その日は雨が降っていて。
きっと練習熱心な野球部も今日ばかりは休みだろうと当たりをつける。
まぁ別に部活があったところで自分が彼の家に行くことに変わりはないのだが。
それでも、家の主がいるのといないのとでは気分が違う。
一心同体なんて度が過ぎたことは言わないけれど。
やっぱり一緒にいたいのだ。





He is praying rain to stop for a long time.





常に鍵のかかっているドアを銀色のスペアキーでこじ開けて。
これを渡されたのはいつの頃だったか忘れたが、今では持っているのが至極当たり前になっている。
この鍵はある意味彼の心のスペアキー。
元鍵はどこにあるか分からない。
開けることが出来るのは自分だけだということを沢松はよく知っていた。
どこよりも歩きなれてしまったフローリングの廊下を歩き、リビングへと顔を出す。
そこには誰の姿もなく、誰かがいた気配もない。
沢松は軽く肩をすくめて台所へと足を伸ばす。
無人のシステムキッチンでやかんに水を入れて火にかけ、フィルターとコーヒーの粉を取り出す。
これはコーヒーにうるさい天国が唯一気に入った喫茶店のマスターからもらったもの。
そういえばしばらくいってないな、と沢松は考え、次の休みにでも行こうかと計画を立てた。
もちろん、天国も一緒に。
見渡せば黒いシンプルな鉄鍋が目に入って。
このキッチンで初めて見るそれに、中華料理にでもこりだしたのか、と沢松は小さく笑った。
おそらく夕飯には本格的な中華が味わえると思って。
興味を示したことはとことん追求する天国だから、きっと今回もそうなのだろう。
コーヒーが入ったのを確認して戸棚からマグカップを取り出す。
濃いブルーのカップは何の飾りもないもの。
けれどとても使いやすく、外見よりも使いやすさを重視する天国にとってはそれでよかったらしい。
それを、二つ。
コポコポと音を立てて注ぎ、ミルクと砂糖はナシで。
両手に持って沢松はキッチンを後にした。



いつの間にか出入りするようになった家。
自宅よりも居心地の良くなった空間。
玄関の見慣れたタイルも、階段のささいな傷も。
どれもすべて、思い出深いもの。
二階に上がると手前には今は使われていない部屋が二つ。
その奥にある扉。
そこが彼の砦。



蛍光灯の光の差し込んでいたドアを足で開けて、沢松は部屋の中へと入る。
暗めの色をしたフローリング。
黒いベッドに同色の小さな棚。
床に転がされるように置かれているパソコンとプリンター、そして学校鞄。
壁にはめ込まれている床と同色の大きなクローゼット。
20畳近い部屋にあるのはたったそれだけだ。
その中で暮らす、柔らかな茶髪の少年。



「何やってんだ?」
マグカップを差し出して後ろから彼と同じようにパソコンのディスプレーを覗く。
機械的な文字は幼い頃から見慣れている。
これでよく目が悪くならなかったものだと、変に感心して。
「ん、静太からメールが来てたからさ」
「へぇ。元気か?」
「あぁ。悠二も相変わらずだってさ」
クスクスと小さな笑みを漏らして天国が笑う。
おそらく中学の頃に同級生だった彼とその幼馴染のことでも思い出しているのだろう。
静太と天国は同級生の中では割と気の合っていた方だった。
何でも出来る天国は周囲から浮いた目で見られていたけれど、静太はそれさえも気にせずに。
彼の存在に救われていたことも多かったと沢松は思う。
他人の感情に聡く、中学生のくせに自分の価値観をしっかりと持っている奴だった。
今、天国と時間を共にしている野球部のヤツラが静太のことを知ったら嫉妬すること間違いなしだな、などと思うくらい。
キーボードを叩く横顔を何とはなしに眺めて。
綺麗な顔だと、今更ながらに思う。



気が付いた頃には隣に天国がいた。
おそらく自分よりも見慣れた顔。
笑う彼も、怒る彼も、泣く彼も、すべてを見てきたと思う。
自惚れではないと自負しているし、天国自身がそう言ったから。
すべてを見せられる相手は、オマエだけだと。
泣きそうな声で、あのとき。



