手にした高揚感に時が戻ったのかとさえ思った。
三年前の自分に。
幸せな日々を過ごしていたあのときに。
戻れたのかと思った。
けれど現実は違う。
新しい世界が始まった。
precious symmetry
合格者の発表は午後三時。
食堂で昼食を食べ、各個人思い思いの時間を過ごす。
は荷物の整理を終えると、部屋を出た。
向かう先はフィールド。
青い芝生が一面に広がって。
自分の、いるべき場所。
寝転ぶと背中に芝の柔らかい感触が感じられて。
空には青い空が広がっている。
の好きな色。
充足した気持ちがの中を満たしていた。
西園寺に頼まれ、葵に勧められて選抜合宿に来た。
そこで久し振りに「サッカー」というものに触れて。
自分の熱を自覚させられて。
自覚せざるを得なくて。
そして再度頂点を望まずにはいられなかった。
「」
閉じていたまぶたに影が出来て、は目を開けた。
サングラスを通して見えるのは青く色づけられた三上の姿。
「ここ、いいか?」
こくりと頷く。
三上は腰を下ろすとと同じように仰向けに転がった。
見えるのは青空。
「俺、選抜落ちるわ」
そう言った声は普段と何一つ変わらなかった。
「水野を意識してしまくって、自分勝手なプレーばっかして。ホント馬鹿なことしたぜ」
は何も答えない。
「でも得られたものもある」
それは確固たる言葉。
「サッカーが好きだってこと、久し振りに思い出した。それも全部オマエのおかげだ」
と一緒にプレーを出来て。
素晴らしい才能を前に嬉しくなって。
自然と素直な気持ちになっていた。
身を起こして、を見て柔らかく笑う。
「サンキュ」
「・・・俺は別に何もしていない」
無表情な声は変わらない。
フィールドの外である今は笑顔も浮かべてないけれど。
「俺たちはまだまだ若い。これからも伸びる」
「わかってる。諦める気はねぇぜ」
ニヤリと笑う三上に小さく笑みを漏らして。
「頑張ろう、お互い」
交わすエールは自分への誓い。
宿舎へ戻り廊下を歩いていると後ろから人の気配を感じては振り返った。
見ればこちらへと向かって走ってくる少年。
「!」
「何か用? 真田」
「いや、用っていうか・・・・・・っ!」
問われて焦りだす真田に助け舟を出したのは隣にいた若菜で。
「コイツさーのケータイ番号聞きたいんだって。よければ教えてやってよ」
「結人!」
真っ赤になって真田が声を荒げるが、は無表情のまま。
「俺の番号を知ったところで別にいいことはないと思うけど」
「っんなことねぇよ! 俺はっ・・・と友達になりたくて・・・・・・!」
口をついて出た言葉に真田自身がさらに顔を赤く染めて。
黙って会話を聞いていた郭は小声で笑う。
「一馬が自分からこんなこと言うのって珍しいことなんだよ」
「そーそー。いつもは人見知りバリバリなのにな」
親友たちの言葉に真田は俯いてしまって。
けれどはポケットからブルーグレーの携帯電話を取り出した。
「俺と友達になっても面白くないと思うけどね。それでもよければ」
「・・・・・・・・・っ!」
ガバッと顔を上げた真田に少しだけ口元を緩めて。
「さんきゅ!」
「あー一馬だけズリィ! 俺も教えてよ。メール交換しようぜ! 桜庭から聞いたんだけどってゲーム強いんだろ? 今度一緒にやろうぜ! な!?」
強引に言われては断ることも出来ず、流されるまま番号を教えて。
「、俺も教えてもらえる? 俺もと友達になりたいから」
「だから俺と友達になっても面白くないと」
「そんなことないよ。俺はと友達になりたい。もっと一緒にサッカーとかしたいよ」
結局電話番号とメールアドレスは交換されて。
グループに『サッカー関係』という項目が登録された。
集まられたミーティングルームはたくさんの少年たちで賑わっていた。
緊張した表情の者、楽観している者、悲嘆にくれている者。
それぞれの気持ちを感じ取って、は一番後ろの席につく。
これから下される審判に思いを馳せて。
西園寺が告げた励ましの言葉を実践できる選手がこの中にはたして何人いるのだろうか。
諦めずに続けること。
超えることの出来ない壁に向かって何度も挑戦すること。
それは何より難しい。
けれどそれが出来なければ生きていけない。
サッカー選手としても。
一人の人間としても。
一人ずつ読み上げられていく名前。
その人数は20人を超えて。
「・・・そして怪我したときの補欠として、小岩、風祭」
ざわっと室内がざわめいて、はそっと目を閉じた。
呼ばれた22人の名前。
渡されたユニフォーム。
自分はその中に入ることは出来なかった。
サッカーをする資格はない、ということか。
自嘲的な笑みが零れたそのとき。
「待ってください」
涼やかな少年の声が響いた。
立ち上がったのは茶色の髪を真ん中で分けた整った顔の少年。
「何かしら? 水野君」
西園寺が問いかけ、室内にいる人全員の視線を受けながらも動揺することなく。
「どうして、がメンバーに入っていないんですか?」
一瞬部屋が静まり返った。
そしてにわかに騒がしくなる。
「がこの中で一番上手かった。それは見ていれば分かるはずです。それなのにどうしてが選ばれていないんですか?」
「俺もそう思います」
同調するように郭が立ち上がった。
「の実力が足りなくて選ばれないというのなら、ここにいる全員が選ばれないはずです。理由を教えてください」
