スピードに乗ったエレカが道路を走る。
もしも検問でもされていたならば、速度超過で罰金を取られること間違いない。執行猶予さえ付きそうなくらいハイスピードだ。
しかし運転自体は見事なもので、前方にいる車は無理なく―――けれどものすごい勢いで―――追い抜き、カーブは反対車線にはみ出さず綺麗に曲がる。
スピード狂だろうけれど、腕は悪くない。真剣な顔でハンドルを握っているメイリンの横顔を眺め、はふと思った。

もしかしたらメイリン・ホークは、パイロットの素質があるのかもしれない・・・・・・・・・と。





Seek, seek, seek!





エレカが信号に引っかかったのは、軍事施設からすでに20キロ近く離れた地点だった。
だんだんと人通りも多くなり、アプリリウス・ワンの中枢都市部に入り始めている。
の覚えている限り今までにも何度か信号に引っかかりはしたのだが、車や横断者がいないのを良いことにメイリンは一切無視していたのだ。
これで自分の立場が脅かされ、ひいてはクルーゼに迷惑を掛けることになっては堪らない。そう思い、は運転席に声を掛ける。
「おい」
返事はない。メイリンはまるで親の仇のように目の前の赤信号を睨み付けていた。
「おい」
「・・・・・・」
「メイリン・ホーク」
「・・・・・・え? あ、はいっ! 呼びましたか!?」
「運転を代わる」
「あ、分かりましたっ」
シートベルトを外し、一度外へ出てから助手席へと回ってくる。
はその間に運転席へと体を移し、僅かにサイドミラーを直した。
メイリンが乗り込むと同時に信号も赤から緑へと変わり、はエレカをスタートさせる。もちろん今度は規定速度を守った、安全運転で。
車内が穏やかになると、メイリンはずいぶんと緊張していた自分に気づき、はぁっと息を吐き出した。
今思い返せば、何だか短い間で色々と大変なことを経験してきたがする。
ドアを開けたら偶然がいて、その腕に引き寄せられて抱きしめられて、バスルームに押し込んで、しかもその前で自分は下着姿になってしまったのだ。こんなことならもっと真面目にダイエットしておけばよかった、と少女らしい後悔が津波のようにメイリンを襲う。あぁもう本当、これからはいつ何があってもいいように、ちゃんと毎日気合を入れてすごしていよう。ストレッチダイエットの回数を増やそう。それと食事もちゃんとバランスよく考えて食べよう。ムダ毛の処理もきちんとして、パックも潤いと保湿の両方をして、一時宿泊でもちゃんとお化粧道具は箱ごと持ってくることにしよう。通販は際限がなくなっちゃうだろうから止めてたんだけど、でもやっぱりカタログを取り寄せて、服も定期的に可愛いのを購入しよう。でないと今日みたいに偶然会えたときにすごく後悔しちゃうし、でも滅多に会えないけど・・・ううん、その考え自体が甘いんだ。もっとちゃんと日頃から完璧に―――・・・。
「メイリン・ホーク」
「メイリンです!」
ぐるぐると思考していたあまり突発的に答えてしまったら、案の定は冷酷に表情を変えない。
けれどもどこか拒否的な反応をしていることは理解できて、思わず言ってしまった自分をメイリンは呪った。
しかしそれもすぐに、次の言葉で撤回される。
「・・・・・・・・・メイリン」
やっぱり今日再会できて本当に良かった、とメイリンは心の中で賛美歌を歌った。ちなみにそれは、彼女は無意識だが先日ミーア・キャンベルがカバーリングして発売した曲と同じものだった。
「はいっ! 何ですか!?」
「どこで降ろせばいい」
「えっと・・・・・・じゃあ、アプリリウス・ワンのセンター街にあるショッピングモールでお願いします。あ、でもクルーゼ秘書官がお急ぎなら・・・」
「構わない」
端的に答えるは冷たく感じてしまうけれど、運転はとても静かだ。
助手席に座っていても振動はほとんど感じないし、止まるときも走り出すときも違和感がない。
いいなぁ、とメイリンは思う。いいなぁ、こんな風に隣に座って、ドライブが出来たなら。そうしたらきっと、素敵なデートになること間違いない。
そう考えた自分に気づき、メイリンは慌ててぶるぶると首を振る。ピンク色の髪が揺れて、頭もちょっと揺らしすぎたとき、視界の隅で何かが光った。
何だろうと思い、手を伸ばす。座席の下に入り込んでいるそれは、メイリンが指を伸ばしてやっと届いた。
引っ掛けるようにして、それを拾い上げる。手の平にすっぽりと収まるサイズのそれを目にして、彼女は固まった。
「く!」
「・・・・・・?」
「ご、ごごごごごごめんなさい、何でもありませんっ!」
視線をよこしたに必死で首を振る。けれどその顔は見れなかった。
握り締めた手の中に小さな冷たい感触がある。見間違えることはない。だってそれは今日の買い物で自分も見てみたいなぁ、と思っていたものなのだから。
どきどきと逸る鼓動を押さえながら、メイリンはそっと両手を開いた。
そこにある、ゴールドの細い、筒状のそれは。

