ポートガス・D・エースの公開処刑と、それに端を発するだろう白ひげ海賊団との戦闘のために、多くの海軍が聖地マリージョアへと集結していた。いつになく騒がしく人気の多い本部を、コビーは直属の上官であるガープの後ろについて歩く。ぴりぴりと肌を突き刺すような緊迫した空気に、隣を歩くヘルメッポは伸ばした背筋を崩せない。隊の駆けていく足音や揺れる銃のぶつかる音を聞く度に否が応にも緊張が増して、コビーもごくりと唾を飲み込んだ。せめてもの救いは、目の前のガープの背中がいつもと同じように逞しく、温かい雰囲気を発していることだろう。しかしそれも、将校たちに与えられている執務室の並ぶ廊下に辿り着くまでだった。向かいからやってくる人物は海軍本部とは思えないほどに鮮やかな色合いの布を身に纏っており、流れる黒髪はまさに極上の絹のよう。段違いの美しさを持つ、それこそ絶世の美女の存在に、コビーの目は奪われてしまった。





死がふたりを分かつても





「お、おい・・・っ! あ、あれってまさか、ボア・ハンコックじゃねぇのか・・・!?」
「し、静かに、ヘルメッポさん! 聞こえますよ!」
横から思い切り脇腹を突いてきたヘルメッポに、コビーは身をよじりながら慌てる。どうしてここに海賊女帝が、という考えが浮かぶが、王下七武海はすべて召集されていたことを思い出した。今までどんな命令にも従わなかった不動の女帝が参戦するという噂は確かに海軍にも広がっており、彼女の女神のような美貌を一目見たいと望む声もそこかしこで上がっている。白ひげとの開戦を前に何を浮ついたことをと思っていたが、ガープの背からちらりと首を伸ばした視界に映るハンコックは、コビーの想像していたどんな女性よりも美しかった。神の作った芸術品のように繊細で、しなやかで、艶やかさに満ちている。表情は無いというのに、それですら魅力を損なう理由にはならず、ヘルメッポが興奮に打ち震えていた。魂ごと奪われそうな一方で、コビーの脳裏を警鐘が鳴らす。あれは、よろしくない。人在らざる美だ。捕らわれることは死と同義であり、己のすべてを失うに通じる。吸い寄せられる視線を無理やりに剥がし、コビーは俯いて拳を握った。鏡のように磨きかけられている床を睨み、必死に意識を保ち続ける。プライドの高さを象徴するようなハイヒールの足音が近づき、重なり合い、遠ざかっていく。五歩ほど離れたところでコビーがほっと息を吐き出し、握り締めていた指を解こうとしたときだった。
「もし、お嬢さん。どこへ行く気かのう?」
どん、と何かにぶつかって慌てて顔を上げれば、いつの間にかガープが背ではなく腹を向けてコビーたちと相対していた。すみません、と謝罪するよりも、その視線が自分の背後へ向かっていることを察知し、邪魔にならないようヘルメッポと左右に分かれる。ガープの背後に移動したことにより、コビーはまたしてもハンコックと相対することになってしまった。大きな背中越しとはいえ、放たれる濃密な妖艶に酔ってしまいそうだ。さらりと、ハンコックの着物が擦れる。
「・・・新鮮な空気を吸いに行くのじゃ。あのような部屋に男共と詰め込まれては、むさ苦しくて息も叶わぬ」
「ほう。すまんのう、わしはてっきり命令を無視して帰るのかと思ったわい。不動の女帝が動くなんぞ初めてじゃからのう」
「ガ、ガープ中将!」
コビーは思わず声を出してしまった。それくらいにあからさまな挑発だったのだ。当然のようにハンコックは細い眉を顰め、その表情に不快を浮かべる。もとが美しいからか、それは衝撃を与えるほどの怒りに映った。ヘルメッポの横顔を汗が滴り、コビーの心臓も早鐘を打ち始める。外だけでなく、中でも一戦か。そんな覚悟すら抱かせるほどの張り詰めた沈黙が廊下に流れ、無意識のうちに膝が笑い始める。色付いたハンコックの唇が優雅に動き、紡がれる叱声さえも鈴のように心地よく響いた。
「わらわを誰だと思うておるのじゃ。アマゾン・リリーが皇帝にして、九蛇海賊団船長、ボア・ハンコックであるぞ。無礼者めが・・・名を名乗るがよい」
「わしはガープじゃ。海軍中将、モンキー・D・ガープ」
「モンキー・・・?」
