目を覚ました視界いっぱいに広がっていたのは、とてつもなく巨大で面白い顔だった。それがイワンコフであることに気づくよりも先に、ルフィはその向こうの僅かな青空を捉えて目を瞬く。喧騒はなく、耳をくすぐるのは波の音だけ。ほう、とイワンコフが逞しい肩をおろした。
「気がついたわね、麦わらボーイ」
「イワちゃん・・・? どこだ、ここ。何で俺、寝てんだ?」
「ここは白ひげが奪ってきた軍艦。ヴァナタ、戦いが終わってすぐにぶっ倒れたのよ」
「あー・・・わりぃ、あんま覚えてねぇ。とにかくエースは取り戻したんだよな?」
「麦わらボーイ、ヴァナタがね。ンフフ、さすがね!」
起き上がろうとするが、傷と疲労のため上手く動けないルフィにニューカマーランドの住人たちが手を貸す。それぞれが皆、怪我を負ったりしてはいたが、すでに海軍との戦争は終結した。痛みの中に、けれど達成感が存在し、誰もがへらりと笑っている。麦藁帽子が無事であることを確認し、被ってルフィは首を傾げた。彼らが今いるのは船首の部分だが、中央付近の空気が何故か張り詰めたものになっている。物静かなことから海軍が乗っているわけではなさそうだが、一触即発の雰囲気がひしひしと肌まで突き刺さり、殊更にルフィは首を傾げる。
「イワちゃん、あっちどうしたんだ?」
「ンー・・・元はといえば、ヴァナタの所為なんだけど」
「俺? 何かしたか?」
「天然ほど罪作りなものはナキャブルね」
ふう、とわざとらしくイワンコフが肩を竦めて頭を振る。訳が分からずルフィが周囲を見回せば、ニューカマーランドの面々だけでなく囚人たちもイワンコフと同じく呆れたような表情だ。バギーとMr.3は「何でこんなガキが」やら「ありえないガネ」などと呟いており、クロコダイルは素知らぬ顔をしている。何だよ、と唇を尖らせたルフィに、イワンコフは現状を教えてやった。
「この船に、海賊女帝が乗ってるのよ。ヴァナタを追ってきたらしいわ」
「ハンコックが?」
きょとんとルフィが繰り返すと同時に、甲板の中央付近から激しい爆音が聞こえてきた。





数え切れないほど君の声が、愛が





ルフィやイワンコフが手摺りから顔を覗かせれば、一階分低くなっている甲板は白ひげ海賊団のクルーで埋め尽くされていた。マストの手前に船長である白ひげがおり、その巨体には包帯が巻かれ、点滴が繋がれている。その前にはマルコとジンベエが立ち塞がるようにして並んでおり、エースは少し離れた場所でナースに手当てされていた。よし、エースちゃんといるな、とルフィが確認していれば、「ヴァナタが見るのはあっち!」とイワンコフに頭を掴まれて視線の先を変えられる。甲板の中央には、ぽかりと人並みを掻き分けて円が出来ており、その中に背の高い女の姿があった。足元ではすでに伸したのか、白ひげのクルーがひとり倒れている。にょろりと蛇がかまをもたげて周囲を威嚇しており、後ろ姿だけでもルフィには女が誰か判別できた。ボア・ハンコックだ。何度も窮地を救ってくれた恩人にルフィが手を振ろうとするよりも先に、白ひげのクルーから怒号が挙がる。
「王下七武海が、よくものこのこ乗ってきやがって・・・! てめぇらがエースや親父に何したか分かってんのか!」
「海賊の誇りも忘れた政府の犬が!」
「今すぐこの船から降りやがれ! むしろ突き落としてやる!」
騒々しく、荒々しい罵りの言葉がそこかしこから放たれる。ルフィたちの位置からはハンコックの表情は見ることが出来なかったが、さらりと肩にかかる髪を払った仕種だけで周囲を黙らせるのは流石としか言いようがない。決して大きくないハンコックの声が、よく響く。
「まったく・・・うるさくて敵わぬ。弱い者ほどよく吠えるとは、上手く言ったものじゃ」
「何だとぉ!?」
わっと先程よりも空気が剣呑に染まる。怒りに耐え切れず刀で切りかかった男を、ハンコックは片手でいなし、その腹部に強烈な蹴りを食らわせた。吹き飛ぶのに巻き込まれ、数人が手摺りにぶつかって意識を失う。仲間を傷付けられたことで一層クルーたちが憤り、それぞれに武器を構え始める。ふ、とハンコックは笑った。
「わらわに文句があるのなら、かかってくれば良かろう? 勝てると思うような愚かな者であるのなら、という話じゃが」
「舐めやがって!」
「ひとりでこの人数に勝てると思ってんのか!?」
