この世界が好きだ。
この世界に来れてよかった。
元の世界を忘れたい。
元の世界に戻りたくない。
ずっとここにいたいと思う。

この世界は、シャンバラだ。





シャンバラを請う者





、もう起きる時間よ」
かけられた声に、漂っていた意識が急速に浮上した。
まどろんでいた瞼を開けば、自分を覗き込んでいる顔が柔らかに微笑む。
その仕草が嬉しくて愛おしくて手を伸ばせば、くすくすと笑いながら指を絡めてくれる。
毎日のように繰り返しているのに、その度に泣きたくなってしまう。
これは喜びの所為だと分かってくれているだろうか。
「・・・・・・おはよう、リザ」
「おはよう。今日はシュミット教授に会うんでしょう? そろそろ起きないと遅刻するわ」
「んー・・・・・・起こして?」
「馬鹿なこと言わないの。あなたもう20歳でしょう?」
「・・・・・・ん」
言葉とは裏腹に、絡めた指に力を込めて引いてくれる。
その手は柔らかく、温かい。変な癖も肉刺もない綺麗な指先。
起こした上半身で逆にその手を手繰り寄せ、唇を軽く触れさせる。
形よく伸ばされた爪を、舌でそっとなぞって。
「20歳だよ。だからもう結婚も出来る」
見上げるようにして、彼女の顔を覗き込む。
僅かに目を見張った後、照れたようにはにかむ顔。
その頬に手を伸ばして、慈しむように包み込んで。
「今日、教授からスポンサーを紹介されるんだ。その人とうまくいけば、これからはずっと研究で食べていける。そうしたら」
瞳を見つめて、告げる。
「結婚しよう、リザ」
・・・・・・」
「愛してるよ。・・・・・・返事は?」
問いかければ、うっすらと染まった顔が近づいて、唇に温かな弾力。
朝から交わすには深い口付けに、確かな喜びが溢れていて。
その柔らかな身体を、はしっかりと抱きしめた。
この世界のすべてを、一つたりとも逃さないように。



並ぶ建物、行きかう人々、交わされる言葉、過ぎていく日常。
扉のこちら―――ミュンヘンに着いてしまったとき、が真っ先にしたのは人探しだった。
元いた世界と大して変わらない世界。惑っていたときに、エドワードによく似た人物と出逢った。
けれど彼はエドワードではなかった。エドワードではない、でも確かにエドワードという人物。
そのことを知ったとき、全身が震えた。
いるのだ、ここに。ここにもきっと、彼女が。
彼女が、いる。
そう思った瞬間、は走り出していた。

戦時下にあったドイツを、街から街へと渡り歩いた。
錬金術も使えなく、ただの未成年であるは、無力な子供でしかなかった。
それでも必死で生きた。彼女がいる。それだけが前に進む希望だった。
彼女がいる。彼女に会える。もしかしたら、もしかしたらこの世界にいる彼女は。
この世界にいる彼女は、好きになってくれるかもしれない。
あの男ではなく、自分を。好きになってくれるかもしれない。
それだけを願って、必死で駆けた。

出逢えたのはこの世界に来てから一年後のことだった。

小さな子供たちを相手に、教鞭をとっていた彼女。
その金色の髪に、その姿勢のよい後ろ姿に、その凛とした声に、何もかもに覚えがあった。
動けなかった。涙が零れた。自分がどんなに彼女に焦がれていたのか身をもって知った。
愛している。愛していると、心から思った。



この世界での彼女は、名を、エリザベス・ホークアイといった。



知り合う過程を作り出し、好意を抱いてもらうために画策し、触れる許可を手にする謀略を練った。
馬鹿な見栄を張り、年齢を二つ誤魔化した。両親は戦争で死に、天涯孤独だと己を語った。
やましいとは思わなかった。恥ずかしいとも、情けないとも思わなかった。
そんなもので彼女を抱きしめられるのなら、いくらでも嘘をつけた。
ガードの固さには慣れている。けれどあの男がいない分、心に近づくのは容易かった。
微笑んでくれる彼女が愛しかった。
口付けてくれる彼女に想いが募った。
共に朝を迎えた日、その腕で泣いてしまった。
そして今、彼女は自分の隣にいる。
自分だけを見てくれている。
愛していると、言ってくれる。



