引力に引き寄せられるかのように立ち止まって
気が付けばそれを手にとっていて
次の瞬間、200円のお釣りを受け取っていた。
「プレゼント用ですか?」との問いに思わず頷いて
小さな紙袋を受け取って店を出る。



どうしよう
口紅を買ってしまった。





a message of the rouge





始めに断っておくが司馬葵は断じて女装癖という妖しい性癖を持ち合わせているわけではない。
たとえメガネノンノを購読していようとファッションはともかく化粧にはまったく興味がない。
あるといえばせめて香水くらいのもの。
そんな彼が衝動のままに口紅を買ってしまったのにはちょっとした理由があった。



(・・・・・・猿野に似合うかもしれない・・・・・・)



店先で見つけたピンク色。
少しくすんだコーラルピンクは流行色ではなくスタンダードなもので。
どんな服装にも合わせられる優れ物。
・・・・・・これのどこが一体あの彼に似合うというのだろうか。
司馬の思う『猿野』が野球部所属の猿野天国のことだとしたら、きっと彼を知る者はみんながみんな首を振って否定することだろう。
『彼にそんな地味な色は似合わない』と。
たしかに猿野天国という人物は目立つわけではないが整った外見を有し、行動は不言実行ときに有言実行。
勉強も運動も出でき、苦手なものもなくすべてにおいてオールマイティにこなすという素晴らしい人。
それに加え性格は・・・・・・個人の見解によるが、良く言えばしっかりとした人、悪く言えば個人主義な人と言えて。
けれどそんな彼はとても人気があった。
野球部の部員たちを含め、マネージャー、はては教師陣(女ときに男)にまで。
一度会ったら忘れられない。
そんな人なのである。



先程も述べた通り、司馬に女装癖はない。
しかし猿野天国にもないだろう。
だって彼は立派な『男』なのだから。
たとえときどき『明美』に扮していようと、あれはあれこれはこれ。
猿野流のジョークである。・・・少なくとも司馬はそう思っている。
そこまで考えて司馬は途方に暮れた。
すでに買ってしまった口紅を見つめて。



どんな顔をしてコレを彼に渡せようか





例のブツを購入してから早三日。
淡いオレンジの包装紙とゴールドのリボンで包まれたそれは、いまだ司馬の鞄のなかで眠っている。
コトンとかすかな衝撃を感じる度に「早くしろよ」と急かされているようで、焦りは募るがどうしても渡せない。
司馬にとっては長くて短い三日間が過ぎた。
そして目先の目標にばかり捕らわれていた司馬は失念していたのだ。
彼がそんな甘いことを見過ごすような人物ではないということに。
司馬の可笑しな態度に気付かないわけがないのだ。
あの、猿野天国が。



「司馬」
後ろから声をかけられて司馬は思わず振り向いた。
そこにはパイプ椅子に座ってこちらを見ている想い人の姿。
指にひっかけた木の板のついた鍵をクルクルと回して。
天国は無表情なまま告げる。
「着替え、早くしろよ。じゃないと俺が帰れねーだろ」
その一言を聞いてハッと司馬が我に返る。
慌てて周囲を見回せばそこにはすでに天国以外の姿はなく。
司馬がボケーっと己れの思考に漂っている間に、みんなさっさと帰ってしまったらしい。
本日鍵当番の天国を除いて。
「・・・・・・ッ!」
慌ててアンダーシャツを脱いでワイシャツを取り出す。
「いーっていーってそんな焦んなくて。今日は俺も夕食当番じゃねぇし」
急ぎすぎるあまりボタンを一つかけ間違えた司馬に楽しそうに笑って。
その様子にさらに顔を赤くしながらもベストをはおる。
乱れた髪を手で直して、忘れ物がないかロッカーをチェックして。
これで帰れると思って振り向くと、天国は学ランに包まれた存外長い足を優雅に組み替えてうっすらと笑みを浮かべている。
帰るのではないか、と司馬が首を傾げると、それはそれは楽しそうに歪んだ笑みを広げて。
「さっきもだけど、ここんとこオマエずーっと考え事してるよな。・・・俺の方をじっと見て」
ピクンッと肩が震えて。
鞄を握る手に力が篭る。
そんな彼に天国は実に綺麗に微笑んで。
「吐け」
浮かべられた微笑を美しいと思ってしまった司馬に断れるはずがなかった。



