気がついたときにはすでにいなかった。
だから、今度こそ。





指先の傷





保健室から教室までの道のりをのんびりと歩きながらはあくびをした。
噛み殺さずに、それはもう大口を開けて。
けれど注意するものは誰もいない。
それもそのはず、並ぶ教室からは教師の説明する声しか聞こえてこないから。
三時間目の授業中、は2年A組を目指して歩いていた。



ガラッという大きな音に佐藤成樹は机につっぷしていた顔を上げた。
クラスメイトの視線が一番後ろの席の自分を通り越して先を見ている。
その目は驚きと緊張、そして微かな敵愾心を含んでいて。
何だろう、と思わず首をかしげた。
そして沈黙している教室に響く声。
「すいません、遅れました」
・・・・・・・・・振り向いた教室の後ろ。
保健室で見慣れた、彼がいた。



白いワイシャツのボタンを上二つ外して、グレーのベストを着て学ランは羽織っていない。
手を無造作にズボンのポケットへと入れて、立っている姿。
黒髪に、割合と整った顔。
普通ならばきっとクラスの中心にでも立てるだろう雰囲気を持った生徒。
けれど、彼はそうではなかった。
戸惑う空気に、は笑う。
「席替え、したんですか?」
「・・・え・・・・・・っ」
壇上の英語教師、担任でもある香取夕子はチョークを持っていた手を止めたまま、我に返ったように首を縦に振った。
「そう、そうなの。君の席はそこ。窓際の一番後ろ」
示された場所には何も置いていない机と椅子があって。
それを確認するとは香取へと視線を向け、穏やかに笑った。
「どうぞ、授業の続きを?」



ざわついた教室をどうにか収め、授業が再開される。
けれど一度失ってしまった生徒たちの集中力を取り戻すのは難しく、はチラチラと向けられてくる視線に内心で苦笑した。
自分を窺ってくるクラスメイトたち。
それも仕方ないことなのだろう。なにせこうして授業に来ることなど久しぶり。
名前も判らないクラスメイトを眺めながら、感慨深げに黒板を眺める。
鞄は保健室に置いてきてしまったため、机の上には何も出さずに。
けれど突如頭に軽い感触を感じては反応した。
思わず周囲を見渡せば、いくつか向こうの列からこちらを見ている生徒が一人。
他は視線が合うと目を逸らすのに対し、まっすぐに向けられてくるそれに対しては笑みを返した。
そして投げられた紙切れを拾い上げる。
学校からのお知らせのプリントの裏に、雑な字でメッセージが並んでいた。
『授業に出るなんて珍しいやないか。どないしたん?』
小さく笑って、返事を書こうとしてペンがないことに気づく。
机の中を漁ってみても、そこにはペンはおろか教科書一冊も入ってはいない。
そんな自分に呆れつつ隣の少女からペンを借りた。
『気まぐれ。保険医の先生にこれから客が来るからって追い出された。』
紙飛行機の形に折りあげて、目標に向かってフライトさせる。
・・・・・・無事に着地。
しばらく間があって授業を聞いていると、さらに改造を施された機体が戻ってきた。
『いきなり現れたからみんなビビッてたやん。俺もせっかく寝てたんに邪魔されたわ。』
『それは失礼。でも俺だって2-Aの生徒なんだからクラスで授業受けたって普通じゃん?』
『いっつも保健室でサボってる奴がよう言うわ。前に来たのいつか覚えてへんやろ? 先月の初めやったで。』
『マジ? うわ、さっぱり忘れてた。まぁでもテストには出てるからそれで良しとして。』
『学年ベスト10に入っとるしな。先生方も何も言われへんやろ、それは。』
『それに俺、先生方に嫌われてるし。というか敬遠されてる? 仕方ないけど。』
『扱い辛いしな。しゃーないやろ。』
『シゲに言われたくないし。』
『俺かてに言われとうないわ。』

最後のほうになってくると、紙飛行機はジェット機のような外見になっていて。
蛍光ペンでラインを引いたり、赤ペンで日の丸を書いたり、似ていないピカチューを書いたりして。
『2-A発、天国逝き』の文字にツッコミを入れようとペンを持ったとき、自分とは反対側の方向で声が上がってシゲは振り向いた。
見れば自分の遊び相手であるの目の前に、オレンジ色のスーツに身を包んだ女性が立っている。
それは言わずもがな、教師である香取だった。
怒りをあらわにしている彼女にも、は穏やかに微笑む。
「先生。綺麗な顔が台無しですよ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜君!」
「ハイ」
「教師をからかうんじゃありませんっ! 黒板の問題を解きなさい!!」
ビシッと指名され、は苦笑に近い笑みを浮かべながら立ち上がる。
そんな落ち着いた様子にシゲは「どっちが大人だか分からんわ」と思いつつ紙飛行機にさらに改造を加えていった。



黒板には丸文字で『どうしていいか分からない』と書いてあって。
これじゃ問題の趣旨が判らないな、と思いながらもはチョークを手に取った。
そして書き付ける。
綺麗な筆記体で英文を書き終えると、軽く手を払って振り向いた。
の行動に唖然としているクラスメイトたちと、満足気な中にも苦虫を噛み潰しているような香取へと微笑んで。



「Because I do the same thing being to learn also two times, it being possible, you don't think that it is proper?」
(英語:俺は同じことを二回も学んでいるのですから、出来て当然だと思いませんか?)


滑らかな発音にクラス中が沈黙し、そんな中では楽しそうに口元を緩めた。
堪えきれない笑いが、唇の端から漏れる。
完全に笑い出してしまう前に、はヒラヒラと手を振って席ではなく出口へと向かった。
「センセ。俺、手ぇ汚れちゃったから洗ってきまーす」
指先にうっすらと付いたチョークを示して、左手で扉を開けて。
「じゃーねー」
少年は姿を消した。



沈黙の漂っていた教室は、その瞬間に今まで以上の騒がしさを取り戻して。
某クラッシャーに破壊されたときと同じように怒り狂う担任を止めるのに生徒たちは必死で。
戸惑いながら助けを求めようと振り返って、風祭将は気づいた。
「・・・シゲさん・・・・・・?」
金髪のクラスメイトが、姿を消していたということに。



「あっはっは! 香取センセーって知らなかったのか? 俺の一番の得意科目は英語だってこと」
「姐さんはちょお抜けとるからなぁ。せやけどこれでまた教室に来ぃへん気やろ、自分」
「騒ぎが収まった頃には行くよ。人の噂も75日?」
「二ヶ月半も空ける気なん? 休みに入るで、その頃は」
「それは素晴らしい! あーでも桜井さんに会えないのは悲しい」
「またアメリカ行くん?」
「さぁ? 今回は日本かも。良い先生が見つかったって父さんが話してたし」
「ほな遊びに行くわ」
「見舞いって言えよ」



授業中の屋上で笑いながら会話する二人。
クラスの喧騒からは離れたところで、彼らは日常を過ごしていた。





2003年5月5日