけては来ない。
それでも声を潜めて、シンはそっと告げる。
「だから俺、思ったんだけどさ」
真面目な顔で、真剣に。

「あの写真に写ってるのって、もしかしてレイの恋人とか―――好きな人なんじゃないか?」



一番手、メイリン。
「ねーぇ、レイ」
食事のトレーを持ち、メイリンは目的の人物に近づいた。
一応断ってから正面の席に座る。目の前の彼はもう半分以上食べ終わっており、もうちょっと早く来ればよかった、と彼女は思った。
そうすれば写真に向かって『いただきます』を言うレイが見れたかもしれないのに。
「ねぇ、レイって最近調子がいいよね。シュミレーションの結果も以前に比べて上がってるし。何か良い事でもあったの?」
CICとして知りえている情報を基盤に話を進める。不自然ではない流れに、この場にキラがいたのなら懇願しただろう。
その交渉技術をカガリにちょっとでもいいから分けてくれ、と。
「・・・・・・良い事、か」
ふ、とレイが笑った。これだけでメイリンにただ事ではないと思わせる彼は、日頃どんな風に過ごしているのか。
疑問さえ抱かせ、さらに薄く笑んで、レイは答える。
「そうだな。とても良い事があった」
これはシンの言ったことが当たってる、とメイリンは驚きで叫びたかった。

二番手、シン。
「なぁ、レイ」
射撃訓練の後、バイザーを外してシンは目的の人物に近づいた。
互いに規定の練習はこなしていることを確認する。成績では僅かにシンの方が劣っており、それがちょっと悔しいと彼は思った。
次は頑張ろう、と心に誓って、加えていい男になろう、とちょっと違ったことも心に決める。
「なぁ、レイってもしかして彼女でも出来たのか? 最近すごく調子いいし、パスケースも持ち歩いてるしさ」
その言葉にレイが顔を上げる。どこか驚いたような様子に、もしかして気づかれていないと思ってたのかな、とシンは思う。
だとしたら侮られたものだ。自分は彼と同室なのだ。元来私物をほとんど持ち込んでいないレイが四六時中何かを身につけるようになったら、いくらなんでも気づくというのに。
「いや・・・・・・恋人ではない」
照れたように、レイは眼差しを伏せる。それだけでシンにただ事ではないと思わせる彼は、日頃どんな風に過ごしているのか。
疑惑さえ抱かせ、さらに頬を染めて、レイは答える。
「だが、とても大切な人なんだ」
この言い様からして義父であるデュランダルでも義妹であるミーア・キャンベルでもない、とシンは予想した。

三番手、ルナマリア。
「で、誰?」
一日の予定をすべて終え、休憩室でルナマリアは目的の人物に近づいた。
ドリンクを片手に座っている相手を、高い視点から見下ろす。その際に綺麗に流れた金髪を、少し羨ましいと彼女は思った。
自分の赤い髪が嫌いなわけではないけれど、短さは少女らしくないかもしれない。そう思うとちょっとだけ悲しくなる。
「誰なのよ、一体。デュランダル議長? ミーア・キャンベル? それともラクス・クライン? もしかしてカガリ・ユラ・アスハ?」
並べられる名前に、レイが眉を顰める。怪訝そうなその顔に、ルナマリアは知っている著名人の範囲を更に広げた。
そのうちでレイと会ったことのありそうな人物をピックアップする。ラウ・ル・クルーゼ、ムルタ・アズラエル、キラ・ヤマトにアスラン・ザラ。
それとも意外な路線でロード・ジブリールとか? それならイイ趣味ね、とルナマリアは思う。
「・・・・・・何の話だ?」
「だからぁ、あんたの持ってるパスケースの話。一体誰の写真なの?」
びくり、とレイの肩が震えた。それだけでルナマリアにただ事ではないと思わせる彼は、日頃どんな風に過ごしているのか。
冷静な彼らしかぬ態度に、ルナマリアは目を細めた。
「まさか・・・・・・・・・」
空いている片手で、おそらくパスケースの入ってるだろう胸を押さえるレイに、ルナマリアは確信を強める。
そして視線を逸らした相手に、間違いない、と叫んだ。