「海軍にやられた仲間の仇・・・! 思い知れ!」
わっと、数人がハンコックに飛び掛るが、一瞬後にはスリットから覗く足が華麗な技を披露して男たちを叩きのめす。一対数人の戦いが繰り広げられるが、ハンコックは王下七武海、そして九蛇海賊団船長の名に恥じず、容易くそれらをいなしていく。すげぇなぁ、とルフィは感心しながら眺めた。
「イワちゃん、何であいつら戦ってんだ? ハンコックは仲間じゃねぇか」
「ヴァナタはそうでも、世間は同じように見なキャブルよ。海賊女帝は王下七武海、つまり海賊でありながらも海賊の敵」
「でもさっきも助けてくれた。イワちゃんも見てただろ?」
「ンー・・・海賊女帝が助けたのは麦わらボーイ、ヴァナタだけだったものねぇ」
「それじゃ駄目なのか?」
「味方って断言は出来なキャブルでしょ。特に白ひげにとって王下七武海は、今まさに戦ってきたばかりの敵。そのひとりが逃亡するのについてきたら、そりゃ警戒しなきゃバッカブルよ!」
「ふーん。面倒くせぇんだな」
「まぁ、麦わらボーイがちゃんと説明すれば白ひげも納得するでしょ。っていうか麦わらボーイ、これは海賊女帝を連れてきたヴァナタの使命ね」
「えー面倒くせぇ。いいじゃねぇか、ハンコックはすげぇ良い奴なんだし」
「ンフフ、じゃあ『こいつは俺の女だ』くらい言ってくればいいんじゃない? なんて」
「よし、分かった!」
「冗談・・・・・・って、ハァ!? ちょ、麦わらボーイ!」
ちょっとからかいを見せただけのつもりが、ルフィは何に納得したのか頷いて立ち上がったかと思うと、ひょいと手摺りを飛び越える。白ひげクルーの頭を踏みつけて戦いの渦中に向かう様子は余りに身軽で、イワンコフは思わずあんぐりと口を開けてしまった。もちろん、先の台詞は冗談だ。ルフィとてそれは分かっているだろう。いくら自由奔放とはいえ、流石に場くらいは読めるに違いない。そうだ、そうに決まっていると胸を撫で下ろし、イワンコフは甲板を見守る。ハンコックの元へと辿り着いたルフィは男の拳を受け止めて、ひょいと投げ返した。
「ルフィ!」
乱入者にハンコックが気づき、慌てて攻撃を受け流していた動きを止める。男たちも立ち塞がったのがルフィだと分かると、反射的に武器を止めた。手当てを受け終えたエースが立ち上がり、マルコは眉を顰める。攻撃が止んだのを確認すると、ルフィはまっすぐに白ひげを見上げた。
「・・・気がついたのか、小僧」
「おう。わりぃな、白ひげのおっさん。ちょっと寝てたみてぇだ」
「まったくだ。おまえのせいで、ネズミが一匹乗り込んできやがった」
「ネズミってハンコックのことか? ひでぇなぁ。味方なんだから別にいいじゃねぇか」
「味方・・・? そいつがか? だったら何で今、俺たちを攻撃してくる?」
「ああ、わりぃ。ちょっと違った」
に、と歯を見せてルフィが笑う。先程の高慢な所作からはかけ離れた、いじらしく頬を染めるハンコックを従え、ルフィは言った。
「ハンコックは俺のだからよ。文句があんなら俺に言え」
腰に手を当て、薄い胸板をそらしてルフィは笑う。その後で「ん? 俺の女? いや、俺の仲間?」などと首を傾げていたが、そんなものは周囲の耳に入らなかった。白ひげでさえ言葉を失った。イワンコフは顎が外れるくらいに口を開いていたし、バギーは全身が切られていないのにばらばらになり、Mr.3は眼鏡が甲板にずり落ちて割れた。クロコダイルの唇から葉巻が海に消え、マルコは仰け反り、ジンベエは目を瞠っている。エースは何が起こったのか理解できていないのだろう。弟に伸ばしかけた腕をそのままに硬直し、甲板からは一切の物音が消えた。かと思えば次の瞬間、ニューカマーランドの住人たちがどっと沸く。喝采が飛んだ。
「ヒューッ! さっすが麦わらさん!」
「かーっこいい! 惚れる! いよっ、男前!」
「いやぁん、私も抱いてー!」
「ヒーハー! 麦わらボーイ、ドラゴンにちゃんと報告してるんでしょうね!? 海賊女帝なんて大物吊り上げるなんて・・・! 信じられなキャブル!」
「むーぎっわら! むーぎっわら!」
「むーぎっわら! むーぎっわら!」
黄色い歓声はまるで結婚式のファンファーレのように鳴り響く。おお、さんきゅ、とルフィは当たり前のように答えていたが、実際それにかなり近しい宣言だったのだ。ようやく我に返った白ひげは、ゆるりと息を吐き出して額に手をやる。マストに一層背を預け、おそらく無意識のまま台詞を放ったであろうルフィを見やった。
