メンデルを前にして、停止したままのヴェサリウス。
その指揮官室でフレイは一人、両の手のひらを握り締めていた。
この部屋にはいない。それどころかここ数日の間、彼女は彼に会っていなかった。
何故かとクルーゼに問いかければ、返されたのはほんの僅かな苦笑にも似た微笑。
それがいつものように揶揄を含んでいなかったからこそ、フレイの不安は募っていった。
顔が見れないからこそ、心配でたまらない。何故だろう。弱い人ではないと分かっているのに。
クルーゼがいる限りに滅多なことがあるはずはないと知っているのに、それなのに。
大きく早い己の鼓動を聞きながら、フレイは祈るしか出来ない無力な自分を感じていた。
そんなとき、ドアの開く音がして弾かれるように立ち上がる。
「―――・・・・・・っ」
愛しい者の名を呼ぶが、そこにいたのは彼ではなかった。
異常な状態のクルーゼを前にしてフレイは息を呑む。
新たな扉が、開く。
LOVE
ジンをどうにか着艦させ、は詰めていた息を吐き出した。
震えている四肢は、まだ恐怖に怯えている。涙は止まったけれど、乾いた頬が引き攣って痛い。
それでも己の握り締めている仮面を見つめ、はハッチを空けてコクピットを出た。
横に並んでいる半壊したゲイツ、その向こうのデュエル。
おそらくまたすぐに出撃することになるだろう。けれど、その前にどうしても顔を見ておきたかった。
にとってただ一人の人である、クルーゼの顔を。
仮面をきつく握り、ジンを蹴ってドッグを横切る。
指揮官室へ行こう。そう思って進んでいたとき、ふと声が耳に入った。
「ほら乗れって!」
「・・・ゃ・・・!」
小さく漏らされた声に聞き覚えを感じて振り向けば、宇宙服を着せられたフレイが一人乗りの小型ポッドへと押しやられている。
いつものならすぐさま現状を理解しただろう。けれど今の彼は思考が崩れ、どこか感情が剥き出しになっていた。
それ故に通路を外れて、ポッドの方へと降りてくる。
「・・・・・・おまえたち、何をしている?」
問いかけに、おそらく整備員だろうクルーが振り返る。
その向こうで縋るようにこちらを振り向いたフレイが一瞬目を見開き、次いで悲しげに微笑んだことには気が付かなかった。
「いや、こいつをポッドに乗せて待機させるようクルーゼ隊長から命令されているんです」
「隊長から?」
「はい」
男たちの頷きには上手く働かない頭を動かして、そしてようやく思い当たる。
ついに鍵を持たされたのだ。目の前のこの少女は。
新たな扉を開こうとしているクルーゼの意志を感じ、は何故か苦しくなる。
すべてはクルーゼの願いだと分かっているのに、何故か。
「・・・・・・分かった。この捕虜は俺がポッドに乗せておく。おまえたちは持ち場に戻れ」
「はいっ!」
敬礼をして去っていく男たちを何とはなしに見送り、はフレイに向き直った。
何だか久しぶりに彼女の赤い髪を見た、と彼は思った。
騒音に満ちたドッグで、切り取られたかのような静謐。
フレイはただを見上げ、は無気力にフレイを見下ろした。
「・・・データは持ったのか?」
いつもの冷ややかさが感じられない、疲れきった声音にフレイはこくりと頷く。
「そうか・・・・・・ならいい」
力の無い言葉。ポッドに乗れとも言わないその様子に、フレイは抱いていた胸騒ぎが的中してしまったのを悟る。
いつもは雪のように白いの頬が、今は赤みを湛え、幾本かの筋を抱いていた。
戦争が始まってから何度も見てきた涙の跡。それが今、の頬にある。
それが信じられなくて、悲しくて胸が詰まって、けれど愛おしさを感じさせた。
二ヶ月近く同じ部屋で過ごしていた時より、最も彼を身近に感じた。
想いが募る。
何かしたいと思った。
この、無防備な様を曝け出しているの、力になりたいと思った。
彼が彼でいられるためになら、何でも出来ると思った。
「・・・・・・ねぇ、」
名前が呼べて嬉しい。呼べばこちらを向いてくれる彼に出会えて良かった。
「あの人がね、言ってたの。『私は疲れた』って」
闇色の目が見張られる。感情が分かるほど近くにいられて良かった。
「・・・・・・父上が・・・?」
「そう。『早く終わらせたい』って言ってた」
「・・・・・・そうか」
どこかショックを受けたような様子を見せる。そんな彼が愛しい。
愛しいからこそ、彼は彼のままでいてほしいと思う。
フレイはそっとの頬に手を伸ばした。
宇宙服を着ているから、体温を感じることは出来ない。
けれど涙の軌跡を消すには十分だった。
泣かないで、と心から願う。
「あの人は今、とても苦しんでいると思う。どういう形であれ、あの人だって早く戦争を終わらせたいのよ。だからそのためには、があの人を支えてあげなきゃ」
顔を上げる彼の瞳に、自分の姿が映っている。
が自分を見てくれている。言葉に耳を傾けてくれている。
それだけで何でも出来ると思った。どんな戯言でも、どんな睦言でも、自信を持って囁けると思った。
「この『鍵』は私がちゃんと届けるから。だから、もの道を進んで。あの人のために生きるって決めたんでしょう?」
かすかに唇を噛み、黒髪が縦に揺れる。フレイはにこりと笑顔を浮かべた。
努力して作ったものではない。自然と笑みを浮かべることが出来たのだ。
道化だと笑われてもいい。恋愛感情など越えてしまった。
「大丈夫よ、」
両腕を伸ばして抱きしめる。まるで母がするように、そっと。
「あなたの愛が、あの人を護るわ」
恋などすでに越えてしまった。
今この胸を満たすのは、紛れもなく尊いもの。
あなたがあの人を護るなら。
私の愛が、あなたを護るわ。
愛してるの 誰よりもずっと
抱きしめていた力無い身体が、そっと動いたとき。
その腕が宇宙服越しに、抱きしめ返してくれたとき。
縋るような強さに、想いが届いたのだと知ったとき。
どんなに、どんなに嬉しかったか。
「・・・・・・おまえの死ぬときが来たら」
抱擁の中で呟かれた言葉に、フレイは涙が溢れるのを感じた。
「そのときは一瞬だけ、おまえのために祈る」
このの腕の中で。
今、死んでもいいと思った。
「ありがとう・・・・・・フレイ」
――――――さよなら。
2005年6月5日