「普賢、ふげーん?」
約一月ほど前に崑崙山に来た子供の名を呼びながら、太乙真人は岩場の影を歩いていた。周囲をきょろきょろと注意深く見回すけれども、目当ての姿は得られない。もしかしたらどこかで見落としたのかも、と己の無駄骨を思って彼は溜息を吐き出した。件の子供は、この崑崙山において酷く見つけにくい色合いをしているのだ。視線と同じ位置にある空に溶けるような水色の髪。好んで纏う修行服も白が多くて、細い身体にぶかぶかのそれは雲の中に紛れてしまう。何より問題なのは、子供の持っている雰囲気だ。それこそ崑崙山のある高さの空気よりも尚薄く、風に揺れる葉音よりも存在を主張しない。それ故見逃してしまうことは数多くて、太乙はいつも苦労していた。とはいえ子供は賢い子なので、探されていることに気づけばすぐに姿を見せてくれるのだが。
視界の隅を、はた、と何かが横切る。見つけたと勢いよく振り向けば、飛び石になっている幾つかの岩の向こうに、細い身体が立っているのが見える。ひく、と太乙は頬を引きつらせながら、そちらに近寄ることなく再度名を呼ぶ。
「普賢」
「・・・・・・太乙?」
「何してるんだい?」
「この時間のカリキュラムは瞑想なんだ」
「そう。邪魔をして悪いんだけど、声が聞こえづらいからこっちに来てくれないかな」
「相変わらず高所恐怖症なんだね」
振り向いて、子供が笑った。ふわりと布の多い袖口をまるで羽根のようにしながら、岩を蹴って飛び移る。軽やかな所作は足音さえ立てず、服は真っ白だというのに汚れひとつ付いていない。それらも子供の存在感の儚さに拍車をかけており、何だかなぁ、と思いながら太乙はやってきた子供を出迎えた。
「立ったまま瞑想してたのかい? 座ってやった方が楽だろうに」
「精神に体勢は関係ないよ」
「肉体には関係あると思うな。いくら道士とはいえ身体が資本なんだから、気をつけないと」
「じゃあ太乙もね。徹夜は程ほどに」
隈が出来てる、と己の目元を指差して笑う子供は、名を普賢といった。これは一ヶ月ほど前、彼が崑崙山にやってきたときに与えられた名前である。仙人になるために修行を積んでいる最中だが、彼は崑崙山の主である原始天尊の直弟子であるために他の道士とは格が違った。崑崙の柱を担う十二仙と等しく、それほどまでに将来を見込まれた才能を持っている。対等な口利きも許されており、この外見だけなら十歳程度であろう子供と、齢千年近く生きてきている太乙は同格なのだ。
「何を考えていたんだい?」
木陰に腰を下ろし、ぽんぽんと隣を叩いてみせれば普賢も寄ってきてちょこんと座る。それでも砂や土が彼の服にはつかないのだから、不思議だなぁと太乙は首を傾げずにはいられない。
「瞑想に課題はないよ」
「嘘だね。君は課題を得て、そこから物事を発展させていくタイプだろう? 原型はなくとも発端はあったはずだよ」
「心の在り処について考えていたんだ」
話が繋がっているようで繋がっていない、独自の切り替えしをみせるのも普賢の特徴のひとつだ。結論を先に述べることもあれば、遠回りするだけして結局本心を明かさないときもある。賢いのだろうと、太乙は認識していた。こんな子供が原始天尊の直弟子だなんて、と馬鹿にする声も多かったけれども、十二仙をはじめとした優れた仙人たちはすでに普賢の素質を認めている。天才に近い形なのだろう、彼は。
「太乙は、心はどこにあるんだと思う?」
傾げられた普賢の首筋に、木々を縫って辿り着いた光が零れ落ちる。白が鮮やかに輝いており、頼りない細さは神秘的でさえある。普賢は不思議な子供だった。崑崙山に来るまで何をしていたのかは知られていない。巫女をしていたと言われても、豪商に囲われていたと言われても、最年少の官吏をしていたと言われても、ただ普通の家に育っていたと言われても、そのどれもが容易く想像でき、同時に不適当だと思わせるのが普賢という子供だった。底が見えない。誰かの言っていた言葉が太乙の脳裏を過ぎる。
「そうだね、やっぱり心は脳にあるんじゃないかな。何より感情と理性を司る部分だし、生物の持つすべての機能を統率する器官だからね」
「科学オタクの太乙らしい答えだね」
「普賢のことだから他の人にも聞いたんだろう? みんなは何て言ってた?」
「道徳はスポーツの中に在るって言ってたよ。玉鼎は鍛錬の中だって」
「どっちもどっちらしい答えだねぇ。それで、普賢は? 心はどこに在るって思う?」
日頃からジャージに身を包んでトレーニングに励む道徳真君と、刀を手に静かに自身と向き合う玉鼎真人の姿が目に浮かぶ。参考意見は参考意見として取り入れ、けれど普賢は自分だけの答えに辿り着くに違いない。そう思って問いかければ、空と同じ色の瞳がぱちりと大きく瞬きをした。ふわりと唇を綻ばせて、小さな顎が前を向き、遠くの雲を眺めやる。
「僕は、心は自分じゃない誰かの中に在ると思う」
「・・・・・・自分じゃない誰か? 自分の心なのに?」
「うん。人は、人と関わることで何かを学び、何かを感じる。だからきっと、心は他人の中に在るんだよ。影響しあえる誰かと出会って初めて、自分の心は心になるんだ」
「ふぅん、それは面白い理論だね」
「だからきっと、僕の心はまだ無いんだ。だって、探しても見つからないもの」
普賢が立ち上がる。その動作にも重みは全くといっていいほど感じられず、人形のようだと太乙は思う。普賢自身、そんな己を自覚しているのだろう。大丈夫だよ、と微笑んでみせる姿に、太乙は少しばかり悲しくなってしまった。それでも同じように腰を上げ、低い位置にある空色の髪をぽんぽんと叩く。
「太乙、僕を探してたんでしょう? 何か用事だったの?」
「原始天尊様がお呼びだよ。新しい子が入るから、君に紹介したいんじゃないかな」
「そう。やっと同期が出来るんだ」
「難しい子らしいけどね。何でも一族を皆殺しにされたとか」
「優しい子だと思うよ。勘だけど」
歩き出した太乙の耳に、ぽつりと小さな声が聞こえた。
「その子が僕の心を持っていると、いいな」
「・・・・・・もしかしたら君も、その子の心を持っているかもしれないよ」
せめて動揺を気取られないように、と前を向き続けていたため太乙は気づかなかった。自分を見上げた普賢が、僅かに嬉しそうに微笑んだことに。そしてこの後出会う子供たちが互いの心を預けあう存在になれることを、そのときの彼らはまだ知る由もなかったのである。





だからきっとこれは運命





(はじめまして、僕の心。)
2008年8月12日