空飛ぶ船から余りに自然に降り立ってみせた彼を、ゆらは知っていた。高い背丈が、長い髪が、眇められた目が、着物を翻して風に遊ばせ、大地に草履の爪先をつける。己を囲む陰陽師たちを一瞥し、何かを言葉にしようと口を開き、けれどそれが音となることはなかった。どくん、と打ち鳴らされた心臓の音がこちらまで聞こえるほどに、大きく彼の身体が震えた。動揺の中で背丈が縮み、髪が戻され、閉ざされた瞼の下で眼球がまろみを帯びる。着物の丈はどうしてか追従し、和装の身体は紛れもなく小柄。一瞬前までの青年はどこへ消えたのか。理由を知っているゆらは、思わず天を仰いだ。夜空に月はまだ高くある。一日の四分の一を占める夜だというのに、どうして。
「・・・・・・まったく。ボクに断らず、勝手なことをしてくれちゃって」
まぁいいけどね。今回は目的も同じだし、大目に見てあげるけど。呟き、袖から取り出した丸い眼鏡をかける姿は、ゆらも知っている。彼は、ゆらと同じ中学に通う、同級生の。思考はばさりと広げられた両の腕に閉ざされた。
「はじめまして、花開院家の皆様。不躾な訪問をお詫びします。ボクは関東大妖怪任侠一家奴良組若頭、奴良リクオと申します」
どうぞ、よしなに。満面の笑みで挨拶を述べた彼は、ゆらのクラスメイトだった。夜の姿ではない、紛れもない人間の姿のリクオがそこにいた。





太陽と月の狭間に君を





どうしてこんな事態に陥っているのか、分からないのは花開院家の陰陽師たちだけではないらしい。空飛ぶ船の手摺りには無数の妖怪が群がっており、「どうして昼のリクオ様が!」と叫んでいるのは、これまたゆらの知っている雪女の少女だった。見たことのある顔もいれば、全然知らない顔もある。先日見せられた百鬼夜行よりも数が増している気がしたけれども、問題なのはそんなことではない。羽衣狐との抗争で慌ただしい中に、現れた新たな妖怪。当然ながら庭にいた陰陽師は全員、リクオに向けて札を構えた。
「待ってや! その子は違う・・・っ」
焦って声を上げたゆらを見止めると、リクオはにこりと笑った。己が敵陣の真っ只中にいると分かっているのかいないのか、そんな明るい顔だ。
「良かった。花開院さん、無事だったんだ」
「あ、うん・・・ってちゃう! 奴良君が何でここに!?」
「花開院さんが心配だったから。京都で何が起こってるのかも知りたかったし、まぁ今ここにこうしていることはボクの本意じゃないんだけど、でも結果オーライかな」
訳の分からないことを言って、リクオはざっと周囲を見回す。ここは花開院家の本家であり、つい先程まで羽衣狐に強襲され、結界を破られた場所。ゆらの兄である竜二や魔魅流、他の義兄たちも揃ってはいるが、怪我を負っている者が大半だ。戦ったとしても勝てるわけがない。そして、羽衣狐を倒さなくてはならない今、他所の軍勢と戦っている暇もない。ぐ、と拳を握り締めて、ゆらは声を張り上げる。
「奴良君が何でここに来たかは知らんけど、頼むから帰ってや! 私らは今、他にやらなきゃいけないことがある!」
「それって、羽衣狐を倒すことだよね?」
「分かってるなら・・・!」
「うん、だから来たんだよ」
いともあっけなく言い放つリクオが、自分の知っている彼と少しだけ異なっていることにようやくゆらは気づいた。中学での、控えめな彼とは違う物言い。飄々としていて掴みどころがなく、まさに「ぬらりひょんの孫」と呼ぶに相応しいような。外見から察するに、今は人間だろうリクオがどうして。言葉を失うゆらの前で、リクオは高らかに言い放った。