告げられた苗字を繰り返し呟くハンコックの眉が、今度は違う意味合いを持って顰められたようにコビーには見えた。僅かに緩んだ空気が、ハンコックが長い睫毛を瞬き、目を瞠ったことによって完全に消える。おお? とガープが首を傾げたということは、上官にとっても予想外の反応なのだろう。ハンコックの黒髪が揺れる。
「そ、そなたもしや、ルフィと何か関係が・・・!?」
「む? ルフィはわしの孫じゃ! なんじゃ、おぬしこそルフィと知り合いか?」
「ルフィの祖父・・・!」
ガーン、という衝撃音がどこからか聞こえてきた気がして、気づけばコビーの身体は威圧から解放されていた。背筋を伸ばさなくても立っていられるし、ハンコックのことも正面から見つめることが出来る。手の甲を口元に当て、瞳を見開いてた肢体がふらりと揺れると、ああ、と悩ましげな吐息が彼女の唇から漏れる。そのまましばし両手で己の頬を包み込んだかと思うと、ハンコックは一切の動きを止めてしまった。何だろう。コビーは首を傾げる。ヘルメッポも首を傾げる。何じゃ何じゃ、とガープまで首を傾げたところで、ハンコックが姿勢を正した。ゆっくりと両手を下ろしたかと思うと、身体の前で清楚に重ねる。俯けていた顔が上げられ、その頬は驚くことにうっすらと桃色に染まっていた。羞恥か、もしくは高調か。コビーがそう気づけたのは、彼女の瞳が視線を彷徨わせて、自分たちを見ていなかったからに過ぎない。恥らうように身をよじる、それだけで艶やかだった女神が愛らしい少女へと変貌したのだ。
「お、お初に、お目にかかる・・・! わ、わらわは、ボア・ハンコック。アマゾン・リリーが皇帝にして、九蛇海賊団の船長を務めておる」
「いや、それはさっき聞いたわい」
「お、おじい様におかれましても、ご健勝のようで何より・・・。ああっ! まさかこのようなところでルフィのおじい様にお会いするなどとは考えてもいなかった・・・! ろくな挨拶も出来ず申し訳ない・・・」
「いや、のう・・・何じゃおまえさん。どうした」
日頃はボケ倒しで大元帥であるセンゴクにつっこみを食らっているガープに逆につっこませるとは、ボア・ハンコック恐るべし。頭の隅で変な感心を覚える一方、コビーは何だか急に彼女のことが可愛く思え始めてしまった。こんな美女を前にして可愛いなどという評価は、本来ならばありえないのだろう。けれど、どう見ても今のハンコックは可愛いのだ。頬を朱色に染め、成熟した肢体を抱き、綴る言葉の端々に緊張を漂わせている。可愛い。実際に隣のヘルメッポがそう呟いた。先ほどまでの高慢な美貌よりも、今のハンコックの方がより魅力的だ。同意してコビーも頷くが、この変貌は一体どうしたことだろう。ルフィの名が出たということは、彼が理由か。自分の恩人でもあり、尊敬する姿を脳裏に描いて、コビーはふっと口元を綻ばせる。えへん、とガープがわざとらしく咳をして話を戻す。
「あー・・・何じゃ、おまえさん、ルフィの知り合いか?」
「う、うむ。ルフィには、大変世話になった」
「そうかそうか。あやつもやるのう。こんな美人の知り合いを作っとったとは」
「そんな・・・! び、美人などと・・・わらわは、そんな・・・」
「わっはっは! 否定せんともええわい!」
ガープの笑い声が豪快に響けば、ハンコックは更にいじらしく顔を俯ける。長身の彼女の表情が、背の余り高いとは言えないコビーからはよく見えた。美しい瞳が熱に弛み、大人の女としての顔がいとけない少女へと変わっている。ああ、とコビーは納得した。この人はルフィさんに恋をしているのか、と。理解してしまえば、心中に沸きあがってくるのは応援の気持ちだ。件のモンキー・D・ルフィは恩のあることを差し引いても素晴らしい男だと思うし、そんな彼が海賊女帝と讃えられているボア・ハンコックに恋をされていることが自分のことのように誇らしい。一部では感情がないとまで囁かれていたハンコックを、ここまで変えることが出来るとは。さすがルフィさん、とコビーは深く頷いた。
「じゃが、これで分かったわい。ルフィの大監獄への侵入に手を貸したのは、おまえさんじゃな?」
「っ・・・!」
鋭く息を呑んだハンコックの表情が、再び一変する。警戒が浮かび、恋する少女の面影が消える。無意識のうちに伸ばされた背筋と、徐々に正されていく姿勢には一分の隙もなく、同じく反射的に身構えたコビーは王下七武海の名を目の当たりにした。真実を突かれた動揺は一瞬のうちに姿を消し、弧を描く唇は貫禄に満ちている。
