甲板から見上げる空では、きらきらと星が輝いている。耳を擽る波音はいつも通りの海だけれど、望んでいるものとは全然違う。これだって嫌いではないけれど、それでも自分の手の中にあるものではないのだ。よっ、とひとつ声を上げて、ルフィは立ち上がった。頭上の麦藁帽子を押さえて、しししと笑う。





星のように月のように





無事とは言いがたいが、それでも勝利は勝利だ。傷ついた仲間は多かったけれども、それでもエースを奪還し、白ひげも満身創痍ながら生きている。海軍の追っ手を振り切って約三日、マルコは限界速度で進む船団の指揮を執っていた。傘下の海賊団も合わせれば、船の数は五十を超える。そのどれもで昼夜ぶっ続けの宴が催されていた。中心はやはりエースで、家族の帰還を誰もが歓喜で迎え入れていた。だが、今はその喧騒もようやく過ぎ去り、静かなときがやってきている。月も高い位置に昇り、見張りを除いたほとんどのクルーが眠りについていた。しばらくは休息に浸り、活力を取り戻さなくてはならない。もちろん気を抜くことは許されないが、緊張の糸が切れたように眠りこけている仲間たちを起こすつもりもなく、マルコは足音を消して甲板を進んでいた。暗闇の中、目指すのはただひとつだ。星と月から隠れるようにして動いている背中に、溜息混じりに投げかける。
「何してんだよい、エースの弟君」
びく、と仰々しいまでに肩を揺らして、細い影が振り返った。見つかった、と言葉にせずとも表情だけで語られて、まるで悪戯がばれた子供のようだとマルコは思う。実際に子供なのだ。まだ十七でしかない、小さな子供。
「マルちゃん」
「マルちゃんって呼ぶんじゃねぇよい」
びし、とデコピンを額に食らわせれば、「痛ぇ!」と子供が悲鳴を挙げる。けれどそれも時間を踏まえてなのか、とても気を使った小さなものだ。モンキー・D・ルフィ。話では耳にタコが出来るくらい聞いていたし、三億ベリーを従えた手配書で顔も知っていたけれども、動く張本人を実際に目にしたのは先程の戦場が初めてだった。正直な話、マルコはルフィがどうしてマリンフォードに現れたのか理解出来なかったし、兄を助けるために単身で大監獄インペルダウンまで乗り込んだと聞いたときには、とんでもない阿呆だと思ったものだ。話よりぶっ飛んだ奴だよい、と認識を新たにしながら、マルコは幼い海賊を見下ろす。
「こんな夜更けに何やってんだよい。子供は寝る時間だろい」
「子供扱いすんなよ。俺、もう十七だぞ?」
「エースの弟なら子供で十分だろい。で、何やってんだよい? こんな時間に隠れてこそこそと」
「ん? ああ、そろそろ出航しようと思ってよ。海軍ももう追って来てねぇみてぇだし、宴も終わっただろ?」
首を傾げるルフィの背後では、やはり寝ているクルーたちを起こさないようにひっそりと活動している集団がいる。白黒の縞模様の服を着ているのはインペルダウンを脱獄してきた囚人たちで、網タイツを装着しているのは同じく脱獄囚でありながらも些か性質を違えるニューカマーランドとやらの住人たちだ。両者に共通しているのは、マルコの属する白ひげ海賊団のクルーではないということと、ルフィに引き摺られるようにしてやってきた対海軍との戦闘で確かな戦力となったことだろう。彼らはこそこそと動いては、それぞれの荷物を整えたり、宴の残り物である食事や酒などをちょろまかしたりしている。その様子からはルフィの言葉通り、船を後にしようとしているのが窺えた。
「何で出ていく必要があるんだよい。もっと乗ってけばいいだろい」
「? 何でもっと乗ってく必要があるんだ? この船は白ひげのおっさんの船だろ? 俺が乗ってる理由がねぇじゃねぇか」
