東の空がだんだんと街並みを白く照らしていく。
一日もまだ始まらない時刻。スズメが空高く飛び交っている。
「――――――うん、亀は南から来たって。それとネズミがいるから駆除方法も検討した方がいいかも。チーズ? 籠? ホウサン団子を作るときは俺も手伝うよ。後は・・・バナナは猿じゃなくて熊だってさ。いい趣味してるよ、まったく。とりあえずはそれくらい。後は何かある? ・・・・・・・・・お小遣い忘れんなよ。じゃあな」
人のいない静かな通り。ガシャンと音を立てて受話器を下ろす。
冷ややかなドアを押し開けて電話ボックスから出れば、近くの公園から風に流されてきたのだろう、桜の花びらが視界を掠めていく。
・・・・・・その、向こう。
白い朝靄の中に浮かんでくる影を見て、少年は眉をひそめた。
空よりも濃い、藍色。
近付いてくるそれにあからさまに舌打ちをする。
あと三メートル、というところで影はにこやかに手を挙げて言った。

「やぁ、
「・・・・・・朝からアンタに会うなんて最低」

ロイ・マスタングの笑顔には口元を歪めて言い捨てた。





ライラック





常の白いコートではなく、今が身に付けている黒のコートは、白んでいく街の中で一際浮き上がって見える。
「大佐、これから仕事? それともお休み?」
「生憎と仕事でね。会議があるから早朝出勤だ」
「それはそれはゴクローサマ」
気持ちの込められていない労りにロイは軽く笑った。
「朝から女性の移り香を纏っている君ほどではないよ」
「俺も一応健全な青少年だから。欲望を発散しないわけにはいかなくてね」
「美しい女性だったかい?」
「さぁ? 好みの問題だろ」
「君の好みはホークアイ中尉だからな」
ロイはサラリと言って、は静かにロイを見上げる。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
空高く、スズメが朝を告げた。

「アンタ、最悪」

心底ウンザリとした面持ちでが乱暴に髪をかきあげる。
対するロイは余裕のある笑みを浮かべていて。
桜の花びらがアスファルトの道路へと墜ちていった。



未だにまとわりついているような感覚。
一晩共に過ごせば確かに匂いも移るだろう。それも、あんなに近く抱き合っていれば尚更のこと。
自身、さっさと宿に戻ってシャワーを浴びようと思っていたのだが、その前に面倒な人物に見つかってしまった。
ロイを目の前にしてはわざとらしく顔を顰める。
「――――――で? 何が言いたい?」
聞いてくる子供にロイは唇の端を吊り上げた。
まっすぐな眼差しは嫌いじゃない。それがこちらにとって害を及ぼさないと判っていれば尚更。
「何、とは?」
「言っとくけど、俺は何も悪いことはしていない。ちょっと女を抱いて話をしてきただけだ。それのどこに問題がある?」
「その『話』の内容次第だな。ちゃんと代金は払ってきたのだろう?」
「当たり前。ちゃんと鳴かせてきたし何言ったか覚えてもいられないくらいに何度もイかせてきたよ」
「ふむ、ならばそちらは問題ないな」
ロイの言葉に、はさらに不快そうに舌打ちをして。
相手の考えていることが判るからこそ、いい加減にムカついてしまう。
次にロイが何て言うかなんて簡単に予測がついた。
そして彼はいい意味でも悪い意味でもそれを裏切らない。
「問題は、中尉の方か」
今ここでコイツの口を永遠に塞いでしまえたらどんなに良いだろう。
は内心でそう考え、そのうちの半分以上を表情に表していた。
「一般女性はその手の行為をあまり良くは思わないからな。それも自分を好きだと言っている男が、他の女を抱いているとくれば尚更のこと」
「それには注意書きが付くだろ。『女も男を好きな場合につき』って」
「いやいや、女性の心理とは不思議でね。自分を好きな男には自分以外の女を見て欲しくはないものだ。私たち男からみれば生殺しにしか思えないが、女性にとっては愛情の示し方の一つでもあるのだろうな」
「さすが大佐、お詳しい。毎日デートでリザさんに迷惑をかけているだけはあるわけだ」
「何とでも言えばいい。そのくらいじゃ今の状況は変わらないぞ?」
もう一度が舌打ちをする。可愛らしい顔は完全に様子を変えていた。
柄の悪い子供にロイは笑みを深くして、冗談を一つ漏らす。



