「おつるさん」の愛称で親しまれている海軍中将、つるは、進む先に初めて目にする人物を見とめて足を止めた。広い海軍本部の廊下に立っているのは、海賊の中でも唯一この場に出入りを許されている王下七武海の一角、「海賊女帝ボア・ハンコック」だろう。断定しないのはハンコックが王下七武海に名を連ねて以来、初めて海軍の召集に応じているからだ。名は広く知られていれど、姿を知る者は少ない。海軍内でもハンコックと対面したことのある人物は、センゴクを含めほんの数人。例に漏れず、つるも初めてハンコックを目にしたが、誰に確かめるでもなく当の本人であると確信していた。何故なら、そこに立つ海賊は酷く美しかったからだ。噂に違わぬ絶世の美女に、廊下を行き交う海兵たちがある者は見惚れて目をハートにし、またある者は意識すら奪われて蕩けている。情けないと思わないでもないが、この美貌の前ではそれも仕方がないだろう。意識を引き戻してやるわけでもなく、つるは海兵たちの合間を抜けて、ハンコックの背を静かに通り過ぎた。海賊女帝は動かない。どうやら壁に貼られている無数の海賊の手配書を眺めているようで、戦闘までの時間潰しかね、とつるは思った。
センゴクの元で所要を済まし、部下の将校たちにいくばくかの指示を与え、つるは廊下をのんびりと戻ってきていた。白ひげとの開戦を考えれば悠長にしている時間などないのだが、すでに作戦は確立し、展開されている。今更慌てるようなことは精々インペルダウンで起こっている脱獄騒動くらいだが、それはつるの領分ではない。センゴクは頭が痛いだろうねぇ、と同期の男を思いやりながら歩んでいれば、進む先に誰かが立っているのに気がついた。長い黒髪と色鮮やかな衣服は、海兵たちの軍服とはかけ離れている。凛とした横顔はつい先程初めて認識したボア・ハンコックのもので、つるは手元の時計で時間を確認した。つるがさっき、この廊下を通ってからすでに二時間近くが経過している。もしや、ハンコックはその間ずっとここに立ち尽くしていたのだろうか。王下七武海は白ひげ海賊団が現れるまで待機を言いつけられており、政府に追従しているとはいえ海賊であるため本部を自由に闊歩することは許されていない。与えられた部屋か、認められた範囲内しか出歩けないにしても、廊下に二時間も立っているとは一体どうしたことだろう。気になりはしたが、つるは声をかけることなくハンコックの背を通過した。ちらりと視線を向けてみれば、ハンコックは一枚の手配書をじっと見つめているようだった。思わず過去を懐かしんでしまうような写真は、つるの同期であるガープの孫のものだった。
三度つるがその廊下を通ったのは、更に二時間が経過した後だった。そろそろ各自が配置に着き始める時刻となり、本部は慌ただしく最後の支度に追われている。最終的な打ち合わせをするためにセンゴクの元へ行く途中、やはりハンコックは先程と同じ位置に立っていた。壁に貼られている手配書の中でも、変わらずたったひとつだけを見つめている。白皙の横顔は相変わらず美しいものであったが、二時間前よりも僅かに青褪めているように、つるの目には映った。海軍内は徐々に処刑への緊張と高揚が膨らんでおり、戦いの気配が色濃く漂い始めている。王下七武海の面々もさぞや白ひげの襲撃を心待ちにしているのだろうと思っていたが、どうやらハンコックだけは違うらしい。袖口に隠された、たおやかな手が握られている。小刻みな震えが髪を揺らし、鮮やかな艶を放っている。きつく唇を噛み締め、ハンコックは何かに懸命に耐えているようだった。つるはその後ろを、変わらず静かに通り抜ける。ルフィ、という呟きは乞うようで祈るようで、つるの耳にしか届かなかった。すらりとした背筋を少しだけ俯けて、ハンコックはやはり立ち続けていた。
四度目、つるはついに足を止めた。すでに大半の海兵はそれぞれの持ち場へとついており、つる自身も処刑台へと向かわなくてはならない。目の前のハンコックにしても同じことで、王下七武海は最前線に配置されるため、時間はもう僅かしかない。すぐ傍で立ち止まった存在に気づいたのか、振り向いたハンコックの顔はやはり青白く、瞳は今にも崩れそうな弱さを帯びていた。背負う名は勇ましいものであってもハンコックは女性であり、歳もまだまだ若いのだ。そんな彼女に、つるは一枚の手配書を差し出した。写真では五時間以上ハンコックの見つめ続けた「麦わらのルフィ」が、満面の笑顔を浮かべている。ハンコックが大きく目を瞠った。
「女同士、野暮なことは聞かないよ。要るなら持っておゆき」
「わ、わらわは・・・っ」
「まったく、おまえさんも面倒な男に引っかかったもんだねぇ。あの血筋は女にとって最悪だ。・・・苦労するよ」
拳を握ったままの手を取り、そこにつるは手配書を押し付けてやった。解かれた指先が恐る恐る受け取り、縋るように胸に押し抱いてハンコックは深く嘆息する。顰められた眉は、それでも安堵のためだとつるには分かった。
「・・・・・・礼を、言う」
「いいよ。すぐに戦いが始まる。おまえさんも気をつけるんだよ」
浅く頷いたハンコックを見守ってから、つるは再び歩き出す。階下からは海兵たちのどたばたと走り回る足音が聞こえてきており、騒々しいねぇ、と思いながら曲がり角で振り返れば、ハンコックは未だ廊下に立っていた。けれどその横顔ははんなりと色付いており、頬の赤みはあどけなく目を惹く。柔らかな眼差しでじっと手元の紙を見つめていたかと思うと、俄かに周囲を見回した後、ハンコックは手配書にそっと唇を寄せた。初々しい所作は海賊女帝などではなく、ひとりの少女のものに、つるの目には映った。





抱き締められる覚悟なら





「おお、おつるちゃんか。遅かったのう!」
海軍本部を出たところにいたのは、ガープだった。年老いてなお隆々とした筋肉を備えている同期を見上げ、つるは思わず深い溜息を吐き出してしまった。何じゃ何じゃ、と首を傾げてくる様子は何年経っても子供のようで、変わらない性質の悪さを嘆かずにはいられない。おそらく件の孫も、目の前のガープのような男なのだろう。想像に容易い相似に、つるはハンコックの負うだろう苦労を思った。
「まったく・・・おまえさんの血筋はどうにかならんのかい、ガープ」
「ぶわっはっはっは! そんなもんは今更じゃろう! 早く諦めるんじゃな!」
豪快に笑うガープに、やはりつるは溜息を吐いた。別の入口から現れ、目をハートに変えた海兵に先導されて最前線へと向かっていくハンコックの背は凛と伸ばされ、横顔は一切の感情を見せない。けれどその手が一瞬左胸へと当てられたものだから、つるには分かってしまった。おそらくハンコックはそこに、愛しい男の手配書を秘めているのだろう。可愛いねぇ、とつるは小さく微笑む。
「器の大きな男に惚れると、苦労するのはいつも女だ。・・・あの娘も、これからが大変だよ」
ガープが首を傾げているが、性質の悪い男の代表例に何を教えてやることもない。颯爽と出陣していくハンコックの後ろ姿に、つるは別のエールを送った。例え海賊女帝であろうと、つるにとっては孫に似た年齢の子供であり、そして女としての後輩にしか過ぎないのだから。





あなたが抱き締めてくれるなら、わたしのすべてを捨てても良かった。
2009年12月23日