ここはシャンバラだと思った。



「こんにちは、シュミット教授。この度はお世話になります」
ミュンヘン大学にある研究室の一室で、は目の前の男に頭を下げた。
初老を迎え、けれど精力に溢れた男は大きく笑っての肩を叩く。
「いやいや、、君の研究が素晴らしいものだったからだよ。特に『人体における精神と魂の割合』、あの論文は実に見事だった!」
「ありがとうございます」
「今後も人体に関する研究を続けていくのだろう? だとすると学会に君の名が轟く日も遠くないな」
朗らかに「期待してるよ」と言われ、も同じように頷く。
その身体はこちらの世界に来た三年前からほんの少ししか成長していない。短く切ってしまった髪も、あまり伸びない。
そのことについて、は考えることを放棄していた。正確に言えば、考えたくはなかった。
彼女がいる。それだけで十分だから。
コンコン、というノックの音が部屋に響き、教授が腰を上げる。
「ああ、来たな」
も同じように立ち上がると、ドアへ向かいながら教授が話す。
「彼はまだ若いが辣腕の企業家でね、大学では私の教え子でもあった。君の研究に多大な興味を持っていて、是非支援したいと言っている」
ノブが回され、扉が開く。
その光景を眺めていたは、不意にひゅっと息を呑んだ。
開けられたドアの向こうに立っていた男に、全身の血が下がった気がして。
教授が笑顔で紹介する。
「ロイ・メイヤー氏だ。―――ロイ、この子がだよ」
「まさか・・・・・・こんな可愛い子が、あの論文を?」
「それは禁句だ。鋭い蹴りが飛んでくるぞ」
笑い声に、身体が震えた。出会いさえ、まるで過去の繰り返し。
男が手を伸ばしてくる。手袋のない、素肌の手を。
伸ばし、の手を取り、握り、笑った。
「はじめまして、。私が君のスポンサーだ」
艶やかな黒髪も、隙のない身のこなしも、低く響く声も、何もかもに覚えがあった。
忘れるはずもない。忘れるわけがない。まさか、ここまでそっくりだなんて。
恐ろしい現実に、生身の足が竦んだ。



ここはシャンバラ。シャンバラのはずなのに。
それなのに、何故。



「――――――・・・?」
呼ばれた名に、慌てて顔を上げた。その際にすれ違う人にぶつかりかけて、急いで体勢を直す。
「えっ? あ、何?」
「何、じゃないでしょう? 私の話、ちゃんと聞いててくれたのかしら?」
振り向けば、大好きな彼女の姿。少し眉を顰めている顔も綺麗で、思わず素のまま答えてしまう。
「・・・・・・ごめん。聞いてなかった」
「そうでしょうね」
彼女が肩を竦める。
取り繕うように、は慌てて問い返した。
「ごめん。もう一回言って? 今度はちゃんと聞くからさ」
「どうかしら。研究室から帰ってきてずっと、あなたは上の空だし」
研究室、という言葉にの肩が震える。
思い出す。自分のスポンサーに名乗り出てきた、あの男。あまりにも酷似していた、こちらの世界での彼。
姿を描くだけで恐ろしくなる。怖い。あの男が怖い。
「・・・・・・何かあったの? スポンサーの方とうまくいかなかった?」
「いや・・・・・・ちゃんとスポンサーについてくれたよ。元々科学を嗜んでたみたいで理解も深いし、俺の研究には価値があるって言ってくれた」
「そう、良かったじゃない」
嬉しそうに笑ってくれる。その笑顔が愛しいと思う。
だけど言葉に出来ない気持ちも、この胸に広がる。
「今度食事にでもお招きしたら? 私も会っておきたいわ、その人に」
「・・・・・・だったら結婚式に呼ぼう。きっと盛大に祝ってくれるだろうし」
返事は聞けなくて、手を握って走り出した。
「指輪、買いに行こう! 綺麗で立派な、お揃いの婚約指輪!」
「えっ、ちょっと、っ!?」
「大好きだよ、リザ!」
街中にも構わず、そう告げた。
まるで祈りのようだと思った。



どうか奪わないで。俺から彼女を奪わないで。
この幸せを、このシャンバラを、どうかどうか壊さないで。



購入した指輪は、小さな石のついたものだった。
高価とは言いがたいかもしれないけれど、彼女はとても喜んでくれた。
頬を染め、嬉しそうに笑ってくれて。
「ありがとう・・・
「どういたしまして」
お互いの左の薬指に、揃いの指輪。こんなもので縛れるのなら安いもの。
暗い気持ちを隠して笑う。ちょうどそのときだった。

