欲しかったものは一つだった。
ひとつだった。
笑みは風、零れるは涙
それは唐突のことだった。
放課後の保健室で、はいつものように保険医とお茶を飲んでいて。
カーテンに仕切られた向こうのベッドではこれまたいつものように佐藤成樹が惰眠を貪っていた。
今日は保険委員の仕事は特にないので、のお目当ての少女が来るはずもなく。
けれど本来の目的はそれではないから。
はいつものように軽い冗談を交えながら保険医と話していた。
そこに、突然。
「・・・あの、すみません・・・・・・・・・」
突如現れた影に、思わず笑みを消してしまった。
カラッとできるだけ音を立てないように扉を開けた人物に、保険医は意外そうな顔で笑いかける。
「風祭君、どうしたの? どこか怪我でもした?」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
慌てたように手を振る風祭をは冷めた目で見て、けれど視線が合った瞬間にはにこやかに微笑んだ。
一瞬前の顔など覗かせずに、それはもういつものように。
「どした? シゲでも探しに来た?」
「あ・・・・・・はい」
「そりゃ残念。シゲならここにはいないよ。屋上かどっかで寝てんじゃないの?」
保険医は思わず軽く目を見開いてを見た。
風祭も驚いたようにを見つめていて。
当の本人はクルクルと回る丸椅子に腰掛けたまま、インスタントコーヒーの湯気を立てるマグカップを手に持って。
もう一度、優しく風祭に微笑みかける。
「シゲならここにいないよ。他に何か?」
隙などない、完全な笑顔で。
本能的に判った。
彼は自分のことを好きではない、と。
敵意さえ持たれているのだと。
本来ならば魅了されても可笑しくないくらいの、綺麗な笑顔に。
棘を見つけてしまった。
心に深く突き刺さる、刃を。
羨ましい
ゴクリと、誰かが唾を飲んだ。
人のいるはずの保健室で、カーテンが風に揺れる音だけがする。
固まって動けない。縫い付けられて動けない。
認めたくないから、動かない。
カーテンが、風に揺れる。
舞い上がる。
まっすぐな眼差し。
失くしてしまったもの。
自分はもうフィールドには戻れない。
どこにも行けない。
自由に生けない。
逝くことしか、出来ない。
嫉ましい
はゆったりとした動作で額に手をやり、失笑気味に口元を横に引いた。
零れるのは笑い声ではなく、震えないように努力した低いもので。
「ゴメン。俺が悪かったよ。シゲならそこのベッドで寝てる」
目元を手の平で隠して、浅い溜息とともに肩を落としてから顔を上げる。
いつもと同じように、笑顔で。
「起こしてやりなよ。きっと良い夢見てるだろうからさ」
風に揺れるカーテンの仕切りを指差しては笑う。
それに戸惑いながらも風祭はベッドへと歩み寄った。
視線は笑うからそらせずに、カーテンの間に滑り込むように身体を隠れさせて。
「・・・・・・シゲさん。シゲさん、起きてください」
少しだけ強張った声がだんだんと普段のように穏やかになっていくのをカーテン越しに聞いては胸を下ろす。
自然とセーターの上から左胸を押さえて。
大きく二回、深呼吸をして。
心配そうな顔をしている保険医にどうにか笑みを浮かべて見せた。
悔しい
「何や・・・せっかく人が気持ちよお寝てたんに・・・・・・」
「でも部活ですから。仕方ないですよ、シゲさん」
「へぇへぇ」
シャッと音を立ててカーテンを開け現れた二人を横目で見て、胸に当てていた手を放す。
「何の夢見た?」
「お好み焼きとたこ焼きに囲まれて窒息死しそうになる夢やったわ」
「それじゃ起こしてもらって良かったじゃん」
声を上げて笑うを見て、シゲは表情を変えないまま肩をすくめた。
