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三月を迎えた頃、沙智は一人で保健室にいることが多くなった。
一人とは言ってもその部屋の主である保険医はいたし、来室する生徒もゼロではなかったのだけれど。
沙智は一人で、保健室にいた。
シゲは今月末に控えたナショナルトレセンで、風祭と対戦するためにトレーニングを積んでいる。
それはとても喜ぶべきことだと、沙智は思う。
シゲが何かに打ち込むことが出来るのは、本当に嬉しいことだから。
だから一緒に帰ろうと言ってくれる彼の邪魔をしたくなくて、沙智は保健室にいることを選び、断った。
相変わらず週に一度、委員会のために現れる少女には、約束どおり一切の接触を絶つことにして。
下校時刻ギリギリまで保健室に滞在し、その後はのんびりと夕飯の買い物をしてから帰る。
いつも仕事を早く切り上げる父親が帰ってくるまでは、家に一人。
長く保健室にいるようになったのは、いつ倒れても平気なように。
愚者は懸命に嘘を吐く
小学生だった頃。
沙智は、サッカーをしていた。
白と黒のボールを追いかけ、日が暮れるまで遊んでいた。
シュートにカーブをかける練習をして、それが決まれば全身で喜んで。
共にプレイしていた仲間もいた。学校のチームに入っていて、学年の所為でレギュラーではなかったけれど。
サッカーをしていた。
サッカーを、していた。
今はもう、夢だったとしか思えない。
少し動けば心臓が痛みを上げる。これ以上はダメだと警告を告げる。
最初に倒れたのは、確か試合の前日だった。
小学校同士の試合だけれど、すごく楽しみにしていて。
なのに出られなかった。
気がついたときには管に繋がれていた。
自分はどこにいるんだろうと思った。
生きている感じがしないから、母のように死んだのかと思った。
プルルルルルル・プルルルルルル
ダイニングのテーブルの上で鳴り始めた携帯電話に、沙智は冷蔵庫を開けていた手を止めた。
この携帯にかけてくる人は、本当にわずかしかいない。
父親と、シゲと、保険医と、あとは不在連絡先の身内と病気治療の関係者のみ。
だから初期設定から着メロを変える気もないし、相手別に設定する気もない。
だってこれは、命を繋ぐための管だから。
「もしもし? トレーニングはもう終了?」
ディスプレイに映し出された名前は、唯一の友達だった。
小学校のときのサッカー仲間は、今はどこで何をしているのか知らない。
サッカーをしていてくれると良いけれど。
『ひとまず休憩っちゅうとこや。沙智はもう夕飯食べたん?』
「食べたよ」
『何を?』
「チャーハンとスープ」
どちらも食べ切れなくて残してしまったけれど。
その事実は言うことはない。言ってはいけない。
せめて彼がちゃんとサッカーと向き合って、納得のいく答えを得るまでは。
『何や、もっと栄養あるもん食うとき』
「・・・・・・だって明日がスーパーの特売だから、それまで我慢しようかと」
『自分は主婦か!』
電話のこっちとむこう、二人して笑った。
一人だから作る気がしない、という言葉も言ってはいけなかった。
シゲの声が電波越しに響く。
『あのな、俺、明日から関西行ってくるわ』
・・・・・・あぁ、やっとだ。
そう思って、沙智は無意識のうちに唇を綻ばせた。
三学期の終業式も昨日終え、トレセンまでもう日がない。
カウントダウンは一週間を切った。
シゲは変わらずに練習を重ねているし、サッカー部の風祭や水野、不破なども部活に気合が入っている。
毎日、本当に毎日保健室から眺めていたのだから、それくらいのことは分かっている。
頑張って欲しいと思っていた。個人的にはやはり、シゲに一番。
頑張って欲しいと、願うと同時に。
おいてかないで
「トレセンにはそのまま直行?」
聡い彼の邪魔にならないように、決して気づかれないように。
『せや。バスで六時間以上やて。どうせなら飛行機で行きたいわ』
「サッカー連もそこまで金は回せないだろ。うん、じゃあエコノミー症候群のバス版にならないよう気をつけて」
『始まる前から勝負は決まった! みたいやな』
「遠い方から負けてく? じゃあ優勝は東北選抜だ」
『あかんわ、それ。勝つのは関西に決まっとるやろ』
「――――――あぁ」
心の底から祈るよ。誰でもない、君に勝利を。
微かに震えそうになる唇を叱咤して、沙智は言葉を紡いだ。
電話で良かった。顔を見せ合ってじゃ、絶対に言えない。
情けなさ過ぎて、本当に泣きそう。
自分はいつからこんなにも弱くなった?
いつからこんなにも、醜くなった?
「シゲ」
『ん?』
――――――必死に笑って。
「・・・・・・いってらっしゃい」
どうかこの嘘が誰にもバレませんように。少しだけでいいから、どうか。
沙智は服の上から胸元を握り締めて言った。
この嘘だけは本当になるように願いながら。
必死に。
祈って。
『土産は優勝カップや。期待しとき』
電話口、シゲの声が聞こえる。
俺を置いて、遠くに行ってしまわないで
・・・・・・・・・本当はそう、叫びたかった。
2004年7月17日