ついにここまで来たのだと、興奮と喜びで満ち溢れている背中に、ウソップは一歩踏み出した。麦藁帽子が揺れている。もはや遠目に影を捉えることの出来る島に、その本来の持ち主がいる。再び見えることを、追いつくことを、追い越すことを、何度己に誓ってきたのだろう。ウソップには分からない。それでもルフィは刹那たりとも躊躇うことなく、憧れの男の元へ突き進み、そして辿り着こうとしている。潮風がマントを揺らす。手の中で仮面が震える。慄く両足を思い切り叩いて、ウソップは甲板に立った。
「ル、ルフィ!」
それでもやはり、声は動揺を隠さない。振り向いたルフィの左頬には古い傷がある。出会ったときにはすでに存在していたため、ウソップはその傷がどうして出来たものだか知らない。さも当然のように彼を形作る。後から与えられた麦藁帽子のように、あたかも。
「ウソップ、何か用か?」
「お、おお、おおお、おおう。わ、悪いな、楽しそうなところ」
「何だ? どうしたんだよ、おまえ。何だそれ。・・・仮面?」
ルフィの視線が右手に注がれ、ウソップはびくりと全身で震える。けれど反動で決意を固め、その仮面を差し出す。翻るマントと、色鮮やかな仮面、そして飛び道具。鈍いし、ずれていると評されるルフィだが、その慧眼はいつだって誰より優れているとウソップは確信している。ルフィは一番大事なことだけは、決して間違えたりしないのだ。だからこそ安心して願い出ることが出来る。ごくり、ウソップは唾を飲み込んだ。大丈夫だ、言える。
「おまえに、頼みがあるんだ。・・・・・・船長」
ルフィの瞳が僅かに眇められ、表情が消える。真剣な面持ちに、ウソップは心を口にした。





世界で一番勇敢な嘘





ルフィとシャンクスの再会は、予想以上に簡単に、そして派手に行われた。春島に上陸した麦わらの一味を、赤髪海賊団が武器ではなく酒と大量の料理で持って出迎えたのだ。陸にサンダルをつけたルフィはそのまま弾丸のように駆け出し、中央で待ち受けていたシャンクスへと抱きついた。勢いなど全く殺さなかったそれをシャンクスは笑って受け止め、ふたりしてごろごろと地面を転がる。コートも脹脛も砂でどろどろになってしまったけれど、そんなことは小さ過ぎる問題だった。喜び笑い合い懐かしみながらも、少しだけ泣き出しそうな感情も含んで、ルフィとシャンクスは抱擁を交わす。古参の幹部らも目をかけていた子供の腕やら肩やら背やらを叩いて成長を褒め称え、そして宴が始まった。
溺れるほどの酒に食い切れないほどの料理。音楽は常に止まず、負けないくらいの歓声や掛け声がそこかしこで沸き起こる。宴が好きなことで有名な赤髪海賊団の名に恥じず、かつて類を見ないほど大規模な宴会だった。シャンクスがルフィをどれだけ待ち侘びていたか一目で分かる。ゾロはベックマンと酒を挟んで語り合い、サンジは作る料理を片っ端からルウに平らげられている。動く骸骨のブルックと半サイボーグのフランキーは不思議人間だと大人気で、ナミとロビンは女に縁遠い男たちに囲まれちやほやもてはやされている。乗る船を違える海賊ともなれば戦うのが普通だが、今回に限ってそれはない。漂うのはただ船長同士の再会を祝す空気だけで、誰もがただ自分たちのリーダーの喜びを我がことのように感じている。
そんな中で喋るトナカイだと愛でられていたチョッパーは、あることに気づき角をぴくんと跳ねさせた。慌てて囲まれていた輪から抜けると、男たちからブーイングが鳴る。温かく構われることに慣れてないため逃げるようになってしまったが、こそばゆくて目尻が垂れる。向かった先では、ルフィとシャンクスが座っていた。肩を組むほどにその距離は近く、密談するかのように合わされていた額がチョッパーに気づき振り返る。
「何だ、チョッパー? どうした?」
「ルフィ、ウソッ」
プがいないぞ。台詞は全部言う前に、伸びてきた手に遮られた。ルフィはチョッパーの口を塞いだかと思うと、持ち上げて自分の胡坐の上に載せてしまう。隣のシャンクスが一気に近くなり、覗き込まれてチョッパーは固まってしまった。その隙に更にルフィによってわたあめを口に押し込められて喋れなくなってしまう。本当にわたあめが好物なんだなぁ、とシャンクスが笑った。彼の頭上では、十年以上の時を経て戻ってきた麦藁帽子が輝いている。ルフィがつけてしまったいくつもの傷さえ、まるでシャンクス自身のものであるかのように。