「――――――っ!」

雑踏を切り裂くかのように呼ばれた名。聞こえた声。
覚えがあった。ありすぎてどうしようかと思った。かつての彼じゃなかった彼とは違う。今のは紛れもない、彼のものだ。
彼もこちら側へ来てしまったのか。何で、どうして。
「エド・・・・・・」
振り向けば、眩しいほどの金髪が人をすり抜けて来る。
目の前まで来たエドワードは泣きそうな顔で、縋るようにの肩を強く掴んだ。
、だよな!? だよなっ!? ちゃんとだろ!? 俺とアルと一緒に旅した!」
「・・・・・・エド」
「やっぱりおまえもこっちに来てたんだな! 今まで何してたんだよ!? 今はどこで―――・・・・・・っ」
「エド」
必死な言葉を遮り、はそっとエドワードの手を剥がす。
その際の感触に、はまだエドワードの手が義手であることに気付いた。
機械鎧ではない、おそらくこちらの世界で作られた義手。それにしては精巧すぎる作りに少しだけ疑問を感じたけれど、今は問わない。
不安に顔を顰めている彼に、は笑顔を作る。
「久しぶり、エド」
「―――・・・・・・っ!」
「あぁもう、マジで久しぶりだなぁ」
二度と再会など出来ないと思っていたのに、突然の奇跡に思わず苦笑しあってしまう。
こつん、と合わせた拳は三年近くの時を経ても変わらない友情を確かめさせた。
「エドもミュンヘンにいたんだ? 今は何やってんの?」
「俺はオーベルト教授のところでロケット工学を学んでる。は?」
「俺は―――・・・・・・」
答えあぐねたわけじゃない。けれど一瞬、言葉に詰まった。
その隙にエドワードの視線が横に動く。
見開かれた瞳に、訳もなくしまった、と思った。
エドワードと目の合った彼女が、穏やかに綺麗に微笑む。
「はじめまして。エドワード君?」
「え、あ・・・・・・っ」
「エド、彼女はエリザベス。―――エドは、以前に旅してたときに少しの間一緒だったんだ」
嘘はない。けれど向けられた眼差しが痛かった。
エドワードの訝しがるようなものも、彼女からの温かなものも。
「あら、じゃあ本当に久しぶりの再会なのね。積もる話もあるでしょうし、私は先に帰ってた方がいいかしら」
「ん、ありがと」
「夕食を作っておくから。エドワード君もよければ食べに来てね」
「あ・・・・・・はい、ありがとうございます」
「ふふ、それじゃ」
去っていく彼女の左手で、光る真新しい指輪。
その輝きにはっとして、エドワードはを振り向いた。
互いに少しだけ伸びた身長だが、目線はあまり変わらない。
泣きそうに、目を細めて。
「・・・・・・・・・軽蔑する?」
翳されたの指にも、同じリングが嵌められてるのを、エドワードは見た。



会えない悲しみと、言い訳をするつもりはない。
愛しているのだと、それだけを述べるつもりもない。
打算と計算で手に入れた幸せなのだ。
ずっとずっとほしかったもの。

自分だけを見てくれる彼女を、ずっとずっと求めていたのだ。



「俺が最初に辿り着いたのも、エドと同じミュンヘンだったよ」
近くにあったビアホールに入り、グラスを片手に話を始める。
そういえばエドワードと酒を飲みながら話をするのは初めてだ、とは思う。
「それからしばらくふらふらしてて、つい先日まではミュンヘン大学のシュミット教授のところで生体学について学んでた」
「へぇ、シュミット教授ってその道じゃ有名な人だろ? 確かこの前も研究室から『人体における精神と魂の割合』っていう論文が出たし、俺も読んだけどあれは面白かった」
「あ、それ俺が書いたやつ」
「マジ!?」
「その論文の出来が良かったから教授がスポンサーを紹介してくれて、自分の研究室が持てたとこ。ほどほどに順調だよ。錬金術は使えなくても、頭の中身までは減ってなかったから」
が肩を竦めると、エドワードも「俺も」と言って笑った。
けれど互いに話すべきことはこんなことじゃないと分かっていた。
重い唇を、エドワードが押し上げる。
「・・・・・・は、元の世界に戻る方法を探してないのか?」
低い声と、ねめつけるような眼差しが苦笑を誘った。
「・・・・・・探してないよ」
「彼女がいるからか?」
「そう」
会ってしまった今、すでに隠せることでもないので頷いた。
けれどエドワードにとってそれは理解できなかったようで、彼は義手でグラスを強く握り締める。
「・・・・・・分かってるだろ。あの人は中尉じゃない」
「違うね。リザは間違いなくあの人だよ。俺はこの世界と元の世界の両者において、似ている人は同じ魂から成り立ってると考えている」
「確かに魂は同じかもしれない。だけど別人だ。人は生まれた環境と育ってきた経験によって自己が形成されていくんだ。それが異なってる時点で、同じ人物ということはありえない」
「五感が人に与える影響は巨大だ。根源が同じならば、その人は同一人物であると言える」
「違う。あの人は中尉みたいに銃を撃ったりしないだろ?」
「その代わりに生徒を導く。何も変わってないよ。あの人はあの人だ」
「違う。何で認めようとしないんだ」
ぴくりと、の手が揺れた。
エドワードはそれに気付いているのかいないのか、まっすぐにを見据えたまま続ける。
「この世界は、俺たちのいた世界とは違う。俺たちはこの世界の住人じゃない。あの人だって、中尉じゃないんだ」
冷静な、けれどどこかそう努めているような声に、かつてのなら気付いただろう。
だけど今は無理だった。心が波を立て始め、ざわざわと己を渦に巻き込んでいく。
ひどく攻撃的な気持ちになる。傷つくだろうことが分かっているのに、止められない。
「・・・・・・そう思うのは、エドがこの現実を受け入れられないからじゃないの?」
顔を強張らせた彼は、確かにかつての親友だ。
けれど今は、今はこのシャンバラを壊すもの。そうとしか思えない。
あの男と同じで、この幸せを壊そうとするもの。
許さない。許せない。決して邪魔などさせるものか。
「この世界は元の世界と違う。自分のいるべき世界じゃない。そう考えることで必死で自分を保ってるんだろ。いつか帰れる日が来るって、まさか本気で信じてんの?」
「―――っ!」
「だとしたらエドは馬鹿だ。俺たちは禁忌を犯したから、こっちの世界に来てるんだよ。だから戻れるわけがない」
「違うっ! 戻れるはずだ!」
「そう信じたいのは分かるよ。アルはこっちの世界に来てないみたいだし?」
傷を、抉ったのが分かった。泣きそうにエドワードの金眼が揺らぐ。
だけども守りたかった。なくしたくなかった。ようやく手に入れた幸せを。
「アルに会いたいから、元の世界に戻りたい? だったら俺の気持ちだって分かるだろ。俺は彼女がいるから、元の世界に戻りたくない」
そう告げたの顔は、とても穏やかで綺麗なものだった。
それなのに何故か、痛みがエドワードの胸に広がる。そう、忘れてはいない。
親友の彼は、辛いときや悲しいときに、笑顔を作る人だった。
だから今も、きっと。
「・・・・・・その『彼女』っていうのは」
泣き出したかった。子供のように泣いて泣いて、喚きたかった。
でも、それも、出来ない。
「中尉とあの人、どっちのことを言ってるんだよ・・・・・・・・・?」
エドワードの言葉に、は答えなかった。
静かな沈黙だけが、返事代わりに広がった。