「花開院家の皆様に商談をお持ちしました。羽衣狐を倒すために、花開院家と、奴良組、手を組みませんか? 400年前と同じように、時を越えて今もう一度」
夜更けの空気に、リクオのまだ変声期を終えていない高い声は澄んで響いた。一瞬の間があって、「ええええええ!」と叫びが上がったのは空飛ぶ船からで、花開院の陰陽師はゆらも含めて驚きに声も出ない。リクオは、今、何と言った? 手を組む? 花開院と奴良組が? 陰陽師と妖怪が? 手を組んで共に戦う? そんな前代未聞なこと。
「何を言ってるんです、リクオ様! 陰陽師と手を組むなんて、そんな馬鹿なこと・・・!」
船から飛び降りてきた首無が、顔色を変えてリクオに詰め寄る。雪女をはじめとした何人かも慌てたように降りてきてはリクオを囲んだ。小さな背はあっという間に見えなくなってしまって、「駄目です」やら「有り得ません」やら「陰陽師と組むなんて」といった訴えだけが、ゆらには聞こえた。何だか子供を窘める母親のような構図で、思わず緊張が削がれてしまう。羽衣狐との戦闘から張り詰めていた肩が落ちそうになったとき、リクオの怒り声がした。
「あぁもう、うるさいなぁ! みんなは黙っててよ! ボクは花開院の皆さんと話してるんだから!」
「うるさいって、そんな・・・!」
「我々はリクオ様のためを思って!」
「ボクのためを思うなら、今は黙って! それとも『夜のボク』の言うことは聞けても、『昼のボク』の言うことは聞けないっていうの!?」
「そ、そんなことは・・・っ」
高い叱責に、群がっていた青田坊や黒田坊たちがしどろもどろになって、輪を崩す。もみくちゃにされたらしいリクオは乱れた着物の襟や袖を直し、ふう、と息を吐いて落ち着きを取り戻していた。彼らを背後に下がらせ、にこ、とまた笑みを浮かべて口を開こうとするが、今度は空飛ぶ船から声が降ってきた。
「待てよ。・・・おまえ、何を考えていやがる」
つられてゆらも顔を上げれば、船の手摺りには少年の面持ちをした妖怪が座っていた。手ぬぐいを額に巻き、背には鎌のようなものを背負っている。その隣の妖怪もまた少年の姿だったが、更に隣はどう見ても河童の在り様をしていた。リクオは丸い眼鏡を彼らに向けて、変わらない笑顔を示してみせる。
「イタク。淡島や遠野の皆は、この姿では『はじめまして』だね。ボクは『夜のボク』を通して見ていたから、そんな感じは全然しないけど」
「おまえ・・・本当に、リクオなのか?」
「うん。どちらかと言うと、今のボクが正しい『奴良リクオ』だよ。何せ血の四分の三を占める人間の状態だから」
「だとしても、俺たちが力を貸してやるのはおまえじゃなくて、夜のリクオだ。勝手に事を進めるんじゃねぇ」
「・・・・・・参ったなぁ。『昼のボク』は、何だがすごく蔑ろにされてる気がする」
困ったようにリクオは微笑んだ。けれど次の瞬間に唇は弧を消し、すっと瞳が眇められる。夜とは異なり、元が丸く大きな瞳だからこそその様は顕著で、冷えた空気にぎくりと周囲を震わせたかと思うと、瞬く間に再度リクオは笑みを浮かべた。
「月が空にある今、ボクがここにいることは、『昼のボク』が『夜のボク』を押さえ込めることの証明にならないのかな? さっきも言ったけど、この身体を流れる四分の三は人間の血なんだよ。妖怪の血は四分の一でしかない。だからこの『奴良リクオ』という狭い世界において、『夜のボク』は絶対的な弱者だ。本当は『夜のボク』を押し退けて『昼のボク』が現れることだって、そう難しいことじゃないんだよ」
