その日は、朝起きたときから頭が痛かった。
「・・・・・・風邪、かしら・・・」
心なしか擦れている声を、二・三度咳をすることで元に戻す。
ベッドから立ち上がる際に足元が少しふらついたが、半ば意地でそれを堪えて。
濃青の軍服に、リザは腕を通した。
変わらずに今日が始まっていく。
優しい歌が歌えない
午前をやり過ごして、どうにかこうにか午後を迎えた頃、リザの体調は朝にも増して悪化していた。
ずきずきと頭は割れるように響くし、喉は息を吸うたびにかさついて痛む。
書類の文字が何だか二重に見えて、振り切るように睨んでみても、すぐにまたボーっとしてしまう。
だけどまだ休むわけにはいかない。上司であるロイに任せた書類を回収していない。
どうせあの上司のことだから終わってないに決まってる。
そう考えると、リザは先ほどよりも頭が痛みを増した気がした。
(・・・・・・あの人は全く・・・)
声に出すわけにもいかず、むしろ今は出すことも辛く、心の中で小さく愚痴て。
元々表情が顔に出にくい質なのも手伝って、今のリザの風邪に気づいている者はいないようだった。
今日だけは事件が起きないでほしい、と祈ったときに執務室の時計が音を立てる。
ポーン、ポーンと、二回。
「あ、もうすぐ来る頃っすね」
隣の席で煙草をふかしているハボックが、どこか楽しそうにそう言って笑う。
仕事をやってちょうだい、と言いたいがそれも喉の痛みのせいで出来ず、リザはかすかに溜息をついた。
あと30分で、本日のおやつがやってくる。
・。
自分を好きだと言ってくれる彼が、リザはほんの少しだけ苦手だった。
はとても賢いし、容姿もいい。錬金術師としての才能にも溢れている。
己を省みないところは手助けしてあげたくなるし、無理をしようものなら止めたいとも思っている。
それはまるで、手のかかる弟のよう。
彼自身がそれを望んでいないとはいえ、リザにとってのはまさにそれだった。
―――だけど。
は、リザのことを一人の女として見ているから。
だから、気づいてしまえるのだ。
彼女の強さに、優しさに。
そして・・・・・・弱さに。
お願い、やめて。
私の中を覗かないで。
「こんにちはー」
今日も2時半ちょうどに司令部を訪れた彼は、もはや銀時計を見せることなく顔パスで入ってくる。
一度見たら忘れられないほどの可愛い容姿もその理由だろうが、やはり毎日通い詰めているからというのが大きい。
エドやアルと旅に出ていない以外は、常におやつを持参してリザの元を訪れるのが彼の習慣になっているのだ。
「よぉ、姫さん。今日の貢物は何だ?」
「姫さんって言うな。今日はずんだ白玉。それに抹茶」
「お、和風だな」
「ずんだって何だ?」
「ずんだとは枝豆を磨り潰し、塩と砂糖を加えた緑色のあんこのことで、発祥は遠い島国の―――」
「俺たちには?」
「白玉のみ。あずきは缶詰ででも間に合わせとけ」
ハボックやブレタ、ファルマンら他の軍人たちと会話をしながら、は大きな紙袋からタッパーを取り出す。
そして封の開けていない小豆の缶詰を二つ、適当に机の上へ転がした。
群がる彼らを尻目にこちらへと歩いてくるを、リザはやはり焦点の定まらない頭で迎える。
「こんにちは、リザさん」
美少女にしか見えない顔を輝かせて、が笑うから。
「・・・・・・こんにちは、君」
出来る限り悟られないように、気をつけて挨拶を返したのに。
整った眉が、何かに気づいたかのように小さく跳ねる。
それをはっきりとしない意識の片隅で認めて、リザは心中で溜息をついた。
体調の悪いときに相手をするには、の存在は重すぎる。
まだ自分の分の仕事も終わってないし、これからはロイにちゃんと決裁をするようにも言わなくてはいけないのに。
正直、今日は来てほしくなかった。
そんな考えまでが、熱でうつろう頭に浮かんでしまって。
弱っている、とは思うのだけれど。
「リザさん」
あぁ、きっと風邪引いてるんだから帰れ、と言われる。
そんなことを言ってほしくない。他の同僚たちに迷惑をかけたくないし、心配だってさせたくない。
ただでさえ自分は女なのだ。立場や実力では対等といっても、やはり彼らには気を使わせている。
大体、どうして、何でがそんなことを自分に言うのだ。
言う権利が、彼にあるのか。
好きだからって言葉で片付けられて、そのおかげでこっちは恥をかかされて、あぁもう本当にいい迷惑。
子供の恋愛ごっこに付き合っている暇はない。
ただでさえ自分のことで精一杯なのに。これ以上もう。
――――――やめて。
熱に浮かされた思考が回り続ける。
止められない。気分が悪い。体調が悪くて。
の気持ちまで、察してやる余裕がない。
傷つける言葉すらも容易く吐けそうな、今。
リザが唇を開こうとした瞬間。
「リザさん、これ、今日のおやつ」
・・・・・・・・・何言ってるんだろう、この子は。
一連の考えを切断するかのような少年の声にリザが顔を上げると、は変わらずに微笑んでいる。
「抹茶点ててくるから、それまで待ってて?」
ずんだ白玉の入っているらしい紙袋だけを置いて、給湯室へ行くために背を向ける。
(・・・・・・・・・?)
