ラクスには、アスラン・ザラという婚約者がいた。
プラントの歌姫であり平和の象徴でもある自分と、国防委員長の息子でありガンダムのパイロットであるアスランの婚約が、大衆に広く望まれていることをラクスは知っていた。
実際にアスランは少しだけ不器用だけれどとても優しい。ラクスは彼のことが好きだった。
その『好き』が恋愛の意味を持っているのかは彼女自身分からなかったけれど、それでも夫婦になってもいいと思うくらいに彼女はアスランに好意を持っていた。
・・・・・・・・・そう、持っていたのだ。
彼に、会うまでは。
The First and Last Lover
「彼女に手を触れるな」
絹のような黒髪と逞しい背中に守られて、こんなときなのに胸が高鳴った。
「もう一度言おう。彼女に手を触れるな。もしおまえたちが彼女に危害を加えた際には、自分の命は無いものと思え」
ハッキリと言い捨てられた言葉に、その場にいた者たちが残らず息を呑んだ。
庇われた形となっているラクスは、そっと前に立つ少年の軍服に手を伸ばす。
赤い、ザフトのトップパイロットである証。
それを微かに、次いできつく握り締める。
安堵の溜息が、ラクスの唇から零れた。
「・・・・・・敵艦でよくそんなことを言えるな」
少し笑みを含んだような声音に顔を上げる。
見れば自分たちよりも一回りくらい年上であろう男が、こちらを見ていた。
声と同じように、かすかに笑みを浮かべながら。
「その服、ザフトの赤だろう? エリートパイロットの証拠だ。ってことは任務はそのお嬢ちゃんのお守りか?」
「・・・・・・・・・」
たとえ捕獲されたとはいえ、敵にそうやすやすと情報を漏らすわけにもいかない。
少年が口を噤むと、代わりに背後にいたラクスが口を開いた。
「私はラクス・クラインと申します。ユニウスセブンの追悼慰霊のための事前調査に来ておりました」
「クライン嬢」
諌める少年に、大丈夫だと言うように笑みを浮かべて。
「調査の途中で地球軍の方々と出会い、私たちとの間で揉め事が起きてしまったのです。私は争いが起こる前にと、周囲の者たちに救命ポットで脱出させられました」
「じゃあ―――・・・・・・」
「宇宙を漂っていたところを助けて頂きまして本当にありがとうございます。感謝いたしますわ」
まさか礼を言われると思っていなかったのか、フラガは目を丸くした。
彼と同じように話を聞いていたラミアスやバジルールも同じように驚きを顕にして。
まるでその場を自分の雰囲気に染め上げてしまうかのようにラクスは微笑むが、彼女の前に立ち塞がっている少年は、とてもではないが好意的な態度とは言えない。
服の上からでも分かる鍛えられた身体と隙の無い態勢に、フラガは内心で目を細める。
・・・・・・危険だな、と判断して。
「それで、おまえは?」
いまだ警戒を解かない少年に話を向ける。
コーディネーターは容姿が整っているのが一般的だが、その中でもこの少年の容姿は際立っているように見えた。
黒い髪はまるで新月の夜のように色深く、対して肌は透き通るように白く滑らか。
丸みを少しずつ削っているような頬は成長期の証であり、長い手足は全身のバランスを抜群のものになり示している。
そして何より、その眼。
強い意志を持ち他者を圧する様は、子供ではなく立派な戦士だった。
「彼は、私の護衛をしてくれているのです」
ラクスが言う。
「そちらの方はご存知のようですけれども、彼はザフトのパイロットですの。名前は・といいますわ」
「―――クライン嬢」
「良いでしょう、様。もう知られているようですもの」
知られているのと自ら話すのとでは激しい差異がある。
けれどそれを今ここで軍人でもないラクスに説くことは無駄でしかなく、少年―――は、一瞬だけ目を細めて視線を彼女から周囲に戻した。
そして腰につけていた銃をホルスターごと外し、ラミアスの足元へと放る。
「・・・・・・俺たちの要求は一つだ」
背後のラクスを庇って、背を伸ばし、顎を引き、よく通る声では言った。
「俺とクライン嬢を無傷でザフトへ返すこと。その条件さえ呑んでくれれば、俺はあんたたちに危害を加えない」
「・・・・・・っ・・・それ、は・・・」
「その条件を呑むと思うのか? 俺たちが」
ラミアスが言葉に詰まったのに対し、フラガが少年を見据えて聞き返す。