「―――何であんたが、・クルーゼの写真を持ってんのよっ!?」

ミネルバを揺るがすようなその大声が、騒動の幕開けを告げた。



逃げるべく立ち上がったレイに、反射的にルナマリアは足払いを仕掛けた。
見事な動体視力で交わされ、けれど連続して膝蹴りを放つ。まだドリンクを持ったままだった所為で、レイの反応が一瞬遅れた。
その隙を見逃さずに腕を取り、床に叩きつける。背中に馬乗りになるルナマリアは、銃は苦手だけれども肉弾戦は得意だった。それはもう、レイやシンと同じくらいに。もしかしたらパワーでは上回るかもしれないくらいに。
「・・・・・・っ」
「さぁ、吐きなさいよ! あいつの写真をどこから手に入れたの!?」
素晴らしい男らしさに、たまたま同じく休憩室にいたクルーたちから感嘆の声が上がった。すごいぞ、ルナマリア・ホーク。強いぞ、ルナマリア・ホーク。だからもてないのかもしれないぞ、ルナマリア・ホーク。
「な、何の話だ・・・・・・?」
「しらばっくれんじゃないわよ! 違うって言うなら見せなさいよ、パスケース! 覚えがないならそれくらい出来るでしょ!?」
「―――・・・・・・っ!」
伸びてきた手を必死で避ける。形振り構わず暴れ始めたレイに、ルナマリアも流石に驚いて身を引いてしまった。
拘束から逃れてレイが駆け出したのと同時に、スライド式のドアを開けてシンが現れる。
「ルナ! 今の叫び―――・・・・・・ってぇ、レイ!?」
走る勢いのまま繰り出されたラリアットを、ブリッジがごとく背を反らして避ける。シンの柔らかさにクルーから拍手が上がった。
「シン! レイを捕まえてっ!」
「え、ええええぇ!?」
命令され振り向けば、逃亡者レイは廊下をダッシュで逃げていく。訓練時より速いスピードは何なんだ、オイ。
シンは思わずツッコミをを入れたかったが、それは言葉になる前に放送によってかき消された。
『ミネルバ全クルーに通達。レイ・ザ・バレルを確保されたし。繰り返す。ミネルバ全クルーに通達。レイ・ザ・バレルを確保されたし』
聞こえてきた声は、ザクの発進を促すときと同じ、メイリンの声。
ざわりと不思議がるクルーたちを他所に、放送は続く。
『現在艦内を逃亡中のレイ・ザ・バレルは、国防委員会委員長ラウ・ル・クルーゼ氏のご子息であられ、かつて我がZAFTにおいて優秀な戦績を残された・クルーゼ氏の写真を所持していると思われる。おそらく昔の、プライベート写真を』
プライベート写真、という言葉にざわめきが強まった。
「シン、邪魔っ!」
立ち上がったルナマリアがシンを押しのけて出て行くと、休憩室にいた女子クルーがそれに続き、レイの去った方向へと突進していく。
どこからともなく走る足音がたくさん聞こえ始め、あぁ、クルーゼ秘書官ってやっぱり大人気だなぁ、とシンは思った。
まぁ、でも、うん。頷いて、彼も走り出す。
『レイ・ザ・バレルは現在、通路F5を逃走中。近辺のクルーは足止めに全力されたし。繰り返す―――・・・・・・』
かくして、レイVSミネルバクルーの鬼ごっこが始まった。