「小僧・・・今の台詞、嘘じゃねぇだろうな」
「ん? ああ、嘘じゃねぇ。多分」
「海賊が所有を宣言するってことは、おまえの名でそいつをすべてから守り抜くってことだ。海軍からも、他の海賊からもな。それが小僧、おまえに出来るのか?」
「そりゃ必要ならいくらでも守るけどよ。でもハンコックは強ぇから大丈夫だろ」
「逆に、おまえのしたことは全部そいつにも降りかかる。名を張るってのはそいうことだ。良いも悪いも互いに全部背負い合う。その覚悟が、小僧、おまえにあるのか?」
「背負っても俺は変わんねぇよ。自由じゃなきゃ海賊になった意味がねぇ」
なぁ、とルフィは背後のハンコックを振り仰ぐ。睫毛の長い瞳を限界まで見開いていたハンコックは、ようやくルフィの台詞を理解し始めたのだろう。指先から、耳から、徐々に白い肌を紅に染め上げ、固く閉ざされていた唇が震え始める。そんな彼女にもルフィは歯を見せて笑いかけた。
「ハンコック。おまえ、俺についてくるか? 俺は海賊王になるから、いろいろ迷惑かけるかもしれねぇけどよ」
「っ・・・!」
ついに膝が崩れて、ハンコックは甲板に座り込んだ。その頃になれば肌が染まっていないところなどなく、林檎のように真っ赤になった頬に両手を添えて俯く。艶めいた黒髪はやはり微かに震えており、小さく搾り出された声は感激にか恋情にか、酷く擦れたものだった。
「わ、わらわは・・・っ・・・」
ごくりと、誰かの唾を飲み込む音が響く、盛り上がっていたニューカマーランドの面々も今は息を詰めてふたりを見守り、船上の誰もがルフィとハンコックへ視線を注いでいる。戦闘とは違った緊張感が張り詰め、その中でそっと、細い指先が伸ばされた。形の良い桜色をした爪が、ルフィの傷だらけの手のひらに触れる。縋るように怯えるように、それでもぎゅっと、人差し指と中指を握り締め、ハンコックは顔を上げた。歓喜の涙に揺らめく瞳には、もはやルフィ以外の何者も映していない。
「ど、どうか末永く、お傍に置いてくださいまし・・・!」
「おお! よろしくな、ハンコック!」
「ルフィ・・・! わ、わらわは、わらわは『偉大なる航路』一の幸せ者じゃ!」
ついにぼろぼろと涙を流し始めたハンコックは、どこからどう見ても男を想うただの女で、海賊女帝などという厳つい肩書きは覗けない。眉を下げてそっとはにかむ表情はまさに傾国。つい先程まで怒りに任せて武器を向けていた白ひげクルーの八割が、その美しさに耐え切れず石と化した。ニューカマーランドの住人たちが一層激しく歓声を挙げ、今度はインペルダウンの脱獄囚までもが口笛を吹いてはやし立てる。麦わらてめぇ羨ましすぎるぞこの野郎、とバギーが独り身を代表して滂沱し、イワンコフは「これはもう結婚しかナキャブル!」と逸っている。白ひげは苦笑に近い笑みで、若いふたりを見下ろした。
「小僧・・・守ってやれよ、おまえの女を」
「おお! ありがとな、白ひげのおっさん!」
ハンコックにひしと腰に抱きつかれながら、ルフィも笑って応じる。宴だ酒だと騒ぎ出した甲板に溜息をマルコは溜息を吐き出し、ジンベエは目元を綻ばせた。クロコダイルは新しい葉巻に火をつけているが、すでに船は祝賀ムード一色に染まっている。白ひげのクルーたちもルフィの肩や背を叩いては「やるじゃねぇか、小僧!」とからかい褒め称え、事が和やかに纏められようとしていたそこで、ようやくエースが衝撃から戻ってきた。視界の中に飛び込んできた弟と、弟に抱きつくハンコックの姿に、エースは思わず絶叫する。
「お、俺は認めねぇ! ルフィ、おまえに女なんか早すぎるっ! 兄ちゃんはっ・・・兄ちゃんは、絶対に認めねぇからなぁああああ!」
認めねぇからなぁ、認めねぇからなぁ、認めねぇからなぁ・・・。海だというのに山びこのようなエコーを残し、己が海軍に捕まったときよりも慌てふためき動揺するエースを他所に、船上では派手な宴が始まった。ししし、と笑うルフィの横で、ハンコックは恋を抱き締め愛らしく微笑んでいたという。『偉大なる航路』にて海賊女帝が麦わらの女だと囁かれ始めるのは、それからまもなくのことだった。





ルフィは男前すぎる。恋する乙女なハンコック可愛い。イコール、麦蛇は素敵!
2010年1月10日