もすでに悟っていた。この艦で戦闘の意味だけを取れば、敵になるのはこのフラガと、そして何故か地球軍にいるコーディネーターの少年だけだと。
だからこそ、フラガを睨み返して口を開く。
「じゃあ少しだけ難易度を下げてやる。俺はいいから、クライン嬢だけをザフトに戻せ」
「――――――様」
「彼女は軍人じゃない。あんたたち地球軍の欲しい情報を持っているのは彼女ではなく俺だ。クライン嬢を無事にザフトに戻した後なら、俺が拷問でも何でも受けてやる」
「っ!」
平然と言われた言葉に、聞いていたラクスの方が顔を青くさせた。
フラガは冷静にを見下ろしていて、ラミアスとバジルールはどうするものかと困惑しながらとフラガの遣り取りを見守っている。
火花が弾けるのではないかというほど真剣な視線が交わされて。
少しの間の後、フラガは息を吐き出しながら頭を掻いた。
「・・・・・・分かった。おまえたち二人、少なくとも嬢ちゃんだけは返せるように努力しよう」
念を押すよりも相手の気が変わらない内に進めておいた方がいい。
は睨みつけていた眼差しを幾分か和らげて、けれど軍人の顔をしたまま礼を述べた。
「感謝する。ムウ・ラ・フラガ殿」
「こっちこそ艦内で暴れられたら困るからな。コーディネーターで、しかもザフトパイロットだ。とてもじゃないが手に負えない」
同じコーディネーターというだけなら、アークエンジェルにはキラがいる。
けれど彼はガンダムに乗っているとはいえ民間人だ。
それに引き換え、今目の前にいるは正規の軍人。
この差はとても大きい。実力や行動の上だけでなく、何よりも意識の上で。
なら彼自身が最初に言ったとおり、躊躇い無く相手の命を奪うことが出来るだろう。
それだけは避けなければ、と考え、フラガは彼の要求を受け入れた。
「だが、君らは捕虜だ。この艦にいる間は俺たちの指示に従ってもらう」
「・・・・・・いいだろう。けれど決してクライン嬢に危害は加えるな」
「分かった」
頷いたフラガが敵地で信頼するには足りたのか、は半身を返して背に守っていたラスクを見やる。
愛らしい顔を心配そうに染めている少女を安心させるように笑って、その肩に優しく手を置いた。
「ご安心を、クライン嬢。俺の命に代えても、あなたは無事にザフトに送りますから」
率直な言葉にラクスは首を振る。ピンク色の柔らかな髪がその度に左右に揺れて。
「ダメです、様。命に代えてだなんて、そんなことしてはいけませんわ」
「俺は軍人ですから、こういった事態は常に想定していました。ご心配には及びません」
「様」
軍服を握り締めてくるラクスに、は小さく笑って。
そして白く細い手を温めるように両手で包む。
「クライン嬢。あなたは我々コーディネーターの象徴です。失うわけにはいかない」
「・・・・・・っ」
「俺は必ずあなたを返してみせます。・・・・・・・・・アスランの元へ」
付け足すように言われて、ラクスの顔が目に見えて強張った。
包まれていた手を外し、今度は自らきつくの手を握り締めて。
恐怖ではなく、かすかな苛立ちに震えた唇が動く。
「私は―――・・・・・・っ!」
「全力であなたを守りましょう」
ラクスの切ない訴えを遮って、少年は笑った。
それはその場にいたラミアスやバジルール、フラガでさえも一瞬息を止めてしまうくらいに美しく。
ラクスに向かっては微笑み、そして甘く告げる。
「だけど本当にどうしようもなくなったその時は―――・・・・・・」
「俺と一緒に、死んでもらえますね?」
ラクスには親と世間の定めた婚約者がいる。
彼はアスランといい、ラクスは彼のことが好きだった。夫婦になってもいいと思っていた。
・・・・・・・・・だけど。
「・・・・・・はい・・・っ」
涙が浮かんでくるのは、突然現実味を帯びてきた死のせいではない。
――――――嬉しかったから。
泣きたいくらいに、嬉しかったから。
「様となら・・・・・・喜んで」
共に死ねることさえ喜びになる。一人で生きるくらいなら、どうか一緒に。
そんな気持ちを抱くことなんて今までなかった。アスランにだって、そんなことは思わなかった。
きっとこれが、初めての。
そして最初で最後の。
敵ばかりのアークエンジェルの中で、不謹慎だけれどもラクスはとても幸せだった。
愛しい人と死ねるかもしれないという幸福を、彼女は喜んで享受していた。
守ってくれると言ったの背中を見ながら密やかに願う。
どうかいっそ、このままで――――――と。
2004年3月13日