少しだけ硬そうな黒髪が視界の端をかすめて。
佐藤成樹は思わずそれを目で追った。



自分と、似ている。





Rebirth-day





異常気象かと思えるような夏。
梅雨はいつ明けたのかも判らずに、夏は気まぐれに来ては暑さだけを残し、秋のような日々が続く。
体調が憂鬱を訴え、部活の練習もそこそこにシゲは帰宅した。
いつもはそれを快く思わない部長である水野が、怪我をしている自分には甘くなっていることをシゲは知っている。
悪いがそれを利用させてもらおう。
シゲはそう思って適当な言い訳をして部活を早々に後にした。
少しだけの演技で、体調が悪いと言い張って。
「堪忍なぁ、タツボン」
呟いた言葉は苦笑に満ちていた。



雑多な人ごみの中、時折触れ合う肌に寒気を覚える。
自分はよほど体調が――――――それか機嫌が悪いらしい。
常にはない短気な自分にさえも内心で嫌悪を覚えて。
夏は嫌いじゃない。だけど、嫌いだ。
暑さは捨てたはずの自分を思い出させるから。
流れる汗を無造作に首を振ることで払った。
そのときに、視界を掠めた。



硬質で、まっすぐな黒髪。



思わず自分の髪に手を伸ばした。
掴む先はきつい日差しのような金色。
黒じゃ、ない。
もう一度顔を上げる。
黒髪が、目に入る。



捨てたはずの自分自身が。



縫い付けられたように足が動かない。
体のどこかが鉄のように冷えて重く重なっていく。
背中にじんわりと汗が滲んで。



何かを感じたのか、黒髪が振り返ろうと揺れる。
シゲは逃げ出したくなる衝動を感じた。
必死で捨てようとしてきたものを見せ付けられるのか。
どうして、何故、今このときになって。
塗りつぶしたはずの自分を。



夏の暑さに眩暈を覚える。
アスファルトが照り返す熱。
甦る、記憶と想い。
止まる息の音。
交錯する―――――矛盾。



厳しい日差しに負けない黒髪。
・・・・・・・・・・・・・・・あぁ。





自分は、こんなにも透明な瞳をしていただろうか。





「・・・・・・大丈夫か?」
かけられた言葉にシゲは無言で頷いた。
水滴のついた缶ジュースを渡されて、気だるい体を動かしてそれを飲む。
首筋に当てられた冷たいタオル。横から煽られる風。殺人的な日光を遮ってくれる木陰がいとおしい。
花火のようなチカチカが瞼の裏で踊っている。
―――――完全な日射病だった。
「・・・・・・・・・ほんま、すまんなぁ・・・・・・」
かすれてしまった謝罪に、隣にいる相手はどうやら眉をひそめたみたいで。
「いいからまだ休んでろよ。俺なら全然平気だから」
せやけど、と開きかけた口は柔らかに遮られる。
「おまえをこのままにしていった方が、俺は気になるし」
押し付ける様子などまったくない好意に、表情には出せなかったもののシゲは笑って。
そして大人しく甘受することにした。
自分と似た、黒髪を持つ彼の手を。





蒸すような夏の暑さ。
どことなく雰囲気のある街。
白粉の匂い、なぞられる紅。
抑えるような笑い声。
気に入ってた、場所。



向けられる好奇。
気にしてしまうようになった視線。
だけど笑う、それでも笑え。
それが当たり前になるように。
築かれていた、自分。



好きという気持ちは、自分を支えるにはあまりにも弱すぎて。
自分のことなのに、自分にはどうしようもない事実。
それを噂されて、勝手に決められて。
流せるほどに大人ではなかった。自分の心は傷ついた。
そして選んだ。
―――――――――自分を捨てる、と。
静か過ぎる朝に街を出た。
自分は、自由だ。



自由な、はずだ





視界にかすかな影を感じてシゲは意識を浮上させた。
どうにか、瞼を押し広げる。
その途端目に入ってくる痛ささえ感じさせる日差し。
木の葉の影。少しだけ涼しい空間。
骨ばった、長い指。
「・・・・・・・・・ぁ・・・・・・」
ようやく、思い出す。
「・・・・・・気がついたか?」
逆さまの顔が見えて。
何故か、泣きたくなった。



・・・・・・・・・自由なのだろうか、自分は。



ずいぶんと気分が楽になっている。
やはり一時的な日射病だったのだろう。
「・・・・・・俺・・・どのくらい、寝てたん・・・・・・?」
声もさっきよりかマシになっている。
「20分くらいかな」
「・・・・・・・そんなに・・・?」
「それだけ、だろ」
柔らかく笑う顔が見える。夏みたいだと思った。
だけど厳しくない、むしろ穏やか。
それなのに輝いてみえる。
まるでそれは、金色のように。



