DYE
43:後二日
『―――』
温かい声が呼ぶ。名を呼んでくれる。
ずっと求めていた存在が近くにいるのを感じ、は笑顔で振り向いた。
薄いピンク色のサマーセーターに身を包んだ母親が笑う。
弧を描いている唇が、ゆっくりと開いて。
眼差しがを射抜く。
『あなたはやっぱり、化け物だったのね』
虚に向けるのと同じ瞳を。
化け物に向けるのと同じ脅えを。
自分に向かって注ぐ母に。
体中が凍って、心が息継ぎを忘れて、涙が頬を伝った。
瞼を押し上げた視界に映ったのは、左右から覗き込んでいる子供の顔だった。
髪をつんつんに立てた少年の方が目を丸くしてパッと顔を上げる。
「店長、テッサイ、起きた!」
子供の呼びかけに、遠くの方で誰かが応える。
はそれをぼんやりと知覚していたが、何かが頬に触れるのを感じ、緩慢にそちらに顔を向けた。
見下ろしているのは女の子で、その子は眉を下げとても泣きそうな顔をしている。
けれど小さな手はの頬を撫で、そして目尻を優しくなぞっていった。
「・・・・・・ありがと」
涙を拭ってくれたそれに礼を言うと、少女は泣き笑いの顔になった。
「おはようございます、サン」
障子を開けて現れたのは浦原で、は布団の上で身体を起こす。
浴衣の肩が寒そうに見え、ウルルが近場にあった半纏をおそるおそると差し出した。
力なく笑って受け取るを見ながら、浦原は畳に腰を下ろす。
「熱はもう下がりましたか?」
「・・・・・・熱?」
「そ。アナタ、ずぶ濡れのままうちまで来て気を失ったんですよ」
ちょっと失礼、と伸びてきた手が額に触れ、ひんやりとした冷たさには目を細める。
額をすっぽりと覆いつくしてしまう手は、まるで父親のもののよう。
離れる一瞬に、思わず手を伸ばしかけてしまい自身戸惑った。
「・・・・・・大丈夫そうっすね」
浦原は優しく笑う。
「サン、昨日から一日半寝込んでたんですよ」
「一日・・・半・・・?」
「ええ」
熱でぼんやりとしていた頭が急速に回りだす。
一日半、前。雨が降っていた。傘を持っていなかった。
何をしていた? 雨の中、どこへ向かっていた。
虚が出てきた。最初の孤児院は閉鎖していた。
鎖が零れた。懐かしい霊に合った。
温かい気持ちが心を埋め尽くした。
ピンク色のサマーセーター。
笑み。声。呼ばれた、名。
『』
「・・・・・・?」
ピク、とその震えに最初に気づいたのはジン太だった。
布団の上に投げかけられている指先が、震えている。時おり引き攣るように不規則に。
慌てて顔を覗き込めば、白を通り越して青褪めた頬と、どこを見ているのか視点の合っていない目。
半端に開かれた唇から音にならない息が聞こえる。
「おいっ・・・!」
腕を引くと大げさなまでに身体が揺れた。指は今やはっきりと痙攣していて、掻き毟るように胸を押さえようとする。
「店長―――・・・っ」
「過呼吸っすね」
「・・・・・・かこきゅう?」
「強迫神経症やパニック障害からくる酸素の吸いすぎ。ウルル、大丈夫だから泣かないの」
元々下がり気味の眉をさらに下げたウルルに声をかけてから、浦原は痙攣を起こしているを布団に寝かせる。
そして口と鼻を押さえるように手を当てた。
震えている肩と見開かれている目を見返しながら、浦原は声に出さずにカウントを始める。
10を越えて少し経った頃、ようやく痙攣が治まってきて、ジン太は知らないうちに張っていた肩を降ろした。
ウルルもの瞳がぼんやりとしてきて瞼を下ろすのを見届け、小さな手をきゅっと握って息を吐く。
ゆっくりと意識を手放したが普通に呼吸をしているのを確かめ、浦原も手を放した。
蒼白の頬を撫で、張り付いた前髪を払ってやる仕種はひどく優しい。
赤子を宥めるようにして、浦原は呟いた。
「この世界は・・・・・・アナタにとって辛いばかりの場所だったんすね・・・・・・」
眦に浮かぶ涙。
それがすべてを語っている気がした。
その日、は工事現場と居酒屋の両方に辞表を出した。
引き止めてくれる優しい人はたくさんいたけれど、もう耐えられなかった。
自分の根底に抱いていた希望と願望が砕かれた今。
もう、この世界にはいられない。
逃げたかった。
自分が『化け物』とされるこの世界から。
逃げたかった。
何だか久しぶりに戻ってきた気のするアパートで、は木箱を手に取る。
ひどく軽いそれに、自分の一生はこんなものかと思った。
今日を入れて後二日。
もう怖くなんてない。
2005年7月13日