門出











青空、白雲、香る海風。
絶好の冒険日和。





































がらん、とドアについている大きなカウベルが鳴って、テーブルの椅子についていたチョッパーは振り向いた。鮮やかな晴天が開けっ放しのドアから覗き、まだ開店時刻を迎えていない酒場を場違いに明るく染め上げる。駆け込んできた人物は逆光で影になっているけれども、チョッパーが彼を見間違えることはない。麦藁帽子を被った姿が、ししし、といつになく楽しそうに笑っている。
「チョッパー、行くぞ!」
「え? ど、どこに行くんだ?」
「冒険に決まってるじゃねぇか! くーっ! わくわくしてきた! 行くぞ! すぐ行くぞ! 今すぐ行くぞ!」
「まさか、また海に出るのか!?」
「おお! もちろんだ!」
「ま、待てっ、ルフィ! 俺も行くぞ!」
ぱっと反転して走り出す背中に、チョッパーも慌てて叫んだ。置いていかれてなるものか。テーブルの上に広げていた湿布や包帯、聴診器などを慌てて鞄に詰め込む。向かいで診察を受けていた村の老人が、おやおや、と目尻を下げて笑った。彼の前に、チョッパーは調合したばかりの薬を置いた。
「ごめんな、俺行かなきゃ! この薬を毎日飲むんだぞ! 調合の仕方を書いた紙を置いておくから、他の医者にちゃんと作ってもらうんだぞ!」
「分かった分かった。大変じゃなぁ、おまえさんも」
「うん、大変なんだ! でも俺は男だから、やっぱり海が好きだ!」
「いっておいで。またいつか、戻ってきておくれよ」
見送られて、チョッパーも鞄を背負って酒場を飛び出す。太陽の光が眩しくて目が眩み、ポケットから零れたガーゼが勿体なかったけれど、今は時間が少しでも惜しい。村外れにある家まで戻って、支度を整えて、そして今にも船を漕ぎ出そうとしているであろうルフィの元まで追いつかなくては。息を切らし、全速力で駆けながらもチョッパーの口はいつしか満面の笑みを描いていた。ぴょん、と蹄が思わず飛び跳ねるほどに。


(ルフィ、俺も来たぞ!)



































「あんの・・・馬鹿っ!」
がん、とナミは手にしていた受話器を叩き付けた。電伝虫がびくりと震えて泣き出していたけれども知ったことではない。馬鹿、と再度罵ると、リビングからダッシュで自分の部屋へと戻る。キッチンでコーヒーを飲んでいたノジコが、不思議そうな顔で問いかけてくる。
「ナミ、どうしたのよ」
「あー・・・っ・・・もう! 怒りで言葉にならない! あの馬鹿が村を発ったのよ!」
「あの馬鹿って・・・あの?」
「そう、あの馬鹿! ひとりじゃ『偉大なる航路』どころか『東の海』だって出られないくせに!」
苛立ちをぶつけるかのように、クローゼットのドアを引けば留め金が外れた。一番大きなトランクを取り出して、そこに服を片っ端から突っ込んでいく。下着だって靴だって、気に入りの一着だって扱いは乱暴だ。化粧品と本と羽根ペン、地図だけは欠かしちゃいけない。
「ほら、食料。水もいるでしょ?」
「ありがと!」
「ミカンはどうする? 苗持っていく?」
「今回はいい! 木ならまだ元気だろうし」
ジーンズを脱いで、動きやすいショートパンツに履き替える。海ならパーカーよりもTシャツだ。髪なんか綺麗に整えていったところですぐ乱れてしまうのだから適当でいい。靴もサンダルに履き替えて、机の上のログポースを手に取る。球体の特別なそれはこの海では使えないけれども、絶対に必要になるはずだ。すでにすべてを記録しているから要らないと言われそうだけれど、持っていって損はない。外れないよう手首に巻きつけ、ナミは写真立ての家族に相対した。何度目の航海だろうと、きっと笑って背を送り出してくれる。そう分かっているから駆け出せる。
「いってきます、ベルメールさん!」
トランクを受け取って、ノジコとハイタッチを交わした後、ナミは港へ向かって駆け出した。あぁもう、と悪態を吐く唇は自然と吊り上る。ヒールで大地を蹴ってジャンプした。


(あたしがいなきゃどこにも行けないでしょ!)



































