茨の帝国





科学班という部署がある。黒の教団本部第一班。エクソシストや探索部隊が活動するのに必要な武器や道具、団服の作成などを行い、名の通り科学に精通した者が集い、その才を発揮する場所である。名の華やかさとは逆に、教団の中で昼も夜も無く働かされる部署だが、コムイ・リーはそこに入りたくて仕方がなかった。正確に言えば、彼は黒の教団の本部ならばどこでもよかった。探索班だろうと、医療班だろうと、通信班だろうと、警備班だろうと。ただ自分にとっての得意分野が科学であったため、科学班が手っ取り早かっただけ。祖国で、黒の教団アジア支部の門戸を叩いた。ひたすら自分が使える人間であることをアピールした。同僚となったバク・チャンには胡散臭い目で見られたが、事情を知った彼は態度も少しだけ改めてくれた。二年経ってようやく、教団本部への移動が認められた。
「コムイ・リーです。よろしくお願いします」
深く頭を下げようとして、止めた。アジアとヨーロッパでは文化も違う。その色に染まりきるつもりはないが、摩擦を少しでも減らしておきたいのは事実だからこそ、こちらの文化に則った。与えられたのは白は白でも、ただの白衣だ。アジア支部のエリートでも、本部では下っ端。ちらりと、コムイは隣に立つ男を盗み見る。その胸に刻まれているローズクロスを、エクソシスト以外で唯一身につけられる者。その座が、コムイは欲しかった。
与えられた机は小さく、周囲には山積みにされている資料や実験具。広い部屋には多くの科学班メンバーがいるのに、話し声や物音は驚くほどに起こらない。いや、起きてはいるのだけれど、それがすべて個人で作られるものであり、誰かと和気藹々と会話するという行為がないからこそ味気ないものだった。不気味とさえ言える。隣に並ぶ同僚さえ人形のようで、コムイはぞっとした。これが、黒の教団本部。こんなところに、あの子が。
『エクソシスト、神田ユウ帰還! エクソシスト、神田ユウ帰還!』
建物内に響く声に、はっと顔を上げる。おそらくこれは、あの門番の声なのだろう。あれは人なのか、それとも機械か異形か、コムイにはまだ判断できない。世界は広く暗いのだと、そんなことを思う。
神田ユウ。エクソシストということは、AKUMAと戦うことを義務付けられている者。僅かばかりの興味がコムイの中で首をもたげる。コムイはエクソシストを間近に見たことが無かった。任務でアジア支部を訪れる者も確かにいたが、彼らは情報だけ得るとすぐに出立してしまって擦れ違いばかりだった。とはいえ、室長の部屋は科学班から独立しているから見ることも出来ない。まぁ今は本部にいるのだし、いずれ嫌でも会う日が来るだろう。そう考えてコムイは計算を続けるべくペンを握りなおした。
「リー、この資料を室長のところに届けろ」
「、はい!」
反射的に返事をして立ち上がる。テーブルに置かれていた黒い冊子は、きっと次の任務のものなのだろう。今帰ってきたばかりなのに、と思ってしまうが、エクソシストが人員不足なのも事実だ。厚い冊子を手に、コムイは室長室のドアを叩いた。
「失礼します。資料をお持ちしました」
「リーか。そこに置いておけ」
横柄な仕草で指示され、塵ひとつ落ちていない部屋を横切る。エクソシストはまだ来ていないのか、と思ったコムイの視界で、黒い何かが光った。銀よりも艶めいた光に、思わず視線を奪われる。室長から机を挟んだ向かいのソファーには、子供がひとり座っていた。高い天井からの蛍光灯を受けて、肩を掠る黒髪が揺れている。コムイと同じ、アジアの血。黒水晶のような瞳。まだ年端も行かないその子供は、けれど胸にローズクロスを宿していた。コートの色は黒。まさか、と目を瞠ったコムイに、子供は僅かに眉を顰める。
「リー・・・?」
舌足らずな英語。だけどその瞬間、コムイは理解した。この子供はエクソシストなのだ。コムイの妹―――リナリー・リーと同じく。





苗字を呟いた、彼の真意は。
2008年3月16日