これは数年後、確かな未来の話である。





HEROS in the BLUE





「偉大なる航路」の、とある春島。小さいけれども名を裏切らず、花が咲き、日差しは綻び、まるで荒れ狂う海の中にあるとは到底思えない気候のそこに、キッドは足を踏み入れた。連れは己の海賊団のナンバーツーであるキラーのみで、そのような無防備さは本来ならばありえないことだ。ユースタス・キッドといえば「偉大なる航路」で広く知れた名であり、「新世界」では四皇のひとりとして数えられる人物。そんな彼が気性から遠く離れた春島に何故やってきているのか。すでに手配書の額が伝説となり始めた存在に気づき、周囲がぎょっとして足を止める。構うことなく歩み続ければ、小さな島だ。涼しげな木陰にパラソルを立て、紅茶を片手に海図を起こしている幹部にすぐ行き当たった。彼女は顔を上げてキッドを見止めると、あら、と瞳を瞬く。
「久し振りじゃない。よくここが分かったわね」
「馬鹿の噂ほど事欠かねェものはねェよ」
「あいつなら、まっすぐ行けば着くわよ。ついでだわ、もうすぐ夕食だから起こしてきてくれる?」
「他所の船長を顎で使う気か」
「度量の狭いこと言わないで。どうせあんたたちも食べてくんでしょ。サンジ君には言っておいてあげるから」
その代わり喧嘩はなしよ。あんたたち血の気が多いんだから。笑いながら海図を揃えて航海日誌に挟み込み、羽根ペンを片して女が立ち上がる。伸びたオレンジ色の髪は緩くひとつに纏められており、後れ毛が白い項を飾っていた。数年前は小娘だった彼女も、今や立派な海の女となりつつある。賞金額こそ高くないものの、潮と波、天気を読むその力は何にも代えがたい才能だ。一瞥し、キッドは更に足を進める。
春島は穏やかで、岩場ですら柔らかなものに見えてくるから不思議だ。昼と夜の温度差のなさそうな場所で、トナカイが擂鉢で何かを潰している。草や実を手にして駆けてくる部下たちに何かを言う度、帽子とともに立派な角が揺れている。常緑樹の森の向こうには、花だか太陽だかライオンだか未だキッドには理解できない船首が見えた。かぁんかぁんと打ちつける音が響いてきているので、船体の改造でもしているのかもしれない。コーラが足りねぇぞ、なんて声が聞こえる。
「なんだ、てめぇらか」
岩場の途切れた先で、巨岩に座禅を組んでいたのも幹部だった。三本の刀を腰に帯び、けれど世界一の剣豪に相応しく、眼差しに余計な威圧は含まれていない。逞しい筋肉は服の上からでも明らかであり、男はキッドを見てすぐに後ろのキラーへと視線を移した。挑発に唇が吊り上れば、剣呑な獣が顔を出す。
「丁度いい。退屈してたんだ、相手しろよ」
「・・・・・・喧嘩はするなと、釘を刺されている」
「あぁ? そんなこと言うのはどうせナミだろ。なら、喧嘩じゃなけりゃいいんだ。本気の斬り合いといこうぜ」
岩の上で立ち上がり、刀のうち一本に手をかける。男に見下ろされて否の答えを返していたキラーに仮面を向けられ、キッドは頷きを返してやった。武器に多少の違いはあれど、このふたりは相手を斬る生き物だ。キッドが一歩踏み出したのを合図に剣士同士の派手な戦いが始まった。
花畑の上空を小さな鳥の群れが飛んでいる。どこからか飛んできた花輪がその鳥たちに端から命中し、短い首を色とりどりに飾り立てる。銃なんて野暮なものではなく、素朴に作られた飛び道具と長い鼻が木の上に見えた。徐々に耳が捉え始めたのはバイオリンの豊かな音で、目指していけばすぐさま骸骨を発見する。動くはずのないそれはキッドに気づくと演奏を止め、紳士にもシルクハットを取って一礼をした。弦が指し示した先には、一面の芝生が広がっている。
柔らかな日差しを全面に浴びるそこに、キッドの目当ての人物はいた。我が物顔で年上の女に膝枕をさせ、トレードマークの麦藁帽子を顔に載せて心地良さそうに寝入っている。厚く古びた本を開いていた女はキッドに気づくと瞳を細め、どうぞ、と言わんばかりに帽子と本を脇へと置いた。何年経っても貫禄を得ない間抜けな寝顔に舌打ちし、キッドはブーツの底で浅い浮き沈みを繰り返す腹を踏みつけた。
「人が来てやったってのに挨拶も無しか? いいご身分だな、海賊王」
「ぐえっ!? げほっ・・・ぐ、な、何だぁ!? 腹が、腹がいてぇ!」
「ルフィ、お客様よ」
「ロビン! 客ぅ!? ・・・ってキッドじゃねぇか! 久し振りだなぁ! っていうかいてぇよ! いい加減踏むの止めろよ!」
「だったらさっさと起きろ、麦わら」
希望通り足を退けてやれば、すぐさまバネのように寝ていた身体が飛び上がる。十代はすでに過ぎただろうに、未だ細さを残す背丈はキッドの肩が精々だ。それでもキッドの上を行った海賊の中の海賊、二代目の海賊王―――モンキー・D・ルフィは苦痛から一転、再会に嬉しそうに歯を見せて笑う。
「しししっ! 久し振りだなぁ、キッド!」
「てめぇは相変わらずのイカレ具合だな。海賊王がこんな島でのんきに昼寝かよ」
「春島っていいよなー。でも俺、秋島も好きだ。何たって食欲の秋だもんな」
「んなこと聞いてねェ」