一隻の船を前に、ウソップとフランキーは腕を組んで立ち尽くしていた。ライオンを模した太陽のような船首は、久し振りに浴びる日光が嬉しいのかきらきらと輝いているようにさえ見える。所々古びていた箇所は、すべて板を張替え修理してしまった。キッチンのコンロに火がつくことも確認してしまったし、生簀は中をデッキブラシで磨き上げ、新たに水で満たしてしまった。綻びていた帆は新しく作り変え、麦藁帽子のジョリー・ロジャーを描いてしまえば支度は万端。サウザンド・サニー号は、出航のときを今か今かと待っている。
「俺ぁ・・・何で、こんなに本気になって調整してんだ?」
釘と金槌を両手に握り締め、フランキーは我が事ながら眉を顰めて船を見上げる。隣ではウソップが、これまたペンキと刷毛を手にして呻っていた。
「夢にメリーが出てきたんだよなぁ・・・」
「嫌な予感がするのは俺だけか?」
「いやいやいや、そこはせめて『いい予感』って言っておこうぜ」
「おまえ、どうすんだ。いいのかよ、奥さんは」
「そうだ、カヤ!」
顔色を青褪めさせたかと思うと、ウソップはペンキの缶を地面に落として頭を抱える。おおおおおお、と葛藤する様をフランキーは腕を組んだまま見下ろしていたが、その時間は三分にも満たなかった。立ち上がり、ウソップは自宅となっている屋敷の方へと走り出す。土煙がまるで狼煙のように軌跡を残す。
「悪ぃ、カヤ! 必ず戻ってくる! だから待っててくれえええええええ!」
物凄いスピードで消えていく姿に、フランキーは笑った。サングラスをかけなおし、にやりと高揚に唇が弧を描く。凛然と誇り高く海に浮く船に向かって、思い切り地を蹴った。
「さぁ迎えにいこうぜ、サニー号!」
船首のライオンが、嬉しそうに頷く。


(乗る船は当然こいつだろ!)



































磨きぬいた刀は三本。きつく腰に結びつけ、紐の上から腹巻を被る。黒い手ぬぐいを額に巻いたのは気合の現れで、緩む口元は高揚の証だ。しばらく世話になっていた和室に別れを告げ、ゾロは廊下から庭へと降り立つ。
「行くのかい、ゾロ君」
「ああ。世話になった」
「まったく・・・。せっかく、道場の良い跡継ぎが見つかったと思っていたんだけれどね」
「海賊が師範なんかしたら、先生の名に傷がつくぜ。まっとうな教え子を選んでくれ」
「うちの生徒はみんな君のファンだよ」
「そりゃあ悪いことをした」
思ってもいないことを言葉にすれば、初老を迎えた剣術師範は仕方がなさそうに笑みを返してくる。石庭から見上げる道場は、ゾロが幼少を過ごし、そしてここしばらく身を寄せていた場所だ。何もかもの始まりであった気もするが、魂の居場所はここではない。分かっているからこそ出て行くことに躊躇いはなかった。
「あいつが呼んでんだ。行かないような馬鹿はうちのクルーにはいねぇよ」
自信が誇りとなって滲んだのか、師範は苦笑いを浮かべながらも頷きを返してくれる。ゾロが一歩を踏み出せば、靴の下で砂利の擦れる音がする。食料も地図も何もいらない。この身ひとつさえあれば、それでいい。愉悦に進むゾロの背中に、師範が最後の一言を投げかけた。
「だけどゾロ君、せめて仲間が迎えに来るまで待っていなさい。君は致命的な方向音痴なのだから」


(方向音痴じゃねぇ! 今回は大丈夫だ! ・・・・・・多分。)



































岬は常に音楽に溢れている。ブルックが海岸でヴァイオリンを奏でれば、ラブーンは嬉しそうに巨体を揺らしてリズムを取る。クロッカスはベンチに背を預けながら新聞を開き見守っており、生気溢れるアフロで骸骨を飾り、ブルックはラブーンの頭を見上げた。
「ヨホホ・・・! 今日はいつになくおまえの頭が輝いていますね、ラブーン」
ブオオオ、と呼応するような声は、やはりどことなく喜びに満ちている。額とも言うべき場所に描かれているのは、とても歪なジョリー・ロジャーだ。シンメトリーは欠片もないし、まるで子供の悪戯書きのよう。それでもラブーンは心底その絵を大切にしていたし、ブルックにしてもそれは同じだ。毎日感謝を捧げて見上げている髑髏が、何故か今日はやけに鮮やかに見える気がする。
「もし、もしですよ、ラブーン。私がこの海をもう一周してくると言ったら、おまえは待っていてくれますか?」
ぱちりと、ブルックの背丈ほどもある瞳が瞬かれる。理解すれば寂しそうに細められたけれども、それでも歪なジョリー・ロジャーは確かに大きく頷いてくれた。そのことがより一層喜びを募らせて、ブルックの音楽も華やかなものとなる。
「ヨホホーイ、ヨホホーイ! クロッカスさん、ラブーンをまた頼みますよぉ!」
「まったく・・・仕方がないな、おまえたちは」
任せておけ、という心強い答えに、ブルックはまた新たな曲を奏で始める。海賊のための歌は悲しい思い出を秘めているけれども、それを飛び越える歓喜もまた含んでいる。ふわりとブルックは宙を舞った。骨だけの軽い身体は灯台の明かりに照らされて、ラブーンと一緒に海を走る。


(待ってますよぉ!)



































