お風呂の用意は出来ている。今日は疲れを癒すトルマリンの入浴剤。
夕飯もちゃんと作れたし、鱸のグリルもかぼちゃのポタージュも温めればすぐ出せる。
ワインは白をデカンターレしているけれど、赤も冷やしてあるし、グラスは今日はバカラにしてみて。
部屋の掃除もして、ゴミは落ちていないし、大丈夫、大丈夫。
高鳴る胸を必死で押さえて、レイは深く深呼吸した。淡いピンク色のニットの下で、女性特有の膨らみが大きく弾む。
鏡を覗き込んでもう一度チェックした。外に行くときよりも入念に。
不自然じゃないように、けれどどんなときよりも綺麗に見えるように。
どきどきしながら巻き毛を引っ張っていると、エレカの駆動音がかすかに聞こえた。
「・・・・・・っ」
スリッパを鳴らして駆け出す。けれど慌てて早足に変えた。エレカの止まる音がする。ドアを閉め、歩いてくる気配。
それがエントランスに到達するよりも少しだけ早く、レイは玄関のドアを開いた。
弾みそうになる息を堪えて、言葉を綴る。
「お帰りなさいませ・・・っ・・・さん!」
「あぁ―――ただいま、レイ」
応えてくれる彼に笑顔を浮かべる必要はない。だって素でそうなってしまうのだから。
鞄を受け取り、迎え入れるはレイにとって唯一の人。
愛している、夫だ。
A HAPPY NEW YEAR!
「夕食にしますか? それともお風呂に?」
濃い紺色の上着を受け取って尋ねる。このスーツはレイが選ばせて貰ったものだ。
黒髪に黒い瞳、白い肌を持つによく映えるように新調に吟味を重ねて。
その結果が実ったのは嬉しいのだけれど、あまりにも美しさが人目を引くようになってしまって、気にやんでいるのも実は事実だったりする。
きっと自身、レイのそんな気持ちに気付いているのだろう。以前は外であまり手を繋いだりしてくれなかったけれど、最近はそうしてくれるのが良い証拠だ。
「待っていたのか? 先に食べていていいと言っただろう?」
「それは・・・そうですけれど」
やっぱり一緒に食べたかったので。
小さな声で申し訳なさそうに告げると、くしゃりと髪を撫でられた。
そっと顔を上げれば、無表情ながらにも僅かに苦笑しているが目に入る。
それだけの変化だけれど、数多く見せてもらえるようになった。それも自分ひとりだけという立場で。
「先に夕食だ」
「はい・・・っ」
嬉しすぎて、レイは泣きそうになる。彼女は毎日この幸福に感謝していた。
の妻になれて幸せだと、心の底から感じていた。
元々自分もも口数は多い方ではないし、食事中はさらに少ない。
けれどぽつりぽつりと会話しながら、ゆっくりとすべての皿を空にする。
との間に広がる肩肘を張ることのない穏やかな空気を、レイは殊更に気に入っていた。自分が嬉しいというのもあるけれど、が自分に対して一線引いていないということが幸せすぎて仕方ないのだ。
愛してもらえて良かったと思う。例えこの顔が彼の敬愛する人に似ているから、そういう理由であったとしても。
妻にして貰えて、本当に幸せ。
だからこそ今日、レイは告げなくてはならないことがあった。
オレンジジュースの入ったグラスを両手で包み、最後のワインを飲んでいるをそっと見上げて。
「あの・・・・・・さん」
「何だ?」
「えっと・・・・・・あのっ」
どうかどうか、拒まれませんように!
決死の思いで、レイはぎゅっと両目を瞑った。
「こっ・・・・・・子供が、出来たんです・・・・・・!」
今日病院に行ったことで判った事実を告げると、返ってきたのは拒絶でも驚きでもなく、沈黙だった。
恐る恐る視線を上げれば、はワイングラスを右手に持った状態のまま動きを止めている。
見開かれた漆黒の目が自分を映していて、レイは赤くなる頬を感じながらまた俯いた。
「・・・・・・・・・一応確認しておくが、俺の子か?」
「さん以外にありえません!」
「あぁ、判ってる。そうか・・・・・・」
ことん、とグラスを置いた手では口元を覆う。そうなってしまうと表情は完全に分からなくなってしまって、レイは不安になってきた。
姦しいというのが理由で女性を嫌うだから、きっと同じような理由で子供も嫌いかもしれない。だけどレイは産みたかった。自分と、の間に出来た子。そっとお腹を撫でるだけで幸せになる。幸福の結晶。
「判った」
一言だけ告げて、が席を立ち上がる。てきぱきと食器を重ね始める彼にレイも慌てて立ち上がると、目線だけでそれを止められた。
「食器は俺が洗う。これからは家事も折半だな」
いっそのことメイドを雇うか。それか父上か議長の家に一時的に身を寄せるか。
はそう続けるけれど、レイは何を言われたのか判らなくて。
一瞬後に気づいたとき、嬉しさでどうにかなるんじゃないかと思ってしまった。
「う、産んでもいいんですか・・・!?」
問えば、当たり前の顔で返される。
「当然だろう? 俺としては女がいい、おまえに良く似た」
かすかな笑みに喜びが募って、泣きそうになってしまって、思わずに抱きついた。
「私は・・・さんに似た男の子がいいですっ」
「父上たちにも報告に行かないとな。喜ぶ姿が目に浮かぶ」
「命名権で争いそうですね」
くすくすと二人して笑った。しなやかで逞しい腕が、そっと包み込んでくれる。
囁く声と向けられた笑顔に涙が浮かんだ。
「ありがとう、レイ」
の妻になれて幸せだと、レイは心の底から思った。
―――――――――ところで目が覚めた。
ジリリリリリリリ、と鳴り続ける目覚まし時計を反射的に止める。
そのまま手を胸に下ろせば、豊かな膨らみはない。真平らな男の胸。
ちなみに下半身も以下略で、腹に触れても自分以外の存在など感じられるわけもなく。
むくり、と起き上がって一言呟く。
「・・・・・・・・・そうか」
起き抜けとは思えないほど深く何かに納得した声で、レイは一人頷いた。
いそいそとベッドから降り、養い親がいるはずの部屋を目指して歩き出す。
「ギル、話があるのですか―――・・・・・・」
その後、デュランダル家で行われた家族会議の内容が何であったのかは、彼ら以外誰も知らない。
それはレイ・ザ・バレルが今年の初夢をみた日のことだった。
2006年1月5日