「今度同窓会でもやろうってさ」
いまだキーボードを叩きながら言った天国に、沢松はコーヒーを一口口にして。
「久し振りだな、アイツラに会うの」
「だな。高校に入ってからは部活やら何やらで忙しかったし」
今はずいぶん慣れてきたけれど、と言って軽く笑う。
天国も沢松も中学の頃とは全く違う生活を送っている。
その自覚もある。
「あの頃はホント若かったよなー」
天国の言葉に沢松も苦笑して。
「オマエは部活に入らず女をとっかえ引返して遊んでたし?」
「沢松は裏で色々と売ってたしな?」
「今の姿みたらアイツラ驚くぜ」
二人して共犯者めいた笑みで笑う。
「真理亜や琴子も来るんだろうな。アイツラ悠二と仲いいし」
「美人になってんじゃねーの?残念だね、天国君?」
「いえいえ光栄ですよ」
俺が育てた女が綺麗になるのは嬉しいし?と笑って。
マグカップに入っているコーヒーは着実に減っていく。



昔から、気がつけば傍にいた。
傍にいることが何よりも自然だった。
いなくても平気だけれど、いた方がもっと平気。
そう気づいたのはいつの頃だったのか。
自分が泣き叫んだときか
天国が壊れきった笑みを浮かべたときか
そんなのはもう忘れてしまった。
今ここにいることだけが、ずべてだから。



パソコンの電源を切って目を擦る天国にベッドで寝るように促して。
「夕飯は中華頼むな?」
そう言えば嬉しそうに、だけど困ったように、戸惑ったように笑うから。
軽くその茶色い髪に口付けた。
そしてオヤスミ、と告げる。



雨の日は眠れない。
天国がそんな事実を抱えるようになったのはいつの頃だったのか。
忘れてはいない。忘れてはいけない。
忘れたいのに忘れられない。
誰よりも、天国が覚えているのだから。
だから、自分が忘れるわけにはいかないのだ。
自分のことよりも、彼のことを
記憶に残すのなら、彼のことを
いつまでもずっと、彼のことを
忘れずに傍にいたい。



先ほど天国が浮かべたかすかな微笑を思って沢松は笑みを漏らす。
彼がああして笑うのは自分の前でだけだから。
無表情で相手を見下ろす顔も、明るく道化を演じて笑う顔も、冷ややかな笑みを浮かべて相手を中傷する顔も。
全部全部好きだけれど。
それでも、やはり今までずっと彼を見てきた者とすれば。
やはり。



「・・・・・・・・・幸せそうに笑った顔が一番に決まってるんだよなぁ」



呟いた一言は無機質な部屋に溶けて消えた。
聞こえるのはかすかな寝息のみ。
自分がいれば深い眠りにつける、大切な幼馴染。
彼の幸せを願って、そっと額に口付けた。
そんなものを得ることは出来ないと、知っていたけれど。



彼が幸せを手に入れることが出来るのならば、自分は何でもすることが出来るのに。
それなのに、彼の欲しいものはもう手の届かないところに行ってしまった。
諦め切れなくて手を伸ばすけれど
触れることも叶わない。
それならいっそのこと遥か彼方へ遠ざけて欲しいのに
それさえもしてくれないなんて。
神様って奴はなんて残酷なんだろう。
自他共にリアリストを主張する沢松は自分の考えに自嘲して笑った。
こんな自虐的なことを考えてしまうのは、雨の所為だと片付けて。
そしてパソコンのスイッチを入れる。
彼の欲しいものを手にするために
自分は何でもするのだと
そう決めたのだから



いつだったかなんて覚えていない。
何故ならまるで宿命付けられているかのように二人は出会ったのだから。
自分は彼と、彼は自分と
対なる存在になるために、きっと生まれてきたのだ。
天国と出会えたことはラッキーとしか言いようがないな、と沢松は考えて。
信じてもいない神様に向かって感謝の言葉を口にした。





2002年9月23日