そして乱暴にの黒髪をかき混ぜる。力強く、けれど優しく。
目を閉じてそれをやり過ごした。
波立っていた心が少しずつ引いていくのを感じて内心で苦笑する。
どうかしてる、まったく。
判りきっていることなのに。
椅子を回して立ち上がった。
鞄を手に出て行こうとしていた二人が振り向いて、風祭の顔に微量の緊張が走ったことを見ては苦笑する。
「ゴメンなぁ、風祭。俺、さっき意地悪しちゃった」
パチクリと目を瞬いてみせたシゲがと風祭とを見比べて。
「カザ。に何かされたんか? コイツめっちゃ性格悪いから気をつけたほうがえぇで?」
「・・・・・・あ、いえ、そんなことないです。僕なら大丈夫ですから」
彼の素直で謙虚な性格を知っていてそう言ったシゲには目を細めて酷薄に笑った。
本当に性格が悪いな、お互い? と目で笑い合って。
「本当にゴメン。ただ、羨ましくて」
ニッコリと微笑んでは言った。
手はズボンのポケットに差し入れたまま、他愛無い話でもするかのように。
「俺、桜井さんのこと好きだからさ。桜井さんに好かれてる風祭が羨ましいんだよ」
唇を横に引いて、柔らかく微笑んだ。
「それじゃ・・・・・・部活、頑張って?」
甘い笑みに背中を押されるようにして保健室を出た。
それでも足は動かなくて、指先が震えるのに気づかなかった。
心の奥深くに焼き付いてしまって。
「・・・・・・ポチ。はよ行くで」
ポンッと肩を叩かれてどうにか廊下を歩き出す。
歩いている感覚がない。床はこんなに柔らかかっただろうか。
彼は今、扉一枚隔てたところでどんな顔をしているのだろう。
あの綺麗な顔で、笑っているのだろうか。
「気づいてへんかったわけやないやろ」
降ってくる声がどこか遠くに聞こえる。
「桜井の気持ち、気づいてたやろ? いくら鈍い自分かて」
「・・・・・・・・・・・・・・・は、い」
意識がぼんやりとしている中で返事を返す。
そう、気づいていた。なんとなくだけど、そうじゃないかと思うことがあった。
自意識過剰かもしれない、なんて思っていたけれど。
まさか、こんな形で知ることになるなんて。
「カザ。自分余計なこと考えて桜井に何か言うんやないで。かてそないなこと望んどるわけやない」
「・・・・・・・・・・・・じゃあ、なんで」
綺麗で、けれどどこか触れることを拒むような笑み。
鋭いのに今にも消えてしまいそうな不安感。
「―――――そんなん」
吐きすてるような声だった。
「カザが、好きやからやろ」
二人が出て行った保健室で、再び丸椅子に座り込んだは大きく息を吸い込んで呼吸を繰り返した。
左胸を押さえて、ゆっくりと整えるように。
「大丈夫?」
「・・・あーもう平気っす。全然オッケー」
ヒラヒラと手を振って軽口を言う姿に保険医はホッとしたように胸を撫で下ろす。
マグカップのコーヒーは冷めてしまっていた。
混ざりきれなかったミルクが表面に浮かんでいる。
それを見て思わず苦笑した。
さっきの、強張って目を見開いた顔。
本当は言うつもりなんてなかったのに。
「傷つけちゃったかなー・・・・・・」
マズった、と呟いてコーヒーをすする。
やっぱり冷めると美味しくないなんて思いながら。
遠くから聞こえる明るい声。
「俺も・・・・・・・・・あんな風に笑ってたのかな・・・・・・・・・」
左胸が軋む。心臓の奥が痛む。この哀しみにはまだ慣れない。
諦めるしかないということは、判っているけれど。
もう笑うことしか出来なくなってしまった。
鞄の中の携帯電話が着信を知らせる。
はそれを読んでかすかに笑った。
『部活が終わったらお好み焼き食いに行くで。そこで待っとき。』
優しさに涙が出そうだった。
2003年5月23日