逆はありえないけどね。語る声は優しくて、言葉遣いだって丁寧なもので、言い聞かせるような抑揚はそれこそ穏やかだったけれども、ゆらを震撼させる何かがそこにはあった。にこにこと笑顔は常と変わらないのに、決定的な何かが違う。それこそ夜と昼との差異などではない。でもね、とリクオは空飛ぶ船を、周囲の側近たちを見回して続ける。
「ボクは、戦闘において『昼のボク』が『夜のボク』に敵わないことを知っている。だから、戦いはすべてを『夜のボク』に任せるよ。今回出てきたのは『夜のボク』が約束を破ろうとしたから。『人間は任せた』って言ったくせに、花開院家とは自分が相対しようとするんだもの。陰陽師は人間だって、分かってないのかな」
「リクオ様・・・」
「大丈夫。盤上を整えたら『夜のボク』と交代するよ。だけど雪女たちも、イタクたちも覚えておいて。君たちを含め、ボクはボクの大切なものを傷付けようとする人を許さない」
まるで静かな月のように、微笑んでリクオは言った。
「必要があればボクは、『夜のボク』以上に強く残酷になれるよ。―――忘れないで。『昼のボク』も確かに、『奴良リクオ』だということを」
本来太陽を浴びるはずの『昼のリクオ』の言葉に、ゆらは何故か悲しくなってしまった。妖怪たちは畏れを抱いたようだったけれども、本来優しい気質の人間の彼に、ここまで言わせてしまったことが、ゆらは申し訳なくて仕方なかった。くるりと視線を陰陽師たちに戻し、えーっと、と頬を掻く仕種は幼いのに、彼はゆらとはまた違った戦いの道を歩んでいる。陰陽師でもなく、本当は人間であるはずなのに。
「とにかく、そんな感じで。ボクは羽衣狐に用がある。出来れば殺さずに捕らえて、話を聞きたいと思ってる。だけど京都は花開院さんの家があるし、間違って対立なんかしてお互いの戦力を減らしたくない。目的は一緒なんだから悪くない話だと思うんだけど」
「・・・・・・妖怪なんかの話に、俺たち陰陽師が乗ると思ってんのか?」
「乗らざるを得ないんじゃないかな、とは思ってるよ。どう見たってここの結界は破られた後みたいだし、傷付けられた人も・・・随分、多い。残りの人たちで羽衣狐と戦うには無理がありすぎる」
「ハッ! 灰色の存在かと思っていれば、今のおまえの方がよっぽど『ぬらりひょんの孫』だな。人の心理の隙間に入り込む。性質の悪さは妖怪より上だ」
「うーん・・・褒められてる気はしないけど、怒る気もしないかな。決断は詳しい話を聞いてもらってからでも構わないよ。お茶でも出してもらえれば、もっと嬉しいけど」
「生憎、花開院ではぬらりひょんを家に入れて飯を食わせちゃいけねぇって絶対があるんだよ」
「だったら問題ないね。今のボクは人間だし、要求してるのはお茶だもの」
リクオと竜二の間でぽんぽんと会話が進み、あぁ良かった、とリクオが満足そうに肩を撫で下ろす。確かに現在、花開院本家において最も強い決定権を持つのは竜二だ。とはいえ、兄とクラスメイトの話についていけず、ゆらが目を瞬かせていると、リクオは爽やかに己の味方であるはずの妖怪たちを振り仰ぐ。
「それじゃあ、ボクはちょっと話をしてくるから。皆はおとなしくここで待っててね。ちなみに、花開院の人たちに喧嘩とか売ったら怒るから。いい子に、おとなしく、ここで待ってて」
「お待ちください、リクオ様! いくらなんでもひとりでなんて・・・!」
「相互理解は互いの一歩から。首無は奴良組、イタクは遠野勢を任せたよ」
「っ・・・分かりました」