マルコの言葉に、それこそルフィは不思議そうに首を傾げる。薄々感じていたことを、マルコはこのときになってようやく確信した。この子供は、エースの弟でありながらも兄とは絶対的に違った面を有している。そりゃあ義兄弟なのだから当然かもしれないが、育ちを同じにしてきたにしても余りに差異がおびただしい。エースは奔放に見えて、あれで意外と常識を弁えている。仲間内にいるときは馬鹿もやるし可愛がられる側でもあるが、ひとりのときは白ひげ海賊団の二番隊隊長という肩書きに見合った振る舞いをとることが出来、何より海図が読めて食料配分だって考えられる。エースは器用で、ひとりでもちゃんと生きていける。だが、この弟は違うだろう。ルフィはひとりでは生きていけない。海図なんて読めなさそうだし、食料配分なんて宴の様子を見ている限り概念だって知らなさそうだ。ルフィは不器用で、ひとりでは生きていけない。けれどそんな子供には、必ず手を貸してやる大人が現れるのだ。そう、今回のように。
「すまない、マルコさん。ルフィ君がどうしてもと言って聞かないんじゃ」
ジンベエが申し訳ないといった顔で謝ってくるが、当のルフィはししし、と歯を見せて笑うだけだ。
「イワちゃんの仲間の船が近いところまで来てるんだってよ。そこまではジンベエが送ってくれるって言うしさ」
「んで、そいつらも撤収すんのかい?」
「当然だろうが! これ以上こんな危険なとこにいて堪るかよ!」
「そうだガネ! 私たちの目的は脱獄であって、海軍に追い回されることじゃないガネ!」
バギーとMr.3も口々に主張してくるが、白ひげ海賊団と共に海軍に武器を向けてしまった彼らの首に更なる賞金額が懸けられることなど火を見るよりも明らかで、けれどマルコは黙っておいた。特にバギーに関しては白ひげが彼を上手く乗せて囚人たちごと戦いに担ぎ出した件もあるし、ひとつの借りを作ってしまったことは認識している。いつか返さなくてはいけなくなる日が来るだろうが、この様子を見ているとどうでもいいことでチャラになりそうな気もする。親父や弟君とはまた違った意味で大物だよい、と呆れを多分に含ませながら、マルコはMr.3と額を合わせて今後の平穏な海賊生活について意見を交し合っているバギーを見やった。
「あ、ちゃんとクロコダイルも連れてくから心配すんなよ」
「そりゃあ助かるけどよい、ちょっと急過ぎねぇかい? 弟君、まだエースと話してないだろい?」
「別にいいよ。今更エースと話すことなんてねぇし」
「そんなこと言うんじゃねぇよい」
思わず語尾が強まってしまったのは、完全にマルコの意識外の産物だ。おそらくルフィは、自分がどれ程白ひげ海賊団の中で有名かを知らないのだろう。それこそ二番隊の隊長になる以前から、エースは自分に弟がいることを仲間内に触れ回っていた。手のかかる面倒な奴なのだと、言葉とは裏腹に可愛くて仕方がないのだと垂れた目元で語りながら、どれだけのエピソードを聞かされただろう。三千万ベリーの値がついた手配書を、エースが後生大事に持っていることをルフィは知らないに違いない。一億に跳ね上がり、三億に駆け上った手配書も、すべて大事に持っていることを知らないに違いない。兄の心、弟知らず。思わずそんな言葉がマルコの胸に浮かび上がってしまい、天秤がエースに傾いた。叱責を含んだ眼差しにルフィは丸い目を瞬いていたが、やはり「ししし」と笑った。それはマルコの硬い態度を喜んでいるかのような素振りだ。
「エースは愛されてんな!」
「・・・まぁ、うちはクルーはみんな家族だからよい」
「おう。エースのいたいと思った場所が、白ひげのおっさんのところで良かった」
「・・・・・・」
「でも俺は弟だからな! エースを困らせんのは俺の特権だ。マルちゃん、知ってっか? 弟ってのは兄ちゃんをいくらでも困らせていいんだぞ!」
「そんなの知らねぇよい」
「だって俺を叱るエースは嬉しそうだからな。だからエースを困らせんのは俺の特権で、俺を叱んのはエースの特権なんだ。ずっと昔からそうなんだ」
手摺りに腰掛け、ルフィは麦藁帽子の上で手を組む。何となく、マルコは自身の敬愛する白ひげと並び称される赤髪の海賊を思い出した。あの男も十年以上前は、麦藁帽子を被って自由にこの海を航海していた。気づけば帽子も左腕も無くしていたが、今もその姿勢は変わらない。戦いと同じくらいに冒険を好む、まるで子供のような大人なのだ。目の前のルフィも、きっと赤髪のような大人になるのだろう。そんなことをマルコは漠然と考える。
