泣
それは、西城敦というプレイヤーにとって相応しい引退だった。十代の半ばからプロとして欧州を中心に活躍し、サッカー界の歴史にその名を刻んだ。渡り歩いたクラブは多く、そのほとんどがリーグ制覇を成し遂げた原動力に、西城敦の名を挙げた。日本代表のキャプテンとしてチームを牽引し、その明るく頼もしい性格と力強いプレーで多くの選手たちから慕われた。彼はサッカー界の至宝だった。キングとさえ呼ばれた。
二十代で全盛期を築き、三十を迎えてからは後進に活躍の場を譲り、日本代表には召集されても断った。長年海外でプレーをしてきたが、やはり祖国に恩返しをしたいと言ってJリーグに初めて所属したのも同じ頃で、その行いは日本のサッカーファンに世界のレベルを間近で感じさせる機会を作った。プレイヤーとしては年嵩になってもその強さは衰えず、彼が出場すればそれだけでスタンドは盛り上がった。人気に相応しいプレーをし続けた。ひとり、ふたり、同年代の選手がフィールドを去り始める中で、西城敦はひとりピッチに立ち続けた。だが、それもようやく終幕を迎える。
最後となる試合は、当然ながら勝利で飾った。四十歳という、サッカー選手としては非常に長い選手生命に今、ピリオドを打つ。チームは惜しくもリーグ二位に甘んじたが、それだけ後進が育ってきているのだと思えば悪くはない。立ち見すら出て、会場を埋め尽くすサポーターたちに笑顔で感謝の言葉を告げる。これは別れではない、新たな旅立ちである。今まで見守ってくれたたくさんの人々に、ありがとうと言いたい。自分はとても幸せだ。精悍な顔に男らしい笑みを浮かべ、西城は最後まではっきりと強い声で言い切った。サポーターが全力で彼の名を呼ぶ。大きく手を振り、西城がそれに応える。寄せられる期待を一度として裏切ったことのない男だった。肩に圧し掛かる重圧はどれほどのものだったのだろう。幾度もの危機的な、悲観的な状況すら打ち砕いてきたプレイヤーだった。日本サッカーの栄光そのものだった。世界の西城敦が今日、ピッチを去る。
口付けを落としたサッカーボールを、フィールドの中央に置く。すべての始まりの場所だ。チームメイトと、相手チームからも整列と拍手で見送られ、悠然と出入り口へと向かう。その足取りの一歩一歩でさえ力強く、完璧だった。西城敦という男は最後まで責任を持って、日本サッカー界を牽引した。十五年間、たったひとりで。歩み続けた彼の足が、止まる。
「ねぇ、あれ・・・?」
「まさか・・・!」
去りゆく途中、白いラインにまだ届かない場所で、西城が立ち止まった。呆然と立ち尽くす彼の視線を追うように、誰もがその先に目を向ける。芝生のフィールドの外、トラックの上に立っている姿があった。ユニフォームではない。落ち着いたシンプルなスーツを身に纏い、立っている男。サポーターからは遠目過ぎて分からない。だけど、ひとつの予感があった。来てくれたなら、一緒に在ってくれたならと、ずっと願っていた。右目を隠す眼帯が、願いを現実に変えてくれる。
―――。彼こそが西城を十五年の間、走らせ続けたすべての源だった。
若いサポーターの中には知らない者もいたかもしれない。だが、昔からのサッカーファンなら誰もが知っていた。至宝がふたつ並び輝いていた時代を知らずになんていられなかった。オーロラビジョンが男の姿を映し出す。十五年経ち、確かに少し雰囲気を変えたかもしれない。けれど美しい男の姿がそこにはあった。不慮の事故により引退を余儀なくされ、コーチや監督就任の要請をすべて断り、表舞台から完全に姿を消していた、すでに記録の中にしか存在しない彼がそこにいた。マイクはなく、音は拾えない。それでも緩やかにスーツの両腕を広げ、男は、は微笑んだ。
おつかれさま。
そう動いた唇に、迎え入れる腕に、西城の表情が歪む。けれど彼は駆けるように最後の白線を飛び越えた。スーツの身体を抱き締めて、ユニフォームの背を優しく叩かれ、西城の頬を涙が伝う。くん、掠れた声を褒めるように、が笑った。サポーターから拍手と喝采が湧き上がる。
その日、西城敦は引退した。
まぁ何だ、『柩』の後にはこういう展開があったわけです、はい。
2011年8月11日