「ふーん、口紅ねぇ」
男にしては細くて長い指を駆使して綺麗にラッピングを剥がすと、天国は7センチかそこらのソレを指で挟んでみせた。
シルバーの筒状のケースを音を立てて開けて。
「オマエ、渡す相手間違ってんじゃねーの?」
『俺は一応男なんだけど』と言う天国に司馬は何も言わずに俯いて。
言わずというよりむしろ言えず。
判定を待つ死刑囚のような心持ちでどんよりと顔を暗くして。
いくらなんでも『似合うから』だなんて口が裂けても言えなかった。
本人に渡してしまった今となっては尚更。
「で、司馬はこれが俺に似合うと思ったんだ?」
・・・・・・微笑む彼に偽証は不可能である。
3分近くかけてやっとの思いで頷いて。(その間天国は慌てふためく司馬を楽しそうに観察していた)
再び俯いてしまった司馬に笑みを漏らすと、天国は底をクルクルと回転させて。
現れたコーラルピンクに軽く頷く。
「いいセンスしてんじゃん」
言われた言葉に一瞬皮肉かと思って、けれどそんな響きがないことから彼が本気でそう思ってくれたのだとわかると、司馬はほんの少し顔を上げた。
戸惑う表情は変らずに、けれどどこか嬉しそうに。
「ま、オマエにも似合うと思うけどな」
その台詞にはブンブンと首を何度も横に振って。
自分が口紅をつけるなんて冗談じゃない。
プレゼントした身としては失礼な考えだと判っていても否定せずにはいられない。
けれど天国は楽しそうに笑ったまま。
「ほらよ」
軽く投げられた小さな筒は音もなく司馬の両手に着地した。
放って返されたそれにやっぱり受け取ってもらえなかったと肩を落として。
確かに受け取ってもらえなくて当然なのだけれど、でも受け取ってもらいたくて。
この口紅をつけた彼を見てみたくて。
けれど流石にそれは無理な願いだと、司馬は思い込もうとした。
それでもきっと捨てられないだろう口紅を握り締めて。
「何やってんだよ」
シュンとした司馬を上目遣いで見上げて天国は微笑んだ。
ソロソロと顔を上げた相手に自分の口元を指さして。
何もつけなくても紅い唇をなぞる指に思わず息を呑む。
凄艶なまでの色香に。
先ほどとは違う意味で口紅を握り締めて。
天国は笑う。



「オマエが寄越したんだからオマエが塗ってみせろよ。今だけ、許可してやる」





そっと手を伸ばしてその頬に触れた。
震える指先に小さく苦笑されて。
顔が一気に熱を持つ。
それでもそっともう一方の手を近づけて。
色づく、彼。



色づく、彼
望んだ色に



手を離すと彼は閉じていた瞳をゆっくりと開けて。
そのたびに美しさが増していって、司馬は自然と笑みを漏らす。
想像通り、いや想像以に似合っているその姿に。
自分の選んだものが彼に相応しかったという事実に、司馬は満足げに微笑んだ。
それはもう、嬉しそうに。
しかし突然引き寄せる力に目を見開く。



サングラス越しの視界に見えたのはクローズアップされた肌。
そして挑戦的に細められた目。
ぶつけられる様に重なった唇。
それはキスというよりもっと本能的で。
司馬が現状を理解するのに少々の時間が必要だった。



力任せに押し当てられていた唇がゆっくりと離されて。
今度は優しく重なる。
その余りの柔らかさに身を引きかけた司馬に天国はうっすらと笑んで。
チラリと紅い舌がひらめいて、離れかけた唇をなぞる。
そしてもう一度引き寄せた。



触れ合った舌の甘さに、熱さに、とろけそうになって。
夢中で口付けを繰り返す。
深さと角度を変えて、何度も。
何度も。





色に酔う





やんわりと押し返されて、司馬はぼんやりと天国を見つめる。
溺れるようなキスの余韻から醒めることなく。
熱に浮かされた瞳のまま。
天国を見つめて思った。



あぁ、やっぱり猿野にはこの色がよく似合う、と。



乱れた口紅。
司馬が乱した口紅。
それは言い表せないほどの艶やかさを帯びて。
乱れたからこそ、美しい。
そんな天国の姿に司馬は知らず喉を鳴らした。



「ホラ、やっぱりオマエも似合うだろ」



楽しそうに向けられた笑顔。
移された色。
同じ色香。



天国の言葉に司馬も苦笑して。
二人して顔を見合わせて笑い合う。





想い人と初めてしたキスは、コーラルピンクの口紅の味でした。





帰り際に天国はニッコリと笑って言った。
「口紅をプレゼントするってことは、『あなたとキスしたい』って言ってるのと同じ意味なんだぜ?」



次の日の放課後、イチゴ味のルージュを買った司馬がいたとかいなかったとか。





2002年10月14日