今日の分の仕事をすべて終え、クルーゼとは執務室を出た。
山積みの書類は日々増えていくが、根を詰めてやっても能率は上がらない。
それならば必要な分だけを確実に裁可し、残りは明日に回すというのがクルーゼのやり方だった。
その通りに今日も仕事を終わらせると、まだ時刻は夕方六時過ぎ。
茜色に変化していく空の映像を見上げながら、クルーゼは笑う。
「私は今日はギルと約束をしていてね。食事をして帰るよ」
「判りました。車はどうされますか?」
「適当に拾うから、が乗って帰りなさい。あぁでも今日はフレイも友人と食事をしてくると言っていたね。そうするとは一人で夕食ということになるのか・・・・・・」
ふむ、とクルーゼは手袋をした手で顎を撫でて。
「一緒に来るかね? 何、気を使わなくてもいいよ。せっかくだからキャンベル嬢も呼んで」
「勿体無いお言葉ですが謹んで辞退させて頂きます。どうぞデュランダル議長と素敵なときをお過ごし下さい」
「まぁ、今回はそういうことにしておこうか」
返される言葉を当然のように想定していたらしく、クルーゼは楽しそうに肩を揺らした。
そんな父に憮然としながらも、は書類の入ったファイルを受け取る。
「いってらっしゃいませ。父上と議長が謀略など欠片もない穏やかで和やかな食事が取れるよう祈っております」
「互いに我が子自慢をし合って、それが婚約に発展しなければいいが」
「フレイにはまだ早いんじゃありませんか? それとも父上がキャンベル嬢をお迎えになられるので?」
「賢い子は好きだよ。だが馬鹿な子も可愛いかもしれん」
「―――・・・・・・」
言葉に詰まったの頭に手を伸ばし、クルーゼは柔らかに黒髪を梳いてやる。
恨みがましい視線がそのうち呆れに変わり、最後には溜息を吐き出しながらも照れたものに落ち着いて。
「・・・・・・いってらっしゃいませ、父上」
愛しい息子に見送られ、クルーゼはその場から立ち去った。
Cheers for our meeting!
ぽっかりと空いた完全なるフリータイム。今からどこかへ出かけるには遅く、けれど誰もいない家に直接帰るには早すぎるこの時間。
どうするべきかは一瞬考え、とりあえず時間を潰す手立てをいくつか並び立てた。
一、誰もいないなら好都合。さっさと家に帰り邪魔されずにゆっくり休む
二、下僕イザークを呼び出し、秘書として情報交換をしながら夕食でも取る
三、最近は自分で買い物に出かけることがなかったので、店を巡る
他にもいくつか選択肢は思いついたのだが、それらは様々な条件に照らしあわされた上で排除された。例えばオルガたちの病院を訪れるには面会時間をすぎているし、ニコルは今日はコンサートのために他のコロニーへ出かけているため不在だ。
なので消去法を取られて残った三つの手段。それを思い返し、は僅かに眉を顰めた。
「・・・・・・二は却下だな」
何だか最近はイザークづいているような気がしなくもない。というか、イザークと共に面倒な事柄を経験しているような気がとてもしている。
だから却下だ、とは決めた。これ以上厄介ごとに巻き込まれて堪るか、と思いながら。
ならば残るは二つ。一と三、どちらにするかと再び判断を下そうとしたとき、スーツの内ポケットで小さな振動が起こり、は携帯電話を取り出した。
光り輝く液晶画面。映っている着信者の名前に、思わず眉を顰める。
けれども留守番電話サービスに繋がる前に、通話ボタンを押した。
「・・・・・・・・・何の用だ」
低い不機嫌な声音は電波を介しても伝わっているだろうに、返される声はとても明るい。
『お、久しぶり! 今飲んでるんだけどさ、おまえも来いよ』
「おまえは俺が今仕事中だとは考えないのか」
『でも違うだろ? そういうことに関する俺の勘がよく当たるの、おまえも知ってるくせに』
「隊長に昇格するには本能だけでなく理性も必要だった筈だがな」
冷ややかに言い放ち、けれどは空いている片手で通りを行きかっているタクシーを停めた。
後部座席に乗り込みながら会話を続ける。
「それで、場所はどこだ? ―――ミゲル」
クルーゼが見ていれば、その親しさに目を和らげただろう。
常ならば突然の電話が通じるだけで珍しいのに、更に急な呼び出し―――今回はたまたま暇だったということも多分にあるだろうが―――にも応じる。
ミゲル・アイマンは、にとって時間だけならイザークよりも長い付き合いの人物だった。
