柩
会見場に現れた青年に、記者の誰もが言葉を失った。世界中から何百という報道陣が駆けつけ、回されるカメラがすべてをリアルタイムで報じていた。だからこそすべてが真実であるのだと現実は残酷にも突き付ける。忘れかけた頃にようやくひとつのフラッシュがたかれ、次いで役目を思い出したかのように数多の光が会場を埋め尽くした。カメラのレンズはただひとつのものへと向けられていた。青年の美しく作られた顔貌に。否、その顔貌の右半分を覆い尽くしている真っ白い包帯に。記者かカメラマンかあるいはスタッフか、誰かのすすり泣く声がフラッシュの音にかき消される。
ワールドカップのアジア予選だった。後半十四分、試合は序盤から日本の優勢で進み、スコアは2-0。それでも攻める姿勢は決して緩めず、そのときもボールは中盤で彼が支配していた。魔術師とも宝とも呼ばれていた。早い頃から世界を舞台にプレーしていた姿は多くのサッカー選手の憧れであり、加えて尊敬の対象だった。神とさえ呼ばれていた。。日本の司令塔である彼を後半十四分、悲劇が襲った。それはサッカー界がふたつの至宝のうちひとつを喪った瞬間だった。
相手チームの選手がスライディングをしかけ、ボールではなく足を狙ったそれにが態勢を崩されフィールドに倒れた。審判はファウルを取ろうとしたが、それより先に駆け込んできたもうひとりの選手のスパイクが彼の顔面を抉った。ボールではなかった。それは明らかな、故意だった。少なくともその会場にいたすべての人間がそう証言するだろう。それだけ明確な意思を持ち、スパイクはの顔面を蹴ったのだ。爪先は右目を直撃し、その瞬間、西城の悲鳴が響き渡った。血が飛んだ。芝生が黒く塗れた。右顔面を押さえて絶叫したに、常の冷静で穏やかな姿はなかった。おびただしい量の血が流れ、担架が運び込まれ、青年が苦しみもがく様を多くの者は硬直して見るしかなかった。くん、くん。西城だけが彼の手を握り、ただ懸命に名を呼び続けていた。いや、スタンドから嘆きが漏れた。それはすぐさま悲嘆と怒号に取って代わり、スタジアムを埋め尽くした。日本代表の一部は相手チームの選手に食って掛かった。拳さえ振るわれた。スタンドからは血走った眼のサポーターが何人も降りてきて、警備員たちが戸惑いながらも対処に追われた。救急車のサイレンが鳴り響き、が連れて行かれる。崩壊した試合はノーゲームとなった。
そうして数日後、世界中に報じられたのはの右目は失われたということ。それに伴い彼が現役を引退するというニュースだった。二十五歳。心身ともに満ち満ちた全盛期。それは余りにも早すぎる退場だった。
記者会見に同席したのは、が所属する最後のクラブとなったイタリア名門チームのフロントだった。くすんだブロンドの中年男が仕立ての良いスーツに身を包み、イタリア語で話をしている。その間、青年は隣で沈黙しているだけだった。唯一露わになっている左目さえも瞼の奥に隠して、微笑みを湛えていることの多かった唇も今は微かに動く気配さえない。黒いスーツと白い包帯。その様は無表情も相俟って人形のように美しかった。フロントは語る。怪我が治り、リハビリをし、彼がフィールドに立つことが出来るのはおそらく今シーズン最後の試合になるだろう。その試合をもって、は現役を引退する。彼が生涯最後の試合に我がチームでのプレーを選んでくれたことに心から感謝する。フロントの男は目尻に浮かぶ涙を拭い、手放さなくてはならない至宝を惜しんだ。
は一言も喋らなかった。重い空気を放ち続ける彼は今までの柔和さが鳴りを顰め、別人にさえ見えてしまう程だった。それが逆に悲愴を募らせ、泣きながらシャッターを切るカメラマンもいた。会見は終了です。司会者の言葉にフロントが立ち上がる。続き、場を後にしようとした背に投げかけられた質問があった。
「あなたを引退に追い込んだあのプレー! あれは故意だったと言われていますが、実際のところどう思われますか!?」
それは情報を追い求める、報道陣として正しい姿だったのだろう。だがデリカシーには欠けていた。そんなこと聞かなくても、と女性記者が声を挙げ、馬鹿野郎、と怒鳴った男のスタッフもいた。だが、青年はようやく反応を返した。スーツが皺を作り、革靴の踵が音を慣らし、ゆっくりと身体を振り向かせる。それだけの所作なのに会場にいたすべての音を彼は奪った。漆黒の隻眼が質問した記者を見据える。美しい。それは余りに美しかった。だからこそ尚更に恐ろしかった。
「―――彼のプレーは、健全なるスポーツマンシップに則った結果だと信じている。でなければ俺のこれからの人生が救われない」
それだけを言い残し、踵を返しては会場を出て行った。声を失くした記者たちは気づかなかった。それは、彼が公の場で初めて自身を俺と言い、感情のままに言葉を紡いだ最初で最後の瞬間だった。
その数日後、とある国の代表選手が首を吊り自殺した。悪魔が囁いたのだと彼は遺した。至宝のせめてもの行く末を祈り、彼は死んだ。
2011年8月4日