相反する幸福論





教団にはいくつもの部屋がある。団員の私室から、皆の集う談話室や食堂、鍛錬するための施設や知識を得るための図書室。もちろん数多くの実験室やひとつ回廊を下がれば拷問室なんていうものもある。けれどそれらも、三年近くも教団にいれば、おのずと分かってくるものだ。ここから先は行ってはいけない。暗黙の了解を、神田はエクソシストという看板を盾に飛び越えた。鍵はルベリエに追従していた秘書官を気絶させて奪った。夜も更け、周囲には誰もいない。手早く済ませれば問題はないだろう。隠密行動には慣れている。
厚い扉の鍵穴に、奪った鍵を差し込む。注意深く回せば、ほんの僅かに音が立った。しばらく待ってみるが、誰かの来る気配は無い。同じく音を立てないようにして細く扉を開け、中に身を滑らせる。足音を響かせたくなくて、支給のブーツは脱いできた。靴下の裏、石畳の床が冷たい。
「・・・・・・リナリー・リー」
薄暗い部屋の中、やはり少女はいた。大きなベッドに四肢を鎖で繋ぎとめられ、起き上がれないよう拘束されている。猿轡がされていないのに自殺する気力さえ奪われていることを悟り、神田は小さく舌打ちした。白いシーツに散っている黒髪も、今は艶を失ってばさばさとしている。コムイと似ていると思ったけれど、勘違いだったかもしれない。それでも顔立ちは血縁を感じさせ、神田は彼らが兄妹であることを認めた。アジア系を象徴する黒い瞳は、深夜だというのに開かれている。けれど酷く濁っていて、像を結んでいないことは明らかだ。少女は神田が同情するほどに、生きる屍と化していた。
一体何が不満なのだろうか。そんなことを神田は考える。教団は確かに冷酷で、エクソシストは戦いを強要されて酷使されるが、その代わりに衣食住と最先端の技術を支給される。メリットがないわけではない。この考えは、自分が何度死んでも生き返るからのものなのだろうか。そうでないにしても一度教団に発見された限り、もう逃げることは不可能だ。この組織は蛇のようにしつこく、それこそ神のようにどこまでも見通し、悪魔のように延々と追ってくる。ならば身を任せてしまった方が楽だろうに。自分を守れるのは自分だけなのだから、大人しく戦う術を磨けばいいのに。一体何が少女をここまで愚かにさせるのか、神田には想像もつかなかった。
「おまえの兄きが、ここまで来てるぜ」
いっそ殺してやった方が少女のためなのかもしれないが、そこまで他人に優しくしてやる義理もない。興味も失せ、神田はただ一言だけ落として、踵を返した。明日からはまた任務だ。アフリカには初めて行く。暑くないといいが、そんなことを考えながらドアノブに手をかけたときだった。
「・・・・・・にぃ、さ・・・?」
声とも思えないしゃがれた音だったけれども、夜が静か過ぎたため、それは神田の耳まで届いた。弾かれるように振り向けば、ベッドの上の少女が首だけをこちらにめぐらせている。澱んでいた瞳にも僅かだが光が差し込んでいて、やはり兄妹だと神田は思った。少女の存在を知ったときのコムイの眼を思い出す。
「ああ、おまえの兄きが黒の教団に来ている。おまえのためにだ」
「・・・ぁ、な・・・・・・だ、れ・・・」
問いかけに、神田は笑った。親切に名乗ってやるほど甘くはない。いずれこの少女がエクソシストを名乗ることになるのなら、尚更のこと。
「おれがだれか知りたけりゃ、てめぇの足で歩いて聞きにくるんだな」
今度こそ振り向かずに、神田は部屋を後にした。鍵をかけてから階段を上がり、人の滅多に来ない倉庫に放り込んでいた秘書官の元まで戻る。この鍵をコムイに渡すのは簡単だが、それでは意味がない。邪道な手段で手に入れたものは、いずれ己の首を絞めるのだから。秘書官の仕立てだけは良いスーツのポケットに鍵を落とす。
神田はそのまま自室に戻り、朝焼けと共に任務へと出発した。昼食の弁当を受け取りに行った食堂で顔を合わせたコムイが、「いってらっしゃい」と笑っていた。





失う幸福を知っている者、失えるもののない幸福を知っている者。
2008年3月16日