某有名ブランド今年の新色、クリスタルピンクの口紅だった。



メイリンの思考は、再び銀河、むしろ今度は大宇宙の隅から隅までを周遊し始めた。音より速い、光よりも速いスピードで。
この速度に比べれば、先ほどのエレカなんて全然目じゃない。下着姿の自分を見られたことも、全然気にすべきことじゃなかった。
口紅。今年の新色。大人気のブランド。自分は高くて見てるだけだけど。可愛い銀のケース。クリスタルピンク。透明感たっぷり。つやつやぷるぷる。売りは確か、グロスのような艶と、ほのかに香るいちじくの香り? そんな女性の大人気化粧品が、何故この車の中に? しかも座席の下なんていういかにも「落としてしまいました」的場所に? ・・・・・・え? だってこのエレカは軍から評議会議員の偉い人たちに配給されているもので、だから個人的なものじゃなくて、お仕事に使う車で。そんな中に口紅って何か変じゃない? クルーゼ秘書官は男の人だし、クルーゼ国防委員長も男の人だし。あ、そうか! もしかしたら運転手さんが女性なのかもしれない! だからこんなところに口紅が・・・・・・・・・って仕事中に化粧ポーチは漁らないでしょ、普通! もしも落としても運転手さんならすぐに拾うし! じゃあ誰? まさかクルーゼ国防委員長が使うの? あの仮面の下はひょっとして女性の顔なの? 地球の古典芸能のタカラヅカみたいに、羽を背負って踊ったりするの? ちょっと見てみたい。でもちょっと見たくない。それとも、まさかまさかまさか、ク、クク、クルーゼ秘書官が使うの・・・・・・!? うわ、見たい、見たいよ! きっと似合うと思うもん! 絶対にアイドルよりも綺麗だよ! お姉ちゃんよりも私よりも――――――・・・・・・・・・。
想像してものすごく凹んだメイリンは、しくしくと心の中で涙を流す。
そして不意に、もっとも可能性の大きいだろう推測に気づいてしまった。
ぎゅっと手の平を、口紅をきつく握り締める。小さくて可愛いこれは、もしかして。

恋人の、忘れ物なのかもしれない・・・・・・・・・。

薄暗い気持ちが広がり始める。どろどろとした暗雲がメイリンの心に広がっていく。
あぁ。待って、落ち着いて。きっと恋人じゃない。恋人じゃないよ。もしかしたら義理の妹さんのものかもしれない。でも待って。妹さんが恋人じゃないなんて言い切れるの? ひょっとしたらその人も、クルーゼ秘書官のことが好きなのかもしれない。だってこんなに素敵な人なんだもの。会えば誰だって惹かれる。惹かれずにはいられない。妹さんのものじゃなくても、もしかしたらミーア・キャンベルのものかもしれない。だってあの人は、大々的にクルーゼ秘書官が好きだって言ってる。もしかしたらこのエレカにも乗る機会があって、偶然、あるいはわざと落としていったのかもしれない。だってそうすれば誤解を与えることが出来るもの。それにクルーゼ秘書官に会う口実にもなる。それに、エレカに乗る機会があるのなら、ラクス・クラインだってカガリ・ユラ・アスハだって同じ。クリスタルピンクの口紅が似合うのはどっちだろう。やっぱりラクス・クラインかなぁ。カガリ・ユラ・アスハはあんまりお化粧しないらしいし。あぁでもそれ以外の人かもしれない。それ以外の誰かが、このシートに座ったのかもしれない。私の知らない女の子が。クルーゼ秘書官の恋人が。クルーゼ秘書官に、愛されている人が。
「メイリン」
呼ばれた名前に、顔が上げられない。どうしよう。せっかく名前で呼んでくれるようになったのに。嬉しいのに。何で。
気が付けばエレカはすでにショッピングモールの入り口に停められていて、窓越しにもざわざわと人の行きかう気配を感じる。
だけど、どうしてもすぐには降りられなかった。手のひらにある口紅が重すぎて。
痛む心が、辛すぎて。
「・・・・・・クルーゼ、秘書官・・・・・・」
泣きそうな自分を奮って、メイリンは顔を上げた。瞳に涙が滲んでしまったのは、どうすることもできない。それだけ自分は、のことが好きなのだ。
だから、どうしても聞いておきたい。たとえ・・・・・・・・・傷つくことに、なっても。
一縷の望み、そして努力を誓ってメイリンは握り締めた手をへと差し出した。
強張った指を、一本ずつゆっくりと解いていく。現れたシルバーのケースにが息を呑んで、それがメイリンに絶望を感じさせた。
それでも、それでもと思って、必死で言葉を紡ぐ。