「だとしたら、どうする。センゴクにでも報告するか?」
「そんなことせんわい。もう済んだことじゃ、わざわざ蒸し返さんでもよかろう。しかしそうなると、おまえさんがこの戦いに参加するのも、ルフィを大監獄へやるための手段に過ぎんかったわけじゃな? さすがわしの孫じゃ! 誰にも動かせなかった不動の女帝を、こうも簡単に動かすとはのう!」
わっはっは、と再びガープの声が廊下を震わせる。ふっとハンコックも微笑み、コビーとヘルメッポは揃って安堵に肩を落とした。本当にルフィといいガープといい、この血筋は一体何をしでかしてくれるのか心臓に悪くて敵わない。未だうるさい胸に手を当てていると、ガープが顎を撫でて問いかける。そこにはすでに剣呑は乗せられていなかった。
「じゃが、もうすぐルフィもここにやって来るぞ? いざ戦いになったら、おまえさんはどうするんじゃ?」
「・・・七武海の称号は惜しい。だが、わらわはルフィとは戦わぬ。この召集は白ひげと戦うためのもの。それに手を貸すだけで十分であろう」
「うむ、まぁそれでよかろう。何、海軍の面子もあるからのう。そうそう王下七武海の出番もないわい」
「ふふ。わらわもそれを願っておる。ルフィが来る限り、そう上手くゆくか分からぬがな」
踵を返すハンコックに、着物と黒髪が着いていく。横顔でちらりとガープを見やり、彼女は高らかに笑ってみせた。コビーがはっと息を呑んでしまうほどにその様は美しく、女帝とも少女とも違った一面が記憶に焼きつく。誇らしげにハンコックは言い切ったのだ。
「ルフィは、こんなところで死にはせぬ。彼は海賊王になる男。わらわはそれを、心から信じておる」
ヒールを鳴らして立ち去っていく後ろ姿を、コビーは呆然として見送った。言いおるわい、とガープは吐き捨てたが、それさえもどこか嬉し気で、孫への誇りに溢れている。ああ、とコビーは呻きを漏らさずにはいられない。それほどまでにハンコックのルフィへと捧げられた好意は、鮮やかで美しいものだったのだ。



「いやしかし、面白いもんじゃのう」
「何がですか?」
己の執務室に戻ったガープは、書類の山を押しのけて煎餅に手を伸ばす。ヘルメッポが緑茶の準備をし、コビーは崩れそうになった書類を抱えて移動させる。戦いはすぐそこまで来ているが、前線に着くのは各地から召集されている佐官クラスの面々だ。将官はその後に続き、特に「海軍の英雄」と呼ばれているガープはいざとなったときに出ればいい。のんびりと煎餅を齧るガープに、首を傾げながらコビーが問い返す。
「昔からのう、エースとルフィじゃと、女子にもてるのはエースの方じゃった。どっちも馬鹿孫じゃが、エースの方がまだマシじゃからのう。常識もほどほどに弁えとるし、大抵のことはそつなくこなす。町でも女子たちにきゃーきゃー言われるのはエースじゃったわい」
「はぁ、そうなんですか」
「じゃが・・・わっはっは! さすが我が孫じゃ!」
ばんばん、とガープは机を叩く。湯飲みを置こうとしていたヘルメッポが慌てて遠ざけ、落ちかけた煎餅の袋をコビーが両手で受け止めた。ガープは上機嫌で気にするはずもない。
「昔から、こやつこそはといういい女は、みんなルフィに惚れとった! あの破天荒で常識のない子供に、器量の良い娘たちが首っ丈でのう! そりゃ見事なもんじゃったわい!」
「ルフィさんの器の大きさが、その人たちにはちゃんと分かったんですね」
「あれは一度嵌まれば抜け出せん性質の男じゃからのう。あしらいの上手いエースとは違って、自覚がないから話にならん。じゃが、それでこそ我が孫! やりおるのう、ルフィ!」
背を反らして笑うガープに、コビーは今度こそ頷いて同意した。その魅力に気がついてしまえば、もう抜け出せない。それほどの輝きを持つ人なのだ。ハンコックの持つ美貌などとは比べ物にならない、真性の光。男女関係なく虜にする魅力に惹かれてしまったからこそ、コビーも今ここにいる。いつか対等に、肩を張って並べるように、厳しい特訓を重ねて海軍将校を目指しているのだ。いつか自信を持って相対する、その日まで。
「―――さすが、ルフィさん」
コビーは心の底から噛み締めた。必ず海賊王となるだろう、最愛最強の敵の名を。





原作より前にやらなくてはと思いまして・・・。
2009年8月30日