「エースは俺の兄ちゃんだからな。兄ちゃんなエースは格好つけたがりだから、弟の俺の前じゃ弱いところは見せねぇんだ。だから今回のことは、勝手に助けに来た俺が悪い」
「・・・・・・弟君に助けられたのは、エースだけじゃなくて親父もだよい」
「ん。でもやっぱり、エースは俺にだけは助けられたくなかったんじゃねぇかな。俺はエースを助けたかったから助けたけど」
「・・・・・・そんなことはねぇよい」
「だから俺は、エースに叱られる前に逃げるんだ! 肉とか酒とか貰ってっていいよな? 俺たちは海賊だから、駄目なら奪っていくけどな!」
ルフィの目が、まるで星を映したかのようにきらきらと輝いている。マルコは前言を撤回した。この弟は、弟なりに兄を理解している。それはマルコたち白ひげ海賊団の仲間たちが見ている方向とは、また異なった視点からのものなのだろう。庇護下にありながら庇護しているような、庇護されることを甘んじて受け止めているような、それでいて知らぬうちに庇護の手を返しているような、そんな印象を漠然と受ける。もしかしたらルフィは、マルコが話に聞いていたよりもずっと大人で、ずっとしっかりしているのかもしれない。エースは弟を可愛がりすぎているため、もしかしたら無意識のうちに自身の腕の内に囲っておきたかったのかもしれない。けれどそうするには余りに、この弟の器は大きすぎる。
「弟君は、これからどうするんだよい」
ルフィの後ろでは、囚人たちが次々に支度を整えている。クロコダイルの眼差しを受けたMr.1が能力を使って、予備の小船のロープを切り落としていく。
「仲間を探す。くまの奴に吹っ飛ばされてばらばらになっちまったけど、レイリーっておっさんのビブルカードをみんな持ってるから集まることも出来ると思うんだよな。そうしたらまた冒険に出るんだ。とりあえず最初は魚人島だ!」
「ンフフ、麦わらボーイが仲間と合流したら、ヴァターシの役目も終了ね」
「ありがとな、イワちゃん! すげぇ世話になった。会ったことねぇけど父ちゃんにもよろしくな」
「ドラゴンに自慢してあげなッキャブル! ヴァナタの息子と仲良くなっちゃったって」
イワンコフが長い睫毛を瞬かせて楽しそうに、誇らしげに笑う。夜目でも直視するには厳しい外見だが、そんなイワンコフでさえルフィは見事に従えてみせた。クロコダイルといい、バギーたちといい、人は何だかんだと言いながらもルフィの下に集った。彼以外の何者でも、きっと今回のような運びは出来なかっただろうとマルコは思う。ルフィは人を従える。それは白ひげのような、強者であり包容力に富んだ、そういった類のものではないのだ。はちゃめちゃでどうしようもなくて、それでも己の信念だけは決して曲げずに突き進んでいくから、どうしたって手を貸したくなる。ルフィはひとりで生きていけない。だからこそ彼の下には多くの人が集うだろう。彼の助けとなることを誇りに思うような、そんなクルーが募るのだ。
「マルちゃん、白ひげのおっさんに伝えてくれよ。海賊王は譲らねぇって」
「そりゃ無理だろい」
「じゃあ戦えばいいさ。ししし、楽しみだな!」
「・・・そりゃあ、もっと無理だろい」
ルフィはわくわくといったた様子で拳を構えてみせるが、そりゃあ無理だよい、とマルコは三度心中で呟いた。おそらく白ひげはもう、ルフィとは戦えまい。老化や負傷が理由ではなく、今回の戦闘で、白ひげはルフィを己の息子のように認めてしまったのではないかと思うのだ。同じ海賊団の仲間を家族と呼ぶように、白ひげの懐は愛情に満ちている。ルフィはただでさえエースの弟であるという前提があり、そして見せ付けられた可能性はさぞかし白ひげの目に眩しく映ったことだろう。次世代の成長を楽しみに見守るような、そんな面持ちを感じたであろうことをマルコは何とはなしに理解していた。これから台頭しようとする若い芽を、白ひげが自ら摘むことはあるまい。ましてやそれが恩人であり、その心根を認めた相手なら尚更のこと。