毛皮のコートでは、この島は少し暑い。キッドが片膝を立てて座れば、ルフィは気軽に対面で胡坐を組む。ロビンは再び本を開いて、静かに邪魔しない体勢に入った。麦藁帽子が相変わらずルフィの頭上で揺れている。
人々をこぞって海に駆り立てたゴール・D・ロジャーの伝説、「ひとつなぎの大秘宝」は、今から約二年ほど前にモンキー・D・ルフィによって発見された。いくつもの巨大な海賊団を討ち取り、海軍の大将でさえその拳で倒し、世界政府をも敵に回したルフィはそれでも確かな大器の持ち主で、彼が二代目の海賊王を名乗ることで大海賊時代は終わりを迎えるはずだった。しかし現実は憶測と異なり、時代は終わるどころか更なる盛りを見せている。キッドが未だに海にいるのもその所為で、ひいてはすべてが目の前のルフィによるものだった。海賊王にしては締まりのない顔を見る度に舌打ちをせずにはいられない。
「おい、麦わら」
「何だよ」
「『ひとつなぎの大秘宝』をどこに隠しやがった」
問いかけにルフィがきょとんと目を丸くする。「ひとつなぎの大秘宝」を見つけた眼前の男は、何を考えたのか再びその大秘宝を別の場所へ隠したと公言したのだ。自分はゴール・D・ロジャーの遺したすべてを見つけた。だから次に「ひとつなぎの大秘宝」を見つけた奴が、三番目の海賊王だ。欲しい奴は探せばいい。俺を倒したければ海に来い。いくらでも待ってっから。世界中に轟くような声でなされた宣言は伝説が確かに存在していたことを人々に伝え、新たなうねりを海上だけでなく大地にも起こしている。加速して時代は回り、世界はめまぐるしく変化している。
麦わらの一味が、現代至高の海賊団として君臨している。王下七武海はある者は義を貫き、ある者は権力を嘲笑い、ある者は終焉を迎えてそれぞれに一個の海賊団へと帰っていった。四皇と囁かれる面子も代わり、今ではキッドとトラファルガー・ローがそこに食い込んでいる。白ひげ海賊団の船長も、エドワード・ニューゲートからポートガス・D・エースへと代替わりした。騒がしくなった海上に、今では海軍よりも世界政府の方が五月蝿く介入してくる。天竜人と海賊王の対決もまもなくだ、なんて噂する人々も少なくない。
「だから教えねぇって言ってんだろ? 教えたら冒険が冒険じゃなくなっちまうじゃねぇか。そんなのつまんねぇ」
そうだろ、と首を傾げて問うてくる様に、キッドとて答えがもらえるとは到底思っていなかったがやはり舌打ちした。「ひとつなぎの大秘宝」がどんなものだかは、やはり海賊である以上気になって仕方がないのだ。けれどルフィは頑なに口を閉ざし、自身は未だ仲間と共に「偉大なる航路」の中にいる。さっさと故郷に戻ればいいものを、彼は「だって入口の分かれ道は七つあったじゃねぇか。だから少なくとも七周しなきゃ全部制覇したって言えねぇだろ」とのたまい、気ままに旅を続けているのだ。戦闘を挑まれれば迎え撃ち、新たな島を見つければ上陸に胸を高鳴らせる。麦わらの一味は、まさに「正しい」海賊だった。
「なぁなぁ、今日はゆっくりしていけんだろ? サンジの飯食ってけよ! キラーとか他の奴らも一緒にさ!」
「そういや、この前てめェの女に会ったぞ。たまには会いに行ってやれよ。甲斐性ねェな」
「んん、ハンコックか? そうだな、会いに行くか! そういやビビにもしばらく会ってねぇしなー」
「てめェ、間違いなく死因は女だな。情けねェ」
「ボニーにはこの前会ったぞ? あと、ホーキンス! あいつらも元気そうだったなぁ。ローもクマ連れてこの島に遊びに来たしよ。やっぱり楽しいのがいいよな!」
ししし、と笑うルフィが揺らす麦藁帽子は、すでに海を去った「赤髪のシャンクス」の置き土産だ。通称にまでなってしまったものを、もはや返せなんて言えねぇだろう。自身に追いついてきた、まるで息子のように愛を注ぎ、そして最大のライバルのように扱ってきた子供の髪を撫ぜ、シャンクスはそう言ったという。おまえが約束を守ってくれた、それだけで十分だ。シャンクスはそうして、舞台を去った。尊敬する偉大なる男の背を、どんな気持ちで見送ったのか。ルフィの気持ちなどキッドには想像もつかないが、それでも麦藁帽子は片時も離されず海賊王を形作る。
時は流れ、伝説は打ち破られ、そしてまた新たに建てられる。その渦は、目の前の男を中心に起きている。ならば自分とて乗り遅れるわけにはいかない。船を途中で降りる気はない。戦いなら尚更だ。今度こそ「ひとつなぎの大秘宝」を手に入れ、更に海賊王を討ち破ってやる。獰猛にキッドが唇を歪めれば、それに気づいたルフィもゆっくりと表情を変える。挑戦を受けるその顔は、紛れもない海賊王だ。この世の海を制した男。
「なぁ、キッド」
「あァ?」
「俺、この海が大好きだ。海賊になって良かった!」
青空の下で、ルフィが笑う。二代目海賊王。この世の海を制した男。誰よりも自由に、この海を愛する男。最高の仲間と共に、彼は今日も海を行く。堪りかねて、キッドも笑い出さずにはいられなかった。遠くから聞こえるさざなみの音は、もはや彼らにとって子守唄に等しい。
海で生き、海で死ぬ。そのために自分たちは生まれてきたのだ。信じているからこそ彼らは今日も海賊を名乗る。冒険とロマンを、その胸に抱き締めて。





海賊王になってくれなきゃ泣きます。
2009年8月22日