「なぁシャンクス、それとヤソップ」
「ん?」
ルフィの声かけに、近くでジョッキを呷っていた幹部のひとりが首をめぐらせる。ドレッドの髪型に見覚えはないが、彼の目元が誰かと重なってチョッパーは首を傾げた。ふたつめのわたあめに手を伸ばす。
「俺、ふたりに頼みがあるんだ。うちの狙撃手にそげキングって奴がいるんだけどよ」
「あぁ、そういや宴に来てねぇな。腹でも壊してんのか?」
「いや、今は船で待ってる。そいつがさ、ヤソップと勝負したいって言ってんだ」
シャンクスが目を瞬いた。ヤソップも虚を衝かれたような顔をしたが、他の者たちには聞こえていないのだろう。チョッパーだけが驚いてルフィを見上げていたが、麦藁帽子のない姿は新鮮であると同時にどこか違和感があって口を挟めない。夜も冷えてきたことから、シャンクスの黒いコートを借り受けているルフィは、に、と唇を吊り上げて続ける。
「俺は船長だから、仲間の望むことは全部叶えてやりてぇ。だから頼む。ヤソップ、受けてくれ」
「・・・だとよ。どうする?」
瞳を悪戯に輝かせてシャンクスが仲間を見やる。挑まれたヤソップは厚い唇を歪めてルフィを見つめ返した。
「お頭の許可が出て、受けない理由はねぇだろ。むしろこっちから頼みたいくらいだぜ。この俺を差し置いて狙撃の『キング』を名乗られちゃ堪らねぇからな」
「そうと決まれば決闘だ! おい、おまえら! 今すぐ勝負の舞台を整えろ!」
ぱん、と己の膝を叩いて立ち上がり、シャンクスが宴を満喫しているクルーたちへ声を張り上げる。音楽にも負けずに場へと響き渡ったそれに揶揄がいくつも上がるが、ベックマンは慣れたもので溜息を吐き出して腰を上げる。ルフィは変わらずに座ったまま、視線だけを仲間へ投げた。
「ゾロ、サンジ。船からそげキングを連れて来い」
了解、キャプテン。頷いてふたりがサニー号へ向かう。宴は一気に雰囲気を変え、更なる高揚に盛り上がる。

その姿を目にしたとき、ウソップは自分が泣いてしまうのではないかと思った。実際、じわりと目の奥が熱くなり、仮面の奥の瞳は滲んだ。何年、会うことを焦がれていただろう。顔など写真でしか知らない。幼すぎた思い出はもう覚えていない。海賊になり、海へ出た。そう教えられたときの感情すら、今の心は思い出せない。誇ろうと決めたのは、女手ひとつで育ててくれた母が、愛する夫を信じていたから。だからこそ自分も父を誇り、いずれは父のように海賊になろうと口にしてきた。会いたいと思っていた。会いたいと思っていた。だが、それでも―――会ったら殴ってやりたいと、そうも思っていた。
苦労をしなかったといえば嘘になる。働き続けた母は病を患い、息を引き取ることを余儀なくされた。最後の最後まで夫を信じ、夫が帰ってくることがないと理解していた。葬式が終わった夜、ひとりきりになってしまった家でどんなに泣いたか。母が悲しい顔をするから言葉にはしなかったけれど、心中で父を罵ったことは数え切れない。自分と母を捨てた、裏切った、そう思ってしまったことは何度もある。誇りだと、口にしなければ保てなかった。尊敬と憎悪をいつだって同時に抱えてきていた。男は尊ぶべき海の先人で、そして父としては最低だった。だからこそ、越えなければならないと思った。
近くに赤髪海賊団がいると知ったとき、ルフィがシャンクスに会いに行くと言ったとき、ウソップの決意は固まった。ヤソップという男を越えない限り、自分は本当の意味での「勇敢なる海の戦士」になれない。父を、純粋に慕えない。だからこそ願い出たのだ。勝負をさせて欲しい、と。そして今、ウソップはこの場に立っている。
「おい、泣くのはまだ早いだろ」
「クソ剣士の言う通り。全部終わってからにしやがれ」
ゾロに呆れられ、サンジに背中を蹴られて輪の中へ突き落とされる。本当ならば格好つけて悠然と歩いていきたかったが、足の震えを誤魔化すだけで精一杯だ。赤髪海賊団のクルーが冷やかすような野次を飛ばす、その真ん中に、いる。思い描き、追いつきたいと思っていた姿。父はウソップが想像していたよりも背が高く、逞しい体つきをしていた。髪質は己と同じで、目元は我ながら瓜二つ。やっと、会えた。やっと、やっと。奥歯を噛み締め、声を絞り出した。嗄れるかと思うほどに、必死に。
