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風の吹いた、予感はあった。神田は自分の勘が鋭いことを自覚している。学がないからかもしれないが、野生的な第六感は常に彼に物事を知らせていた。任務の終了の電話をかけ、コール音を聞きながら今度はどこに行かされるのかをぼんやり考えていたとき、向こうの相手と繋がった。
『はい、教団室長室です』
横柄でない若い男の声に、ああ、と神田は自分の感覚に納得した。変わったのか。口内で呟き、名を告げる。
「神田だ」
『神田君?』
「にんむは終了した。きかいはイノセンスの仕業じゃなかった。次はどこへ行けばいい?」
『ご苦労様でした。じゃあ一度ホームに帰還してください』
「ホーム?」
『ここ、僕らの家だよ。君には直接伝えたいんだ』
だから帰ってきて、と朗らかに強請られ、神田は眉を顰めたが了承した。もはや拒むことも許されないのだろう。文句を連ねるにしても特に言うことはないので、ファインダーを引き連れて教団本部へと戻る。帰りの電車は何故か眠気が襲ってきて転寝をした。窓からの日差しが柔らかかった。
『エクソシスト、神田ユウ帰還! エクソシスト、神田ユウ帰還!』
もはや聞きなれた門番の声を、地下水路で聞く。中央のエレベーターに乗って階を上がれば、すでにそこは別世界だった。そう表現しても良いほどに雰囲気が違っていた。石造りの建物は変わっていない。灯りの数も同じはずなのに、それでもどこか明るさを感じさせる。笑顔なのだと、すぐに気づいた。
「あ、神田さん。お帰りなさい」
「お帰りなさい。お疲れ様」
任務に出る前はコムイしか使わなかった言葉が、廊下を歩く度にかけられる。食堂前を横切れば、カウンターからジェリーの「神田ちゃーん、おかえりー! 特製の蕎麦を用意してるから後で来てねーん!」という声まで飛んできた。次いで聞こえてくる笑い声。それが嘲笑ではなく温かなものだったから尚更のこと。教団は姿を変えた。この雰囲気は、確かに「ホーム」と呼ぶに相応しい。
厚い室長室の扉をノックする。答えたのはやはり、若い男の声だった。どうぞ、という言葉に従って扉を開ければ、最後に任務を受けたときとは真逆の部屋に唖然としてしまった。塵ひとつなかったはずの床が、今は書類の海になっている。何だこれ、と思わず呟いてしまった神田を、部屋の主は諸手を開いて迎え入れた。
「お帰りなさい、神田君!」
「・・・・・・おい、何だこのきたなさは」
「あはは、ごめんね。忙しくって片す暇がなくてさ。まさかこんなに多忙だとは思ってもなかったよ」
椅子から立ち上がり、書類の端を踏みながらコムイが近づいてくる。向かいのソファーに小さな子供が座っていて、振り向いた彼女の見開かれた瞳に、神田はまたしても納得した。この妹のために、コムイはここまでやって来たのだから。
「よかったな」
「うん。君のおかげだよ」
微笑んで、コムイは被っていた帽子を脱ぎ、己の胸へと抱えた。身長差のせいで視線は合わないけれども、対等だからこそ膝は折らない。感謝に頭を下げたい気持ちで、コムイは目の前のエクソシストに己を名乗った。
「改めて、自己紹介を。三週間前に黒の教団本部長代理兼中央統合参謀司令室室長となりました、コムイ・リーです。どうぞよろしく」
「何だ、その舌をかみそうなかた書き」
「うん、僕もまだ言い慣れなくてねぇ。足手まといにはならないよう頑張るから」
「せいぜい努力するんだな」
かつてと似たような言葉のやり取りに、二人して笑う。簡単に任務の報告を済ませてレポートを提出すると、次の任務は三日後出発です、とコムイが済まなそうに微笑んで告げた。二日も間が開くのか、と素直に口に出すと更に困ったような顔をされ、君たちエクソシストは物じゃなくて人間だからね、と慈しむように言われた。いつだって笑っていて欲しいんだよ、と。
コムイはまだ話し足りなさそうだったが、室長となったばかりの彼は責務に忙殺されている。ついには神田に「さっさと仕事に戻れ」とまで言われてしまって、すごすごと椅子につこうとしたが、ソファーにいる存在を思い出したのだろう。ぱぁっと顔を輝かせ、コムイは再度神田を振り向いた。
「そうだ神田君、紹介するよ! 僕の可愛い妹―――・・・・・・」
「まって、兄さん!」
高い声が、コムイのそれを遮った。びくびくとソファーの陰から二人を盗み見ていた少女が、ようやく自らの足で書類の海に降り立つ。きょとんと目を瞬いた兄に、少女は「自分で名のらせて」と、まだ怯えている様子で囁いた。彼女はコムイとは異なり、神田と同じ黒い団服をまとっていた。ミニスカートに黒いブーツ、そして胸に宿るローズクロス。髪の艶はまだ戻りきっていないけれど、瞳は確かに前を見つめている。一歩ずつ小さな歩幅で、少女は神田の元まで辿り着いた。ふたつ離れた年の差が、そのまま身長差にも現れている。どちらも良好な幼少時代を送ったとは言えないから、平均よりも小柄だ。
小さな手を握る。解く。握る。解く。六回ほどその仕草を繰り返して、少女は意を決したように神田を見上げて口を開いた。
「エクソシストになります、リナリー・リーです。あなたの名前をおしえてください」
その声が意外に凛としたものだったから、神田は少しだけ笑った。強くなればいい。そんなことを思う。
「エクソシスト、ティエドール部たいの神田だ」
「かんだ。下の名前は?」
「よばせるぎ理はねぇよ」
切り捨てたら悲しそうな顔になったけれど、すぐに唇を尖らせる拗ねた表情に変わった。生きる屍だった姿など、もう残ってはいない。じゃあ神田って呼んでもいい、という問いかけに、好きにしろ、と答えを返した。
向かい合う子供たちの様子を、コムイが複雑そうに、それでも嬉しそうに眺めていた。





リー兄妹との出会い編、終了。
2008年3月16日