きゃあきゃあと未だ訴える雪女の横で、首無が不服を飲み込みながら了承を示す。空飛ぶ船ではイタクが沈黙したままだったが、リクオはひらりと手と笑みを振りかけただけで、それ以上の言葉は続けない。さく、と草履の足が一歩踏み出され、ゆらたちの方へと近づいてくる。陰陽師たちの中には、反射的に慄き、一歩後ずさった者もいた。本当に迎え入れるつもりなのか、竜二の指示を受けて数人たちの陰陽師が飛ぶように屋敷の中へ駆けていく。ゆっくりと近づいてくるリクオに、ゆらはごくりと唾を飲み込んだ。怖い、と浮かんだ畏れを必死に打ち消す。大丈夫。これは奴良君や。大丈夫、大丈夫、大丈夫。
「あれ?」
擦れ違うまで近づいた距離で、リクオが声をあげる。ゆらは思わずびくりと肩を震わせてしまったが、リクオがまじまじと見つめているのに気づき、自分でも下を見下ろした。曝している腕からは、先程羽衣狐に負わされた傷が覗いている。血はもう止まっているけれども、見ていて気持ちのいいものではない。むしろリクオには見せたくなくて、慌てて腕を背に隠そうとしたが、それよりも彼が手を差し出してくる方が早かった。
「じっとしてて」
有無を言わさない口調に、ゆらの動きも止まる。リクオの手が腕に触れることはなく、少し離れた位置で傷口の上に翳される。ふわり、と爪の先が輝いたかと思うと、光はリクオの手のひらから溢れ出し、ゆらの傷へと降り注ぐ。時間にして三秒もかからないうちに、腕にあった傷は綺麗に姿を消してしまった。ただ黒ずんだ血の跡だけが残り、触っても痛みは全く感じない。息を呑むような音が陰陽師だけではなく、妖怪たちの間からも聞こえた。
「奴良君、これって・・・っ!?」
「じいちゃんの血と同じように、ボクの四分の一はばあちゃんの血だから」
「え?」
「ゆら、そいつの祖母はどんな傷や病でも癒す能力を持っていた。花開院の祖先が護衛した、公家の姫だ」
「そうそう。ボクから言わせて貰えば、『夜のボク』は力の使い方を覚えるのが遅すぎるよ。『昼のボク』はもうちゃんと、自分の力を扱えるのに」
まったく、今度会ったらがつんと言ってやらなきゃ。至極当然のようにそう言って、リクオは竜二に導かれるままに屋敷に踏み入れる。思わずその背を見送ってしまったゆらは、はっと気づいてふたりの後を追った。いくつものことが重なってしまって、正直頭が着いていかない。それでもこれだけは確認しなくてはならなかった。揺れる着物の袖を引けば、勢い余ってリクオだけでなくゆらまで転びそうになる。振り向いた竜二が呆れたような顔をしていたが、気にしている余裕はなかった。
「奴良君!」
「な、何、花開院さん」
「奴良君は人間で、妖怪やねんな!?」
「うん、そうだね」
「でもわたしのクラスメイトや! 一緒に東京に戻ろうな!? 絶対や。約束破ったら、いくら奴良君でも許さんから!」
「・・・・・・うん」
ありがとう、花開院さん。そう言って浮かべられた笑顔は少しだけはにかんだもので、ゆらの良く知っているリクオのものだった。怖くない。心からそう感じて、袖を握る指先に力を込める。奴良君は怖くない。昼も夜も人間も妖怪も、治癒の力も関係ない。今ここにいるリクオは、ゆらの良く知る心優しい少年だ。それさえ分かれば十分だ。
「わたしこそ、ありがとうな、奴良君」
嬉しくなって礼を述べれば、リクオは不思議そうな顔をしたけれども頷いてくれた。辛いとばかり感じていた戦いに、力強さが添えられる。何百もの妖怪の加勢よりも、直してくれる治癒の能力よりも、心を支える温かな光が、何よりものリクオの力だ。ありがとうな、奴良君。ゆらは心中でそっと、繰り返し囁いた。





羽衣狐は『夜のボク』にあげるよ。『昼のボク』が戦うのは、寄り代となった女の子。彼女が抱いてしまった心の闇が、ボクが倒す唯一のもの。
2009年12月6日