変わらなさ過ぎる、いつもと同じお茶の時間の訪れに、リザは知らず肩に入っていた力を抜いた。
は自分の体調の悪さに気づいていると思ったが、それは気のせいだったのかと不思議に思いつつも安堵して。
紙袋から取り出した白玉のタッパーに火照った頬を押し付けると、ひんやりととても気持ちが良かった。
丁寧に点てられた抹茶と、これまた美味しいずんだ白玉。
が今日あったことや、他愛もないことを話したりして、リザはそれに相槌を打つ。
いつもと変わらないティータイム。
どうやらが本当に自分の体調の悪さに気づいてないようで、リザは安心した。
だからこそ、痛む頭を堪えつつ笑みを浮かべて。
30分間を、やり過ごす。
帰る前に、はロイの執務室へ寄っていった。
お世辞にも仲が良いとはいえない―――それはが一方的にロイを嫌っているのだが―――二人なのだが、今のリザにはそんなことを気に留める余裕もなくて。
とりあえず、いつもなら終わっているはずの書類と格闘を始める。
しばらく後にロイの部屋から出てきたにも、リザは気づくことがなかった。
終業時刻の五時を少し回った頃に、ようやくリザの仕事はすべて片付いた。
とはいえ、これからロイの書類を回収しなくてはいけないので、かの上司の行動パターンを考えるとまだまだ帰ることは出来ない。
いい加減に頭痛はピークを迎えていたし、心なしか吐き気すらも感じてきている。
早く帰って寝たい、という気持ちだけを抱えて、ロイの執務室を訪れた。
「・・・・・・失礼します」
それだけ言うのにも、喉がいがいがしていて一杯一杯である。
めずらしく定時に帰宅していない上司は、これまた珍しく机に向かっていて。
ペンを手に書類に何かを書き込んでいるのを見て、リザはついに幻覚まで見えてきたのか、と思った。
「あぁ、中尉。あとはサインだけすれば終わるから少し待っていてくれ」
「・・・・・・・・・はぁ」
幻覚どころの騒ぎではない。むしろ夢でも見ているのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えるリザを他所に、ロイは一筆走らせるとその紙を他の書類と束ねて端を揃えた。
立ち上がって近づいてもボーっとしているリザに苦笑して、彼女の手の中にある書類も引き受ける。
ようやくハッとした彼女にいつも通りの笑みを返して。
「今日は悪かったね。体調が悪いのに無理をさせてしまって」
「・・・え、」
「だが、そういうときはちゃんと言ってくれると、こちらとしても助かる」
柔らかな、けれどどこか有無を言わさぬ様子で、ロイはリザを見下ろす。
「体調を崩すのは人間である以上仕方のないことだ。だが、それを無理に隠して、結果的に周囲に迷惑をかけては元も子もない。ましてや我々は軍人なのだから」
今回は大した事件がなかったからいいものの、有事のときは命に関わる。そうなってからでは遅い。
ロイの言葉は確かな重みを持っていて、リザは自然と俯いた。
視界がかすかに潤んで、今日は本当に体調が悪いのだと今更ながらに気づく。
はぁ、と漏らした大きな溜息はとても重くて。
「・・・・・・申し訳ありません」
今度は隠さずに、擦れた声で謝罪する。
ロイは穏やかな笑みを浮かべて書類を片手に持った。
「これは私が出しておこう。今日はもう帰って休みなさい」
「・・・はい。ありがとうございます」
痛む頭を押さえて、頭を下げる。
ロイはそんな部下を見送って、思い出したように声をかけた。
それはとても楽しそうで、それでいてどこか気の毒そうに。
「あぁ・・・・・・そうだ、中尉」
振り向いたリザに、一言。
「これは口止めされていたんだけどね。が、君に謝っていたよ」
好きになって、ごめんなさい――――――と。
だけどあなたが好きなんです。
大切なんです、大事なんです、幸せになってほしいんです。
だからどうか、願うことだけはどうか許して。
あなたを祈ることだけは、どうか許して。
ようやく戻ってきた寮の自室で、リザは軍服を脱いで、力なくそのまま椅子の背にかけた。
果物を切る気力もなく、オレンジの皮をむいて二房頬張る。
そして薬を水で飲み込むと、そのままベッドへと入った。
掛け布団をかき集めて、丸くなって。
痛む頭を枕に乗せる。
目を閉じるときに、リザは思った。
明日、に謝ろう。
今日のおやつのずんだ白玉は、食べたはずなのにその味を覚えていない。
熱で食欲もなかった所為か、どんなものだったのかも記憶は曖昧だ。
ハボックたちが騒いでいたことから察するに、きっと白玉はとても美味しかったのだろうけれど。
(・・・・・・君、もう一回作ってくれるかしら・・・)
そんなことを考えながら、薬の効き目と共に訪れてきた睡魔に身を任せる。
ごめんなさい、だなんて。
謝るべきは自分であって、では決してないのに。
明日になったら体調を戻して、そして彼に謝って。
お礼を言って、白玉をもう一度作ってくれるように頼んで。
そして、今日の分も話をしよう。
の笑顔を瞼の裏に描きながら、リザは眠った。
2004年7月17日