選手たちの目が西園寺を向く。
真剣な瞳に少しだけ驚いて。
そして納得する。
彼らも、自分と同じように彼の天衣無縫な強さに憧れを抱いたのだと。
はそれを自分のことのはずなのに、どこか遠い出来事のように捕らえていた。
もう答えは出されたのだから、これ以上の詮索は必要ない。
自分の実力はもう戻らない。
そういうこと。
それだけのことなのだ。
悔しい。
悔しいけれど仕方がない。
葵がガッカリするだろうな、とは頭の片隅で考えた。
でもこれでサッカーを諦めることが出来る。
自分はもうフィールドに立つことはない。
きっともう二度と。
サッカーはしない。
「静かに」
凛とした声が響いた。
さざめいていた室内が静まり、視線が壇上の西園寺一人に注がれる。
全員の目が自分を見ていることを確認して。
一番後ろの席にいるは俯いたままだったけれど。
「君がメンバーに入っていないのにはちゃんと理由があります」
再び室内が騒がしくなる。
はきつく拳を握り締めた。
もういい、そう言いたかった。
これ以上自分の過去を美化したくない。
一瞬抱いた夢を堕としたくない。
唇が震えた。
「君にはU−18の合宿に参加してもらいます」
息が止まった。
「君の実力からその方がいいと判断しました。もっと高いレベルで練習した方が君の為だと。それが彼が選抜に選ばれなかった理由です」
ざわめく選手たち。
けれど異論を唱える者は誰一人いなかった。
それがさも当然のことのように。
自分はサッカーをしてもいいのだろうか。
一度捨てたサッカーを。
あの日からもう二度としないだろうと思っていたサッカーを。
再び始めてもいいのだろうか。
「君」
ビクリと肩を揺らしてがゆっくりと顔を上げた。
皆が見ている向こうで西園寺が柔らかな笑みを浮かべている。
「色々と大変なこともあるだろうけれど頑張ってね。時々は東京選抜にも遊びに来てちょうだい」
優しく言われた言葉に目が熱くなって。
涙が浮かんで。
サングラスをしていてよかったと思った。
「貴方のサッカーをこれからも応援してるわ」
唇を噛み締めた。
泣いてはいけないと自分に言い聞かせて。
カタリと席を立つ。
西園寺に向けて。
自分をサッカーへ連れ戻してくれた彼女に向かって。
深く頭を下げた。
言葉に出来ない感謝を胸に。
今、再び走り出す。
「ハイこれが俺のケータイ番号とアドレス。でこっちが住所と家電、パソコンのアドレス。学校は前にも言ったけど飛葉中だから。暇が出来たらいつでも連絡すること! それとまたあのフットサル場に来るときは必ず教えなよ? 分かった!?」
「わかった」
「じゃあちゃんと実践しろよ!? 理解と実行は別物なんだからね」
「・・・・・・わかった」
椎名に渡された紙を手帳の間に挟みこむ。
肩に背負ったバッグは来たときよりも軽く感じた。
「U-18の練習がないときは選抜に来いよ。一緒にサッカーしようぜ」
黒川の言葉にコクリと頷いて。
座っていたベッドから立ち上がった。
「椎名、黒川、畑、三日間ありがとう。また会う日まで」
「すぐに会うんだよ。メールするからね」
「ああ。それじゃ」
手を振って別れた。
束の間の戦友に。
これからも共に歩んでいくだろう仲間に。
今はサヨナラ。
宿舎の出口に立っている人がいた。
この場所に不釣合いなスーツ姿。
一瞬息を呑んで。
「榊さん」
「やあ君。三日間お疲れ様」
その言葉に軽く頭を下げて、そしてまっすぐ榊を見つめる。
瞳の強さに思わず目を見張った。
そして実感する。
この少年は紛れもなく選ばれた人間なのだと。
「・・・U-18の合宿は8月の半ば頃だ。追ってまた連絡する。そこが君のレベル合わないようだったらまた他の居場所を探せばいい」
「・・・・・・榊さんが、手伝いをしてくださるのですか?」
「ああ。君ほどの選手を放っておくわけにはいかないからね」
「それじゃあ・・・・・・・・・」
いつもは無表情な声が少しだけ揺れて。
けれど瞳は逸らさずにまっすぐ前を見つめて。
「俺は・・・・・・また、サッカーを始めてもいいんでしょうか・・・?」
許されたいから。
榊は優しく微笑んだ。
160cmを少し超えたくらいのの頭をポンポンと軽く撫でて。
「それは君が決めればいい。けれどもし君が少しでもサッカーを好きなら、始めるべきだと思うよ」
「好き、なら・・・・・・」
「好きだろう? サッカー」
・・・・・・・・・コクリと、小さく頷いた。
あの日を境にやめたサッカー。
辛いことや悲しいことばかりを思い出させるボールにナイフを突き立てたこともあった。
忘れたくて、けれど忘れてはいけなくて。
どうしようもない自分を支えてくれた人がいた。
すべてを捨ててやり直そうと思って。
そう思って日本に来たはずだったのに。
それなのに忘れられなかった。
好き
「俺は・・・サッカーが好き・・・・・・です」
呟いた言葉は誰にも言えなかった真実。
合宿所を出たところではもう一度振り返った。
青い芝生、その向こうに建っている宿舎。
リスタートを切ったこの場所を自分は決して忘れないだろう。
そしてここで出会った仲間たちのことも。
「君! またね!」
手を振る風祭たちに最上級の笑みを浮かべて。
「ああ、またな!」
彼は今、走り出した。
2002年8月27日