金色のように。



目の前の黒。
自分と良く似た黒。
だけど彼には金色は似合わないだろう。
黒がいい。
「・・・・・・名前、なんて言うん?」
身を起こしながら尋ね、その直後に気づく。
自分から名乗るべきだった。こんな簡単なことに気も回らないなんて。
けれど目の前の相手はそんなシゲの後悔にも気づかぬまま先に答える。
「真田一馬」
「・・・・・・中学生なんか?」
「あぁ、中二」
「ほな俺と同じや」
条件反射でそう答えてしまった自分に嫌気が差す。
嘘が自分の一部になってしまっていた。
でもきっと、目の前の彼は違うのだろう。
自分と同じ黒髪を持つ、一馬は。
「・・・・・・・・・嘘や。ホンマは俺、15歳やねん」
木の幹に背中を預けて瞼を伏せた。
「1コ、ダブッとるから中二やけど、ホンマは15なん」
「そっか」
「・・・・・・そうや」
変わらないでいてくれた雰囲気が嬉しかった。
詮索も何もしない一馬の性格を愛しく思った。
これはきっと突き放されているのではない。
腫れ物を扱うのではない、静かな優しさ。
・・・・・・・・・心地よい。



「俺な、藤村成樹っちゅうんや」
ゆっくりと目を開けてシゲは笑う。
一馬の黒髪は自分のものよりも綺麗かもしれない、なんて思いながら。





自分と良く似ていると思った彼は、実のところあまり似ていないのかもしれない。
いや、やっぱり似ているのかもしれない。
どうなんだろう、判らない。頭がうまく働かない。
厳しい夏の日差し。
噎せ返るような暑さ。
捨てたはずの黒髪。
手に入れたはずの自由。
似合う金色。
誰に。
誰に。



自分は本当に、自由なのだろうか。



「・・・・・・・・・なぁ、一馬」
名前を呼ぶときに一瞬だけ詰まってしまった。
振り向いた黒髪に触れたら終わりだと思う。
だけど、聞かずにはいられなかった。





「自分、いま幸せか・・・・・・?」





風が吹く。
暑さにやられてしまった思考回路。
ぐちゃぐちゃに絡まる想い。
あつい
暑い
熱い
アツイ



「・・・・・・藤村の言う『幸せ』っていうのがどういうものなのか判らないけど」
聞きたいようで、聞きたくない。
けれど時は確実に流れていく。
過去から未来へと向かって。





「俺は、いま、幸せだよ」





あぁ、とシゲは手のひらで目元を覆った。
何かで頭を殴られたような感覚。
心に直接響くような衝撃。
そうだ、忘れていた。



自分は、自分の『幸せ』があればいいのだと。
それだけで・・・・・・十分、なのだと。



すっかり忘れてしまっていた事実を指摘されてシゲは苦笑する。
そして嬉しくもなった。
自分の『幸せ』。
自分が決める『幸せ』。
自分が決める自分の『幸せ』。
そう、それが欲しかったんだ。
「・・・・・・そっか、それならえぇわ」
捨てたはずの自分と似ている一馬。
とても自分勝手な言い分だけど、彼が「幸せ」と言ってくれてホッとした。
自分がしてきたことは間違いじゃないのだと思わせてくれた。
自分で選ぶ『幸せ』。
「堪忍な、変な質問して」
「いや、それは別にいいけど。気分は平気か?」
「あぁ、上々や」
日射病の気だるさなど吹き飛んでしまった。
これもすべて一馬のおかげ。
シゲはようやく一馬の目を見て笑った。
「おおきに、一馬」





すっかり時間は経ってしまっても陽が傾くのが遅いのは夏のよいところだとシゲは思う。
我ながらなんて現金な、と一人で笑って。
「なぁなぁ一馬。今日のお礼に今度何か奢るわ」
「え」
目を丸くする相手に本日一番の笑顔を浮かべる。
情けないところを見せてしまった今、取り繕う必要なんてありはしない。
シゲは嬉しそうに、少しだけ照れながら笑って。
「せっかく介抱してもろうたんに、礼も何もせぇへんなんて失礼にもほどがあるやろ」
「いや、俺は気にしてないし」
「このままやと俺が気にするんやって」
先ほどの言い様を真似て言えば、それに気づいたかのように一馬は息を呑んで。
そして笑う。
「なら、喜んで」
その柔らかな笑みにシゲも心から笑顔を向けた。



夏の日差しを浴びて輝く黒髪を今は素直に綺麗だと思える。
自分は自分の意思で捨てた過去。
自由と共に手に入れた金色を今はとても大切に思う。
だから、それでいい。



「何かあったらいつでも呼んでや」
別れ際にシゲは言った。
突然の言葉に不思議というよりも、不可思議な表情を浮かべる一馬に向かって。
「暇なときでも、ヤなことがあったときでも、いつでもえぇ。何かあったら遠慮せんと呼んでや」
「・・・・・・・・・何で?」
「鶴の恩返しってわけやないで」
小さく笑って、シゲは答える。
「一馬のことが大好きやから」



戸惑ったように表情を動かし、けれど視線は外さない一馬にシゲは笑う。
そして、好きだと思う。
過去の自分とか、捨ててきた場所とか、いろいろと思い返してしまったことはあるけれど。
それでも会えてよかった。
『藤村』と名乗ることが出来てよかった。
それもすべて、彼のおかげ。



「大好きやで、一馬」
人生のターニングポイントに立ってくれた君に、心からの感謝と愛を。
嫌いになってしまった夏さえも今は素直に好きだと言えるかもしれない。





新しい人生を、今こそ一歩踏み出そうと決めた。





2003年8月22日