「この口紅・・・・・・誰の、なんですか・・・・・・?」



今にも泣き出しそうなメイリンの手のひらで転がっている、シルバーケースの口紅。それには見覚えがあった。嫌というほど見覚えがあった。
それは思い出したくもないが、先日イザークの婚約者『』を演じた際に、ニコルが用意していたものだったからだ。
確か某有名ブランドの今年の新色とか何とか言っていた気がする。それを塗った自分を、ニコルは「よく似合います」と褒めちぎった。当然ながら嬉しくなかった。
そしてその後に「何かあったときのために渡しておきます」と言って鞄に入れられたのである。いや、スーツにだったか。どちらにせよどうでもいいので深く記憶していなかったし、いつの間にかなくなっていたことを気にもしていなかった。持っていたところでどうせゴミ箱へ投げるか、自室の机の引き出しに入れるかだろうと思っていたのに。
―――それなのに何故、今、ここで見つかる。しかもこんな面倒くさいシチュエーションをもってして。
ぐるぐるとの思考が回りだす。しかしそれはメイリンのように迷走しない。如何にうまく切り抜けるか、無理なくこの場を収めるかにすべてが集約されていた。
のことを知られるわけにはいかない。加えてこのエレカに口紅が落ちていたことも、出来るなら吹聴されたくない。そのためにはどうすればいいか。
およそ1秒に満たない時間で、の導き出した答えはというと。



「それは先日、そのブランド店のオーナーからサンプルとして頂いたものだ」
の答えに、メイリンが大きく目を見開いた。浮かんでいた涙が零れかけて、メイリンは慌てて拭う。
「義妹にやろうかと思ったが色が合わなくて、どうしようかと思っていたうちに無くしてしまった」
「・・・そうなんですか・・・・・・」
「ああ」
安堵して脱力するメイリンの手から、シルバーのケースを受け取る。キャップを開いて底を回せば、まだほとんど使っていないクリスタルピンクが見えてきた。
それをちょうど良い長さまで出して、は手を伸ばす。
「え? ク、クルーゼ秘書官・・・・・・っ!?」
「―――黙って」
左手をメイリンの頬に寄せ、瞬間的に顔を真っ赤にする彼女に、運転席から身を乗り出す。
口紅を触れさせると何をされるか分かったのか、ぎゅっと目を閉じたメイリンを冷静に観察しつつ、は彼女の唇に紅を走らせた。
可愛らしいクリスタルピンクが、メイリンを鮮やかに飾る。
「この色は、おまえに似合うな」
離された手と言われた内容に、メイリンは首まで赤く染まった。先ほどとは違った意味の涙が、目尻を零れそうになる。
そんな彼女に、は珍しく眼差しをやわらげた。
「よければ受け取れ。今日の礼だ」
「えっ・・・・・・いいんですか!?」
「ああ。だがオーナーから頂いたサンプル品だから、俺から貰ったということは他人に言うな」
「はい! あ、ありがとうございます! 大切にします・・・・・・っ」
泣き笑いの顔で喜ぶメイリンの手の平に、再び口紅を握らせる。そしてそのまま送り出し、はそこで彼女と別れた。
走り去るエレカのサイドミラーでは、小さくなっていくメイリンがいつまでも手を振っていて。
それが完全に見えなくなった頃、は大仰に息を吐き出した。
今日は工場視察に行っただけだったのに、何でこんなに疲れたのだろうと心底疑問に思いながら。
とりあえず、安全運転で自宅を目指す。





余談だが、その日の夕飯時。
「そういえば。先日ニコルにもらったクリスタルピンクの口紅をどうやらエレカの中に落としてしまったようでね。あれはフレイにあげようと思っていた品だから、後で見つけておいてほしい」
隙の欠片もない満面の笑顔でのたまう父親に、はずきずきと頭が痛むのを感じた。
その日の夜は、口紅をもらえなくて拗ねたフレイの機嫌取りに費やされ、は後日一緒に買い物に行くことを約束させられてしまうのだった。





2005年7月13日