レイは必死だった。捕まれば死ぬ。それは覚悟しなくてはならない。そしてそれだけは避けなくてはならない。
迫り来る大群を必死で突き放す。目の前に現れる敵―――一瞬前までは同僚だったはずなのに―――を叩きのめし、突っ走る。
しかし時が過ぎるにつれ、だんだんと追っての数も増えてきた。これはもう、ミネルバのクルーの八割以上が参加していると思われる。残りに二割弱でミネルバは動かせるのか知らないが、これも訓練になっていいだろう。
流石です、クルーゼ秘書官。こんなときなのにレイは賛美を送った。
写真一枚でこれだけの人を集めるだなんて、流石だ。流石、クルーゼ秘書官。自分の敬愛する人なだけある。そもそもあの方は写真ごときですべてを表すことの出来る人ではないのだけれど、それでもやはり美しいお姿は写真でさえも欠片なら表現することは可能である。しかしそんな彼のプライベートなシーンは、ほとんど見られたことはない。軍人であった頃は実力は間違いなく指揮官クラスでありながらも、クルーゼ国防委員長の副官でいらしたために、誰もに注目されていたわけではない。残されている写真はほとんどが公式のものであり、例えばIDカードの照合写真だとか、クルーゼ隊の集合写真だとか、それだけだ。硬質な美貌のクルーゼ秘書官はもちろん麗しいけれど、プライベートになればその美しさは愛らしさを加えて魅力を増す。これは、そんな貴重なシーンを捉えることの出来た一枚なのだ。断固として譲れはしない。譲るくらいなら食べてやる。
決意新たに、レイは走る足に力を込めた。誰よりも長く走り続け、逃げ切ってやる。
追っ手の先頭にいるルナマリアとシン、そして的確にレイの現在地を放送し続けるメイリンを忌々しく思いながら。
この写真を焼き増ししてくれたイザークのためにも、負けはしない、と彼は誓った。
そしてまた前方に現れた相手に、ラリアットを仕掛けるため腕を振り上げる。



――――――が。



「はーい、そこまで!」
「ぐ・・・・・・っ!?」
レイがアーサーへ攻撃を食らわせるよりも先に、横からにゅっと出てきた白い腕が、彼を廊下へと叩き付けた。
その威力はレイのラリアットの比ではない。同じラリアットでも、剛腕ラリアットだ。破壊力約10倍?
後頭部が容赦なく床とぶつかり、意識が遠くなっていく中でレイは見た。
自分を吹っ飛ばした白い腕の持ち主が、ミネルバの艦長―――タリア・グラディスだったのを。
あぁ、なるほど。副艦長は囮だったのか。そう考えたのを最後に、レイは意識を失った。
もしかしたら労災手当、もしくは殉職手当が出るかもしれない部下の胸元からパスケースを抜き取り、タリアはそれを開く。
後続の追っ手たちが到着するまでそれを眺めた後、彼女はクルーたちに通る声で告げた。
「騒動の原因となったこの写真は没収します」
「えーっ!?」
「そんな、艦長!」
途端に不満の声があがるが、タリアは特に眉を顰めるわけでもなく、にっこりと笑みを浮かべる。
手の中のパスケースをひらひらと揺らし、足元のレイを軽く蹴ることで示しながら。
「そうね、じゃあ今度の勤務評定でオールAを取った人にのみ、この写真を焼き増ししてあげることにしようかしら。異論は?」
「「「ありません!」」」
「じゃあそれぞれ各自の任務に戻りなさい。解散!」
シンもルナマリアも、いつしか来ていたメイリンも、明確な入手の手段に勢いよく敬礼する。
希望と期待を胸にクルーたちは勇ましく任務へと戻っていった。
誰もが去り、独りになった廊下で、潰れたままのレイがぽつりと呟く。
「・・・・・・・・・クルーゼ、秘書官・・・・・・っ」
もしも誰かが聞いていたのなら、それは涙を禁じえないほど悲しみに満ちた声だった。

その日の夜、レイは一人寂しくめそめそと枕を濡らした。





しかし幸福というのはどこから降ってくるのか判らないもので、いつどこで授かるのかも判らないもので。
加えて言うなら、行いというのはいつどこで誰が見ているのか気づかないものなのであって。
「やぁ、レイ。久しぶりだね。ギルは元気かな?」
「・・・・・・クルーゼ国防委員長。お久しぶりです」
「おや、元気がなさそうだね。そんな君には良いものをあげよう」
「・・・・・・・・・?」
「今度こそ大切にしたまえ。何、楽しいものを見せてもらったお礼だ」
酷く楽しそうに唇を吊り上げながら、ラウ・ル・クルーゼが去っていく。
その後ろ姿を一礼しながら見送り、手の中に残された茶封筒にレイは首を傾げた。
『楽しいものを見せてもらった』とクルーゼは言ったが、レイには思い当たることがないので貰う理由が分からない。そう思いながらとりあえず封筒を開け。
そして彼は、固まった。
幸福の鐘がどこからか聞こえてくる。

新たな写真を手に入れたレイは、今度こそ全身全霊で守り抜くことを誓った。
それが果たされるかどうかは、彼の挙動とミネルバクルーの洞察力にかかっている。





2005年9月19日