「等価交換は、君の身体といこうか」
「―――その腰揺さぶってヒィヒィ言わしてやるよ」



返された言葉の品の無さと内容に思わず眉間に皺を刻んで。
けれどは先を続けた。
「アンタ、俺のことを調べたんなら知ってるだろ? 俺が、どこで何して生きてきたか」
可愛らしい顔で、ロイを睨み殺すように見上げて。
いつも着ている白いコートは、それを忘れないためのものでもあった。
「スラムじゃ生きてくためには何でもした。生きることが第一だったからだ。意味なんてない。世間を知れば叶わないと諦める夢だけ持って」
日溜まりの世界には出ていけない。
一生暗闇で生き続けなくてはならない自分に気付くまで。
・・・・・それまでは。
「身体は誰しもが持っている唯一の武器だ。元手もかからない。それを使わないでどうする?」
「・・・・・・だが、今の君はスラムで生きる子供ではないだろう?」
「そんなの」
―――瞳が一瞬揺らいで。

朝靄が涙のように頬を撫でる。
ダメだ、落ち着け。見上げて睨め。
でなければ噛み付いてでも己を保て。
何のために生きている。何のために活きている。
これもすべてはただ一つ。

搾り出したような声は、震えていても毅然としていた。



「欲しいものがあるんだから仕方ないだろ・・・・・・っ」



それを手に入れるために、この手さえも汚すと決めたのだから。
・・・・・・大切な人の、想いを裏切ってまで。



俯くことなく自分を見上げて言ったに、ロイは微かに瞠目する。
切り詰めたような表情。今は痛みすら、諦めすら感じさせるそれ。
少女のような容姿をしたが、スラム街で無事に生き抜いてこれた訳がない。
したくもない妥協をして、耐えるしかない屈辱を受けて。
それでも、生きてきた。
望むものがあったから、生きてきた。

だから、簡単に捨てるわけにはいかない。

自分にも野望があるからこそ、たとえ完全ではないとしてもの覚悟を理解することが出来る。
ロイは口元に笑みを浮かべて、一歩へと近づいた。
警戒を見せる様子に柔らかく声をかけて。
「ならば等価交換といこうか、
「・・・・・・大人しくアンタに抱かれろって?」
「まさか」
明るく笑うロイを訝しんで、は眉間に皴を寄せる。
そんな眉間に指先をあてながら、等価交換を持ちかけた。
胸元から取り出した小さな鍵を、子供の目の前にかざして。
「実は今朝、鋼のと喧嘩をしてね」
「・・・・・・エドと?」
半ば無理やりに鍵を握らされて、戸惑うよりも探るようには尋ねる。
わざとらしく肩をすくめるロイに更に警戒して。
「鋼のが目玉焼きには醤油だと言ってきかないんだ。塩派の私とは相容れなくて、結局は目玉焼きがスクランブルエッグになってしまった」
「・・・・・・」
「スクランブルエッグも砂糖を入れる入れないで喧嘩になるし、ケチャップはともかくマヨネーズは邪道だと言うし。まったく子供というのは我侭で困る」
「・・・・・・・・・目玉焼きは、何もつけないのが普通だろ」
「そういう意見もあるな」
クスリと笑うロイを直視できなくては俯く。
ここまで来ればもう判っていた。ロイは、自分に気を使っているのだ。
情けない自分を晒した気がして、は小さく唇を噛む。
握りしめた手の平のなかで、冷たい鍵が存在を主張して。
太陽がずいぶんと上がったようで、街の輪郭がしっかりと見えてきていた。
目の前にいる、ロイも。
「君は私の家にいる鋼のの機嫌を直す。私は今朝は何も見なかったことにする」
「・・・・・・それは、等価交換じゃない」
「じゃあもう一つ要求しよう」
指先を立ててロイは言った。穏やかな表情での顔を覗き込みながら。

「今日の差し入れは、私にもちゃんと買ってくること。それで成立だ」



おそらく、自分はロイの目に惨めな子供として映っているのだろう。
それは本意ではない。こんな宥めるかのような扱い。
望んではいない。この男は味方では有り得ないのに。
確かに、敵でもないかもしれないけれど。
こんな遊びみたいな等価交換が成り立つ訳がない。自分は彼に弱点を握られた。
――――――それでも今は、知られたくないから。



「・・・・・・・・・あり、がと」



俯いて表情は見えない謝礼に、ロイは苦い笑みを浮かべた。
伸ばして撫でた黒髪からは、やはり子供には似合わない香水の香りがする。
時折、親友が彼にするように、ぐしゃぐしゃとその髪を掻き回した。

一日が始まる。





2003年12月5日