タクシーは走ること15分、センター街にある大衆的な居酒屋の前で停まった。
バーではなく居酒屋。カクテル&雰囲気よりも大酒&食べ物。
ヴェサリウスにいたときから変わらないミゲルの選択に、は軽く息を吐いた。そういえばあの頃も、楽しむなら質より量の酒を好む奴だった、と思い返しながら暖簾をくぐる。
いらっしゃいませ、という威勢のいい声と共に、すぐに名前が呼ばれた。
「! こっちだ!」
奥からひらひらと手を振られる。混み合っている店内を横切っていけば、四人がけの席に久しぶりに会うミゲルが座っていた。
先の大戦の一番最初と言っても良いヘリオポリスでの戦闘で、彼は瀕死の重傷を負ったが、今はこうして元気に活動している。
パイロットとしての腕と部下をまとめる気質を買われ、ミゲルはボルテール艦の艦長の地位についていた。
そんな彼の向かいの席に、もう一人男が座っていた。
綺麗に整えられたオレンジの髪は、居酒屋よりもバーに相応しいだろう。
男は眩しそうに目を細め、に向かって歓声を上げた。
「おいおい、噂以上の美人さんだなぁ」
「だろ? 俺の一押し。だけどその分、手を出せば百倍返しは間違いないぜ」
「じゃあ気をつけて応対しないと」
笑って、男は手を差し出す。
「俺はハイネ・ヴェステンフルスだ。よろしくな、美人さん」
「・・・・・・・・・・クルーゼだ。噂は聞いている。特務隊のエリート殿」
「お、美人さんは性格もキッツイなぁ。でもその方が俺は好みだぜ? 美しい華には棘があるって言うしな」
「そういった言葉は女性へ囁いた方が身の為だろう、ヴェステンフルス」
「脅し文句も超一流! ハイネでいいよ。さぁ、今夜は三人でとことん飲み明かそうぜ!」
挨拶で握り返した手をそのまま引かれ、はハイネの隣に半ば無理やり座らされた。
その際にじっと向かいのミゲルを睨みつければ、苦笑と共に肩を竦められる。
これならば大人しく自宅に帰っていた方が得策だったかもしれない。差し出されたメニューを受け取りながら、は心中で己の判断を悔やんだ。
午後七時半。飲み始めてから約一時間。その間に空いたビンの数、すでに二桁。
男三人とはいえ、そのスピードは誰が見ても速い。けれど三人全員が等しくグラスを呷っているために止める者はいなかった。
「俺、ずっとおまえに会ってみたかったんだよ」
空になったグラスに酒を注ぎ、ハイネはのグラスに軽く当てる。
もう何度目になるかわからない乾杯の仕草に、は表情を変えるまでもなくサラダへと箸を伸ばした。
「最強と呼ばれたクルーゼ隊の中で、最後まで残ったパイロットの一人。実力だけなら間違いなく指揮官クラス。だけどラウ・ル・クルーゼの副官であるためにフェイスの称号も拒否し、一兵であり続けた男」
並べられた言葉に、ミゲルが思わずといったように噴出した。
けれど当のは別段気にするでもなくチーズフライに手を伸ばし、グラスを呷る。
空になったそれは、ハイネによって新たな酒が注がれた。
「女性に絶大な人気を誇りながらも、本人はいたってクール。一部じゃクルーゼ元隊長とデキてるなんて噂もあったけど―――・・・」
有無を言わさぬ鋭い睨みに、肩を竦めて。
「・・・・・・まぁ、そっちはどうやら家族愛だったみたいだな。それじゃ、ミーア・キャンベルとはどうなってるんだ? 熱烈アタックされてるんだろ?」
「あ、それは俺も聞きたい」
「マスメディアは大衆を操り扇動する。浅慮だと思われたくなければ口を慎め」
「あの子もラクス・クラインとは違った魅力で人気があるしなぁ。慰労コンサートもやってるから軍内でも人気高いんだぜ」
「席が自由だと前日から並ぶからな。まったくちゃんと仕事しろっての」
「ミゲルは隊長だから頭が痛いか」
「ハイネは議長付の護衛だし、会う機会も多いんだろ?」
「まぁな。確かに可愛いけど、俺の好みじゃあない。ほら、俺は美人さんが好きだから」
「勝手に言ってろ」
ウィンクを寄越されたが、は無視して新たな酒を注文する。
そんな様子にハイネとミゲルは笑いながら肩を竦めあった。
やはりこの美人さんは、一筋縄ではないかない、と。
三時間も経てば、たまたま同じ店に居合わせただけの他の客たちにも、彼らはザルどころか沼であることがよく分かった。
飲めども呑めども酔うことはない。つまり酒の無駄、水を飲め。グラスを空にするだけ無意味に金が逃げていく。
