不注意






気がつけば、命は残りひとつになっていた。気づけなかったのは神田の不注意であり、余りに己の異形に慣れ過ぎていたからだろう。六幻を手に取ったときに初めて分かった。己が唯人へと変じたのだという、その事実。しばし呆然と立ち尽くしてしまった神田を、一体誰が責めることが出来ようか。泉のように湧き出ては乾かない、それが神田の命だと誰もが思っていた。緩やかに枯渇していっていたのを知るのは、ほんの一握りの関係者だけだった。彼らとて、正確な日付は知らなかっただろう。それでも神田は今日、人間になってしまった。命のひとつしかない人間に。
喜びがやって来るかと思っていた。不便だと苛立つかと思っていた。いっそ自ら命を絶つかと思っていたし、気づけもしないのではないかと思ってもいた。しかし時は確かに神田に訪れを告げ、そして猶予を残してくれた。六幻を握り締めて、近くの瓦礫に腰を下ろす。
空は鉛色だ。雲は低く、そのうち雨が降り出すだろう。空気は澱んでいて、多くの砂を含んでいる。きっと壊れ果てた建物の所為だ。どこからか聞こえてくる声はエクソシストのものか、人間のものか、それともAKUMAのものなのか。気配はいくつも感じられ、そのどれもが生命に満ちている。手のひらにはいつだって綺麗なものだ。傷ひとつ残さず、爪の形さえ変えはしない。団服は随分とぼろぼろになってしまったが、この黒は気に入っていた。靴のサイズはいくつだったか。ベルトの一番細い穴さえ緩くなり、リナリーに怒られたのはいつの話か。黒い髪を女みたいだと言ったアレンは、もしかしたら褒めていたのかもしれない。ラビに借りた本は返していないけれど、きっとあんな簡単な絵本などブックマンは読み返しもしないだろう。コムイに頼んでいた自室の割れた窓ガラスの修理はどうなったのか。ティエドールが勝手に描いた寝姿は処分しないと。マリに気にするなと声をかけなくてはいけないし、パグにも同じ言葉を言わなくてはならない。やらなくてはならないことは山ほどある。きっと今まで見過ごしてきたことに気づくために、自分は人間になったのだ。実行できない理由はすべて神田の不注意に違いない。
「・・・・・・悪くねぇ」
瓦礫から立ち上がる。残りひとつの命など、潔く散らせるだけだと思っていた。けれどこうして一瞬を懐古出来たのなら、その単数にも意味があったのだろう。それでも神田は戦うために生きてきた生き物であり、作られた生き物であり、そんな己を選んできた生き物であった。だからこそ六幻を構えることに躊躇いはなかった。
「最後の命だ。極限式、六幻―――抜刀」
かつてより最高の輝きを見せる愛刀にすべてが吸い込まれていく。イノセンスと一体になる己を感じながらも、神田は空中のAKUMAを見上げた。もはやレベルなど関係ない。これが最後の戦いだ。悪くねぇ。再度彼は笑った。





神様が人になる。
2009年8月4日(2009年9月12日再録)