涙の色を選んだのです





チャンスは突然に、酷くあっさりとコムイの手のひらに転がり落ちてきた。失墜させるまでもない。室長だった男は黒の教団の資金を使い込んでいたことが露見し、簡単に追放された。空席となった室長の座。望んでいたものが、今その主を求めている。欲しい。言葉にはせず、コムイは拳を握り締めた。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。あの席が欲しい。あの肩書きが欲しい。あれさえ手に入れば、望む変革はきっと大きな進歩を遂げるはずだ。この暗く悲痛なだけの組織を、せめて「ホーム」と呼べるものに。神田が少しでも世界が優しいものだと知れるように。何より妹であるリナリーを、この腕で抱き締めるために。
科学班の面々は、座ればいいと言ってくれた。相応しいのはあなただと、言ってくれる人たちもいた。自分がどんなにこの席を望んでいるのか知っているジェリーは、待ってたわよ、と背中を叩いてくれた。だけどどうしても手が伸ばせない。欲しい気持ちは本当なのに、いざ目の前にして身体が動かない。腕が、足が、鉛のように重い。もちろん人事の決定権を持つのは自分たち下っ端ではなく大元帥だけれども、それでも。
『やぁ、リー君。久しぶりだね』
見計らったように人の少ない時間、ゴーレムを通じて連絡してきたのはフロワ・ティエドールだった。元帥の一人、神田の師。一度対面して簡単な会話を交わしたが、こうして連絡を受けるのは初めてだ。姿は見えていないと分かりつつも、コムイは背を預けていた椅子の上で姿勢を正す。
「お久しぶりです、ティエドール元帥」
『元気かい? 私の可愛い弟子たちはどうしてるかな』
「神田君には、今は任務でスペインまで行ってもらっています。マリは今朝帰還しました。怪我ひとつなく元気ですよ」
『そうか、それは良かった』
電話の向こうで安堵している気配が伝わる。風体だけ見ているととても元帥には見えない人物だが、その人柄は尊敬に値するとコムイは感じていた。何より、神田の師なのだ。あの彼が認めている。それだけで十二分に凄い人物だと思う。
『時間がないからね、単刀直入に聞こう。リー君、君は我々エクソシストの司令官になる気はあるかい?』
穏やかさを失っていない声に、びくりと肩が震えた。慌てて周囲を見回すけれども、ぽつりぽつりといる同僚たちは己の仕事に打ち込んでいるのか反応を示さない。もしかしたらそう見せているだけなのかもしれないが、コムイは声を潜めた。
「・・・・・・元帥、それは、どういう」
『私たちの命を預かる気は? 多くの生死を抱える中でも、ひたすらに任務を実行できる自信は? 黒の教団の何百年にもわたる後ろ暗い歴史を目の当たりにして、尚且つ正気を失わずにいられる自信は?』
「・・・・・・」
『それがあるのなら、私は君を室長に推そう。中央統合参謀司令室、その頂点の席を君に与えるよう、大元帥たちに働きかけてあげてもいい』
ぐっと奥歯を噛み締める。まざまざと突きつけられたのは、コムイが無意識のうちに忌避していた事実だ。妹に会うために、ここまでがむしゃらに走り続けてきた。神田のような存在を知り、この閉鎖的な組織を変えられたらと思った。だけど、室長になれば黒の教団の闇と向き合わざるを得ない。そして肩に載せられる、数多の命。顔だけ知っているファインダーから、元帥たち、神田。そして何より、きっとエクソシストになることになるだろう妹、リナリー。彼らの命を自分が握る。自分の一声で、彼らが死地へ赴くことになる。その悲痛な重みに耐えるだけの覚悟はあるのかと、ティエドールは問うているのだ。それは何たる孤独。涙さえ許されない、孤高の椅子。それでも。
「・・・・・・本当に辛いのは、僕ではありません」
顔が浮かんだ。五歳のまま記憶の止まっているリナリー。十歳の神田。友人の顔、仲間の顔。家族と呼びたい彼らが笑顔でいてくれる、そのための手助けをしたい。
「痛苦は幸せへの布石です。力は守るために使うことも出来る。・・・・・・そう信じたい僕は、愚かでしょうか」
『いいや。私はとても好きだよ』
柔らかく優しい声に、泣きたくなってしまった。ありがとうございます、と震える声で告げれば、ゴーレムの向こうでティエドールが笑う。
『礼なら、私ではなく神田に言ってあげなさい。あの子が君の話をしなければ、私もここまで君に興味を持ちはしなかっただろうから』
「神田君が、僕の話を?」
『リー君、君はきっと良い司令官になるよ。何たって自分にも他人にも厳しいあの子が、君を認めているのだからね』
先程ティエドールに思ったことをそっくりそのまま返されて、コムイは顔を赤くした。大元帥に認められるよりも、こう言っては悪いけれど同僚に認められるよりも、正直神田に認められたことが何より嬉しい。彼は肩書きや素性すべてを透過して、個人を見つめる。そこには甘い感情や優しさなど一切ない。事実だけを見る神田の目に留まれたことは、酷くコムイを喜ばせた。
『他の元帥は私が説得しよう。室長となった後の君の行動を、しかと見せてもらうよ』
「ご期待に副えられるよう頑張ります」
『無理はしないように。休めるときに休むのも戦士の仕事だ』
いつかの神田と同じ物言いに、コムイは微笑んだ。世界は優しく、そして美しい。人の心の在り様で、こうも変化できるものなのだ。この光の欠片を、せめて周囲に分けたかった。神田に安らぎを、リナリーに笑顔を。席に座る覚悟は決まった。
一週間後、コムイは白いコートに腕を通すこととなる。胸に宿るローズクロスは、彼を祝福するかのように花開いていた。





薔薇を染める紅は、どうか僕の涙であって。
2008年3月16日