「私の名はそげキング! この度の挑戦を受けてくれてありがとう、ヤソップ君!」
「あぁ。俺が赤髪海賊団の狙撃手だ。勝負の方法は俺が決めて構わないんだな?」
「もちろんだとも。私から無理を言ったのだから」
名を呼ぶことに、どんなに勇気がいったのか、きっと目の前の男は一生知らないままだろう。それでいい。ぎゅ、と愛用の飛び道具を握り締める。手のひらに爪が食い込んだ。
「なら勝負はシンプルにいこうぜ。この宴会場を出て、俺とおまえで島を一周する間にどっちが多くの生き物を打ち落とせるかを競う。外周は四キロもないから、そうそう時間もかかんねぇだろう。弾はペイント弾で、カウントするのは公平を期すためお互いのクルーから出す」
俺が行くっす、と赤髪海賊団からふたりが名乗り出て、俺たちに任せろ、とフランキーとブルックが胸を叩く。
「狙撃手としての腕を競うから、今回は互いの妨害はなしだ。銃が要るようなら貸すが、武器はそれでいいのか?」
「うむ、せっかくの申し出だが謹んで辞退しよう。使い慣れている武器に勝るものはない」
「違いねぇ。おい、弾の用意は出来たか?」
下っ端に声を飛ばし、ヤソップが背を向ける。広いそれは、ただ目の前にあるだけでウソップを圧倒する。越えなければならない。越えなければ、ならない。分かっているからこそこのような真似をしているのだけれど、それでも心中は今にも逃げ出したくて堪らない。怖い。敵わないに決まってる。ずっと追いかけてきた、焦がれて父なのだ。自分なんて敵うわけがない。でも、でも。
「そげキング」
「っ・・・ル、フィ・・・」
愚かに巡る思考を吹き飛ばすように、その声はウソップの耳を奪う。反射的に顔を向ければ、最も上座についているふたりのうち、ルフィだけが目に入る。黒いコートを肩にかけ、泰然と、その視線はウソップを貫いた。
「勝てなくてもいい。でも、負けて仕方ねぇとは思うな」
「っ!」
「決めたんだろ? 乗り越えろよ。おまえなら出来る」
いつだってまっすぐに突き進むルフィの言葉は、何より強くウソップの心を鼓舞してくれる。唇を噛み締め、頷いた。よし、とルフィが笑う。頑張れ、とチョッパーが叫び、負けるな、とナミとロビンの声援も聞こえた。渡されたペイント弾を腰のポーチに詰め込み、スタートラインに向かう。急場ごしらえのため、地面に木の棒で引いただけの粗末なラインだ。だけど、そんなもんか、とウソップは笑ってしまった。そう、自分にはこれくらいが相応しい。
「時に聞くが、そげキング。おまえのその長い鼻は作り物か?」
隣に並んだヤソップが問いかけてきた。弾丸を装填している横顔は己を見てはいないが、ウソップは振り向いて仰ぐ。
「・・・だとしたら、どうかしたかね?」
「いや。・・・ちっと、故郷に置いてきた女房を思い出しただけだ。俺には出来すぎた、いい女だった。あいつも息子も・・・元気にしてるといいんだが」
―――涙が溢れたのを、どうか許して欲しい。気にかけていてくれた。それだけでもはや十分だ。仮面を上から強く押さえることで、涙が外に漏れるのを防ぐ。くぐもった声で紡いだ、母ちゃん、という言葉は聞かせたくなかった。だけど、ようやく心から思えた。やはり自分は、この男のようになりたかったのだと。
「・・・・・・君の息子なら、きっと勇敢なる海の戦士に育つことだろう。いつか海で出会ったら、その台詞を言ってやるといい。家族を愛している、と」
「馬鹿野郎、そんなことは言えねぇよ。俺ぁ海賊だぜ? 家族を捨てた男だ」
「それでもきっと、君の妻と息子は幸せだろう。ありがとう、ヤソップ君。やはり私は君と会って良かった」
怪訝な顔をされたが、それ以上を告げるつもりはなかった。空砲を手渡されたルフィとシャンクスが立ち上がり、空へと向けて銃を構える。腰を屈め、駆け出せる体勢を作る。もはや先程までの止め処ない思考はすべて吹き飛ばされていた。常のネガティブささえ心の内には感じられない。ただ今は、この与えられた挑戦の機会を嬉しく思う。素直に受け止めよう。そして挑むのだ。己の世界で最も高い場所にいる、父という男へ。
パァン! 勝負の始まりが告げられた。勝っても負けても、自分は今日、「勇敢なる海の戦士」になってみせる。誓ってウソップは走り出した。もう、父の背中は追わない。





俺は今日、正真正銘の「狙撃の王様」になる。
2010年1月3日