けれど、ここにいる三人はそこそこの高給取りであり、元々金銭にうるさいタイプでもなかったことが幸いしたのか、その日の居酒屋の儲けはかなりのものになったと言う。
空にしたワインボトルは到底1ダースで足りるまい。
にょろにょろとやけに長い伝票を手に、ミゲルは財布を取り出す。
「男同士だし割り勘でいいよな?」
「あ、悪い。俺はカード派だから現金持ってない」
「・・・・・・・・・ハイネ、おまえ最初っからそのつもりだったろ。・・・・・・、おまえは?」
「帯び付きの札束でいいなら払ってやる」
「・・・・・・・・・・・・分かったよ。今日は俺の奢りだ」
「サンキュ、ミゲル! 男前!」
「さすがはバーディアス艦のカレン・サージスに告白されただけはあるようだな」
「なっ!? おい! 何でそんなこと知ってるんだよ!?」
「情報収集は軍人だろうと政治家だろうと必須項目だ。よもや忘れたわけじゃあるまい」
「ヒュウッ! ミゲル、おまえも隅に置けないな」
「ハイネ!」
「火があり尚且つ大火災を引き起こすような噂を立てられたくなければ、大人しく支払っておけ」
「払え払え。美人さんの言うとおりー!」
「・・・・・・・・・おまえら、さては酔ってるだろ」
「「まさか」」
ハイネは爽やかに、は冷ややかに答えてさっさと店を後にしてしまう。
伝票の長さからいって支払い金額は相当のものだっただろうが、先輩としてたまにはこれくらい良いだろう。
ミゲルとて口で言っているほど怒っているわけでもないし、彼は包容力ならば自分の知っている人間の中でも上位にいる。
だから平気だろう、と考えながら、は僅かに火照った頬を夜風で冷やした。
「お、色っぽい」
「戯言は戦場で言え。俺がその場にいたら誤射してやる」
「うわ、怖いなー」
さらりと余裕で流すハイネにも、ミゲルと同じような何かを感じる。
兄貴肌というものかもしれない、と自分には縁遠いと自覚している単語をは思い出す。
「・・・・・・・・・」
「?」
黙り込めば、伺ってくる声。その声に確信を強め、予測を結果にすべくは試みた。
意識的に喉を鳴らし、軽く息を吸って吐いて、今着ているスーツを素敵なドレスと思い込んで。
女の顔を浮かべて、呼ぶ。
「・・・・・・お兄ちゃん」
「何だよ、妹」
その場にイザークがいたのなら、間違いなく言っただろう。
『貴様らは確実に酔っている』―――と。
爽やかに、ナチュラルに、嫌味一つなく、ひどく自然な仕草で、頬に手まで添えて、微笑を浮かべて、兄を演じたハイネの脳天に、は問答無用で蹴りを食らわせた。それはもう、この一分間に行われた出来事を彼の頭から叩き落すかのように。
逞しい体躯が道路に崩れたのと同時に、店のドアが開き、ミゲルが出てくる。
彼は倒れ伏しているハイネと、明後日の方を向き素知らぬ顔で立っているを見比べ、しばし現状を観察した後、苦笑して肩をすくめた。
「ハイネは気に入らなかったか?」
「軽薄すぎる」
「あぁ・・・・・・」
「だが、馬鹿ではない」
「・・・・・・そりゃよかった」
失礼な物言いだが、それがにとっての褒め言葉であることをミゲルは知っている。
言うならばハイネは、初対面にしてかなりの評価を得たわけだ。
軍にいたときより今の方が何故か忙しそうなの息抜きになればいいと思ったのだが、どうやらそれは成功だったらしい。
足元のオレンジ色の髪を見下ろして、ミゲルは笑った。
これなら高額の酒代を払った甲斐もあったな、と思いながら。
<余談>
ハイネが目を覚まし、立ち上がった三分後。
「んで、どうやって帰る?」
「この時間だとタクシーも捕まらないし、かといって俺たちは飲んでるから運転できないし?」
「この際だから、近くのホテルかなんかに泊まった方が早いかもな。どうする? 」
「下僕を呼ぶ」
「「・・・・・・・・・・・・・・・・・・下僕?」」
「またの名を、イザーク・ジュールという」
「お、元ジュール隊の隊長さんか! いいねぇ、じゃあこれから二次会でカラオケだな」
「・・・・・・・・・下僕って、おまえたち、いつのまにそんな関係になったんだよ・・・」
「馬鹿馬鹿しい騒動の結果だ」
携帯を取り出して、慣れた様にはボタンをプッシュする。
怒り沸騰だけれども逆らえないイザークがエレカを走らせ到着するのは、それから10分後のことだった。
2005年8月10日