桜が蕾を膨らませ始めた、冬の終わりも近い三月上旬。
結局最後まで情けないままだったと、円子令司は溜息を吐き出して空を見上げた。





そのときは僕が選んだ花束を





針のように細く、けれどスタイルの良い背中から大きな花束がはみ出している。視線に振り向いた彼女の、氷室丸子の手に抱かれているそれには円子も見覚えがあった。アメフト部一同で金を出し合い、散々お世話になった敏腕マネージャーにせめてもの感謝を、と用意した花束だ。もちろん円子とて金を出したし、それは小銭などではなく最高額の紙幣だったけれど、買いに行くのは如月たちに任せた。自分の選ぶ花束は彼女に相応しくないと、円子自身が感じているからである。
「卒業おめでとうございます、氷室センパイ」
随分久しぶりの呼称で祝えば、彼女は端整な眉を少しだけ歪めた。卒業式もホームルームも終わり、後は去るだけとなった卒業生たちで昇降口は賑わっている。友人同士で写真を取り合っている者もいれば、後輩に別れを惜しまれている者など様々だったが、そんな中でも凛と立っている彼女の姿は円子の目にすぐに捉えられた。思えば彼女を振り向かせたくて過ごしてきた数年だった。
「・・・ありがとう」
複雑そうな顔に思わず苦笑する。腕の通していない制服の袖と、彼女の短い髪が風に揺れた。
「それにしても、悪かったよ。・・・・・・結局あんたのこと、クリスマスボウルに連れて行ってやれなかった」
「まだ、気にしてたの。そんなこと」
「『そんなこと』じゃねぇよ。少なくとも俺にとっては」
笑った顔が見たかった。女の彼女には叶えられない、夢を集めて贈りたかった。そのために柄にもなく必死で練習をしたし、絶対的な力の前にも諦めを選ばず、他の方法を掴んでみせた。その行為が自分と彼女の距離となってしまったのは辛くもあったけれど、それでも誓いを叶えてやりたかった。だけど、敵わなかった。
「時間っちゅうのは残酷だよ。俺がマリアより年下なのは変えられない。次の大会も待たないでマリアは卒業してっちまう」
「あなたが私と同じ年だったら、アメフト部に入らなかったかもしれないわ」
「いいや、絶対に入ってたね。でもって同じように約束したはずだ」
自信満々に返せば、彼女は珍しく困ったように眦を下げた。それはかつて、とても近くに在った頃のような笑い方で、思わず円子の心臓が音を立てる。こんな顔を見たのは、見せてもらえたのは随分と久しぶりだ。ざぁっと逆流する血が顔に集まりそうになって必死に抑える。無様な姿は、これ以上彼女の前で晒せない。
「マルコ」
名を呼ぶ声が昔みたいに柔らかくて優しくて、だからこそ何故か嫌な予感が募ってしまう。促せば、彼女は僅かながらに笑みを浮かべていた。円子が見たかった、クールビューティーな彼女のはにかむような微笑。
「あなたとは色々あったけれど、それでも、一緒に過ごせてよかった」
「・・・・・・何、今生の別れみたいなこと言っちゃってんの。マリアは白秋大学に行くんだろ? また俺らの試合見に来て、びしっと喝を入れてくれよ。峨王も本気だし、今度こそ白秋がクリスマスボウルに行くからさ」
「ありがとう。でも、見には行かない」
何で、という言葉は声にならない。代わりに目を見開いてしまった。風が吹いて、花束を揺らす。
「私はあなたの勝利の女神になれなかったもの。あなたの試合は、もう見ないわ」
涼やかな、その声が好きだった。言葉を飾らない、その強さが好きだった。甘さの欠片もない、だけど優しい、慈しんで抱き締めてくれるような、そんな性格が好きだった。いい女だと心の底から思っていた。だからこそ自分の情けなさを、いつだって感じていた。
分かっている。本当は、クリスマスボウルに連れて行きたかったのは、彼女のためだけじゃない。認めてもらいたかったからだ。円子令司という男を、氷室丸子という女に。
昇降口も徐々に人が引けてきている。卒業証書の入っている紙袋を持ち上げ、花束を抱えなおす所作を円子はただ見守るしかなかった。白秋の制服姿を見るのも、これが最後。円子はまだ一年間着続けなくてはならないというのに、もうそこに彼女はいない。移動教室の廊下にも、昼食時の食堂にも、放課後の部室にも、フィールドから振り返るベンチにも。そう自覚したら、居ても立ってもいられなかった。
「じゃあ、クリスマスボウルで優勝したら迎えに行くよ。それならいいっちゅう話だろ?」
「・・・・・・正直、それは大変だと思うけれど」
「俺のマリアは、氷室丸子たった一人だ。あんたが認めなくても、俺にとってはそれが真実なんだよ」
縋る男のような格好悪い台詞に、返されたのは哀しげな微笑。それでも余裕の態度を浮かべてみせたのは、もはやプライドからだけだった。今、腕を伸ばして抱き締めるのは簡単だけれど、それは彼女が良しとしないだろう。何より円子自身、それでは自分が許せなかった。いい女だと思うからこそ、自分も胸を張って隣に立てるような、そんな男になりたい。
「待っててくれよ。大学生活を楽しむ傍らでいいからさ」
「・・・・・・そうね。時々思い出すくらいは、してあげてもいいわ」
「十分」
彼女が大きな花束と紙袋、それに鞄を左手に抱える。代わりに持とうと手を伸ばしかけて、けれど引っ込めた。自分は共に去れないのだ。一年という月日が、否応無しに円子と彼女の距離を隔てる。まっすぐに差し出された右手に、泣きそうになってしまった。握り返した手が震えて、これが最後だときつく誓う。次に彼女に触れるときは、勝利を捧げて抱き締めるときだ。そのときこそ彼女に愛を囁こう。
「さようなら、マルコ。元気で、怪我には気をつけて」
「マリアも。・・・・・・ほんと、世話になったね」
「お互い様でしょ」
「はは。どうか、元気で」
離れていく指先を、向けられる細い背を、姿勢よく去っていく姿を、ひとつひとつ見送った。花束が揺れて、制服のスカートが揺れて、友達に何度か声をかけられながら校門まで歩いていき、そして一度だけ彼女は振り向いた。遠目で分からないかもしれないと思ったけれど、胸元で小さく手を振れば、少しだけ肩を竦められたようだった。そして彼女はまた歩き出し、今度こそ円子の視界から消えていく。
風に飛ばされそうになるジャケットを抑えて、円子は深い溜息を吐き出した。もう、彼女はここにはいない。
「・・・・・・死ぬ気で勝たなきゃならないっちゅう話だね・・・」
制服をなびかせて、昇降口に背を向ける。アメフト部専用となっているグラウンドからは、野獣のような叫びと僅かの悲鳴、そして何かの破壊されるような音が聞こえてくる。また備品が壊れたかな、と円子は肩を竦めた。
女神のいない戦場でこそ己の価値が量られるのだと、柄にも無い心許なさを風と共に散らせながら。





個人的ポイントは、マルコが年下というところです。
2008年4月26日