「エースにもよろしくな」
「あいつ、多分泣くよい。弟君が自分に何も言わないでいなくなったら」
「でもまたどこかで会えるだろ。俺もエースも海賊なんだ、それでいいじゃねぇか」
いっそ見事なまでの分別だ。清々しい、とマルコは思わず失笑した。
「マルちゃん、エースのことよろしくな。エースはすげぇ強いけど弱いからさ。エースの居場所が白ひげのおっさんのところで、本当に良かった」
「・・・・・・弟君、もしかしてちょっと寂しがってんのかよい」
「別に。ただ俺も仲間に会いたくなっただけだ。俺が海で一緒にいたいと思うのはあいつらだから」
ぴょん、とルフィが手摺りから降り立つ。手足は細くてひょろりとしていて、それこそエースやマルコとは比べ物にならない成長途中の四肢だ。けれどその身体の秘めている力にどれだけ助けられたか分かっている。この海の次世代を担う柱のひとつは、紛れもなく目の前の子供だろう。細い背中にマルコは確信を抱く。
見下ろす海では、Mr.1によって切り落とされた小船に囚人たちが山のように積まれている。所々に野太い網タイツが覗いているのが非常にシュールでマルコの口端が引き攣った。頂点に乗っていたバギーとMr.3を足蹴にしてクロコダイルが立ち、イワンコフが重なればいっそ沈まないのが不思議なくらいに小船が悲鳴を挙げて傾いた。よく見れば水中からジンベエが支えているらしく、このままの状態で仲間の元まで向かうのだろう。何人落ちるかねい、とマルコは縁起でもない予想を打ち立てる。
「じゃあな、マルちゃん」
またな、とルフィは言わなかった。人の小山の上にいる影に、だからこそマルコは言葉をかけた。心の底から、それは感謝であり、認めた敵に対する仁義だった。
「白ひげ海賊団を代表して礼を言うよい。ありがとうよい、弟君」
「ししし! いいよ、そんなの。エースが無事で良かった!」
それこそがルフィの望んだことであり、果たしたかったことなのだろう。多くは語らずに、ルフィはジンベエに言って小船を発進させた。見る間にスピードを上げていく船はマルコの予想通り何人かを振り落としかけたが、互いに互いを掴むことで囚人たちは必死に脱落を防いでいる。短時間のうちに見事な連携と一体感を得たらしい。麦藁帽子がどんどん小さくなり、ついには水平線に混ざって見えなくなった。東の空では明け始めた夜に従い、闇がうっすらと白んでいく。
「・・・行ったのか」
「親父」
隣に来た大きな影を、マルコは首をめぐらして見上げる。白ひげはもう見えないだろう影を見送っているのか、視線をじっと海へと注いでいた。同じようにマルコも、夜を終えた静かな海を眺める。
「弟君から親父に伝言だよい。『海賊王は譲らねぇ』って」
「グラララララ・・・! その台詞はエースにでもやっておけ。俺の跡を継ぐのはあいつだからな。厄介な弟を持ったと、いつか後悔する日も来るだろうよ」
「それでもエースは喜ぶんだろうよい。あの弟がこんなにでかくなったって言ってよい」
「まったく、馬鹿な奴らだ・・・」
白ひげが海に対し、包帯で巻かれた背を向ける。その肩と腕を追って、絡まりそうになった点滴のコードをマルコは正すように軽く引いた。
「・・・・・・親父」
「何だ、マルコ」
「俺の船長は、親父だけだよい。エースが船長になっても、それは一生変わんねぇ。俺の船長は、一生親父だけだよい」
どうしてそんなことを口にしたのか分からない。だが、口にせずにはいられなかった。白ひげの大きな手がマルコの頭を優しく撫ぜる。そんな風に扱われるのは一体何年振りのことだろう。まるで子供のようなそれが恥ずかしく、そして些かこそばゆい。思わず俯けば、白ひげが笑ったのが見ずとも分かった。細く、小さな背中を思い、マルコは目を閉じる。力強い麦藁帽子の残像は、しばらく瞼の裏から消えることがなかった。見せ付けられた光は星のように月のように鮮やかで、マルコは少し、目が眩んだ。





ルフィは「マルちゃん」って呼べばいいと思うのですよ。
2009年12月19日