日の沈んだこの街を、一人で出歩くのは危険が伴う。
戦争を繰り返しているこの国は、ふと見れば壁の壊れた建物が目に入る。
頼りない政権と、それに反発する国民たち。価値の下がってきている金銭、配給される具のないスープ。
そんな世界でも、は幸せだった。
幸せだと、思っていた。
「ただいま」
帰る家がある。明かりの灯されている窓に、温かさを感じる。
「お帰りなさい。寒かったでしょう?」
迎えてくれる彼女がいる。応えてくれる彼女がいる。
「エドワード君はどうしたの? 仲がよさそうだったから、連れてくると思ってたのに」
食事が用意されている。並ぶのは二人分。手作りの味を毎日食べることが出来る。
「エドは同居人と約束があるんだって。今度是非来たいって言ってたよ」
微笑んでくれる。向かいの席に、当然のように座ることが出来る。
「そう。私も話がしてみたいわ。是非誘ってね」
支えてくれる。愛してくれる。自分の傍にいてくれる。
理知的な面差しを僅かに染めて、彼女はそっと左手を上げた。
「この指輪・・・・・・本当にありがとう、
「・・・・・・どういたしまして」
泣きそうになった。でも笑った。幸せだと思った。
幸せだから泣きそうなんだと、思った。



この世界が好きだった。
この世界に来れてよかった。
元の世界に戻りたくなかった。
元の世界を忘れたかった。
ずっとここにいたいと思っていた。

この世界は、シャンバラだと思っていた。



細く開いたカーテンから、月光がシーツへと降り注ぐ。
隣で眠る彼女の白い肩が寒さにか震え、は毛布を引き上げて掛けた。
金色の髪を撫でて、安らかな寝顔を覗き込む。
疲れ果ててしまったのか、彼女が目覚めることはない。赤く腫れた瞼に、申し訳なく思って唇を寄せる。
今日はとてもじゃないが、優しくなんて出来なかった。
その腕を放さないで、ここにいるという事実を求めることだけに、必死で。
気付けば固く握りこんでしまっていた手を解き、そっと彼女の背中に回す。抱き寄せる身体は温かい。
明日起きたら謝ろう。はそう考え、深く息を吐いた。
目を、閉じる。



この世界には何でもある。
欲しかったものがすべて手の中にある。
幸せを感じる。だからもういらない。
元の世界に戻る気はない。

あの世界はとても甘美で、それでいて残酷だったから。



・・・・・・愛しい人
今はもう、名すら呼べない



「・・・・・・・・・リザ・・・」
呟いて祈る、それは贖罪。
この幸せを請い続ける自分を、どうか許して。



あなたの存在だけが、俺にとってのシャンバラだから。





2005年7月31日