東西南北、それに『偉大なる航路』。この世のすべての海を集めた「オールブルー」に、一軒のレストランは建っている。船の形をしているそれは独特の海流に常に揺られ、ありとあらゆる魚料理を抜群の味で提供することを第一としていた。うっすらと煙の立ち上る煙草を口から離し、サンジは眉根を顰めて海を睨む。
「・・・・・・クソ不吉な予感がするぜ」
呟きに、じゃがいもの皮を剥いていた見習いコックが振り向いた。
「どうしたんですか、オーナー」
「今、うちの食料はどれだけある? 特に肉だ」
「は? ええと、昨日買い出しに行きましたから、一週間分はあると思いますけど。肉は百キロくらいなら」
「足りねぇ。絶望的に足りねぇなぁ、オイ」
短くなった煙草を灰皿に押し付け、新たな一本に火を点す。見習いコックは首を傾げていたが、サンジは唇から煙を吐き出して空を仰いだ。脳裏に浮かぶのは新たな料理のレシピでも、栄養配分の遣り繰りでもない。次のオーナーには誰を指名しようか、味はちゃんと受け継がせることが出来るだろうか。いっそ店を畳むか。しかしそれは余りに惜し過ぎる。乗らないという選択肢のないことが、より一層サンジにとっては不愉快だった。こんなに心地の良い不服は、贅沢な悩みであることを知っている。
「クソっ! 俺がどれだけこの店を開くのを夢見てたと思ってんだ」
煙と共に愚痴を吐き出しはするが、それもすぐに海風に吸い込まれて消えてしまった。波を割って現れた巨大な海王類に遠慮のない蹴りを食らわす。一撃で仕留める威力は本来なら料理人には必要のないもので、けれどそれを失わないよう今も努力を続けているのは、つまりサンジにとって当然のことなのだ。


(てめぇの胃袋を、俺以外の誰が満足させられるって?)



































開いていた本から、ロビンは顔を上げた。「最果ての地」と呼ばれる島は、ありとあらゆる知識に満ちている。求めていたものも見つかり、期待していた未来を見ることが出来た。今となっては穏やかな時間の中、一冊一冊の本を丁寧に読み解いている。和やかな毎日の中、ふとロビンの心が震えた。
「・・・仕方のない人」
情報は伝わらなくても、根拠のない確信が旅の始まりを告げてくる。読んでいない本も、読み足りない本も、それこそ山のようにあるけれど、生きている限りまた巡り合う機会もやってくるだろう。逃すことの出来ない一瞬を捕まえる方が難しい。特に、事これに関しては。本を閉じてその場に置き、ロビンは代わりに真っ白なノートを掴んで立ち上がる。
「たまには、本を記す側になるのも面白そうね」
「ロビン博士、どちらへ?」
「さぁ? 私にも分からないの。だからこそ楽しみじゃない?」
「研究はどうなさるんですか? 『真の歴史の本文』は」
「私は私の推論を打ちたてたから、後はみんなにお任せするわ。今はもっとこの世界を知りたいの。今度は私が後世に、今の世を伝えるために」
何人かの研究者を振り切り、ロビンは白衣を脱ぎ捨てた。脚立を降りる足は柄にもなく弾んで、年甲斐がないとは思いながらも最後の三段はジャンプで飛び降りる。湧き上がる興奮は、初めての遺跡を目の当たりにしたときとは別種のものだ。知識に踊るのは脳。だとしたら今震えているのは、間違いなくロビンの心。
「早く来て」
海に向かって、ロビンは無数の手を伸ばした。早く、早く、心が願う。


(迎えに行ったら駄目かしら。)



































船は小船。地図はなし。その代わりに食べ物だけは盛り沢山。動力は二本のオール。それだけで準備はオッケー。今にも港を離れようとしているひとりと一匹に、駆けてきたのはマキノだった。真紅のコートを、大きく宙で振って指し示す。
「ルフィ、忘れ物よ!」
「んん? あぁいいよ、それ。マキノにやるよ」
「やるよって、大切なものなんでしょう? 海賊王の証じゃない!」
「いいんだ。だってそれ、動き辛ぇし」
ししし、と笑ってルフィは岸を蹴る。左右に大きく揺れる小船に、チョッパーが悲鳴を挙げて縁へとしがみ付いた。手を伸ばしても届かなくなった距離に、マキノは溜息を吐いて肩を竦める。
「じゃあ預かっておくから、気をつけてね!」
「おお! マキノも村長たちによろしくな!」
大きく手を振って別れを告げられ、マキノは小さくなっていく小船を見送る。どこに向かうのかなんて決まっていないことは明らかだけれど、その旅路のすべてが冒険なのだと聞かなくても分かっている。昔からずっと、変わらない子供なのだ。ふふ、とマキノの唇から笑みが溢れた。
「いってらっしゃい、ルフィ」
世界で唯一のコートを抱いて、マキノは笑顔で見送った。太陽の下、力いっぱいの声が聞こえる。


(誰より海が似合う、あなただからこそ。)



































「野郎共、冒険だ!」








2009-2010年越し企画
2010年2月21日再録