堕神





雷が鳴っている。雨は本格的になってきていて、視界を奪うと同時に人々の活動を抑えてくれる。AKUMAとの戦闘に巻き込まなくて済む喜びと、嗚咽をかき消すせめてもの救いに、アレンはコートの肩につく雫を丁寧にを払った。
「女性を泣かせるだなんて男の風上にも置けませんね」
宿から出てきたところを呼び止めれば、神田はあからさまに嫌な顔をして振り向いた。そういった表情を向けられることには悲しいかな慣れてしまっているため、アレンはさほど気にしない。けれどきっと、彼女はたいそう傷ついたことだろう。
「任務さぼって立ち聞きかよ、似非紳士」
「失礼な、雨宿りですよ。AKUMAの数も大分減ってきましたから、『使徒様はどうぞお休みください』ってトクサさんに言われまして。リンクもいいって言ってくれましたし」
遠くからは雷に混じり、AKUMAの断末魔が聞こえてきている。表現しがたい何かを砕くような音は、彼らが共食いしている咀嚼だろうか。第三エクソシストの戦い方はえげつないものだった。戦いに美醜など関係ないが、それでも目を逸らしたくなるような有様で、だからこそ彼らの合間を駆け抜ける神田の一閃は酷く煌めいてアレンの目に映る。
「どうしてリナリーを突き放すようなことを言ったんですか。神田らしくもない」
「てめぇに理解されるほど落ちぶれちゃいねぇよ」
「レベル4とか第三エクソシストとか、そんなの言い訳でしょう? 一体何から逃げてるんです」
「逃げてる?」
振り向いた神田の表情は、それは美しいものだった。憐憫と侮蔑を程よく混ぜ合わせ、それでいて子供に向けるような愛しさも含んでいる。覗く色艶にアレンは内心でたじろいだけれども、足を引くことなく神田を見上げた。リナリーの嗚咽が雨の中に小さく響く。
「リナリーは、君を家族だと思っています。守りたいと思ってる。優しい人です。それなのにどうして君は」
「あいつが甘いことなんざ、てめぇに言われなくても分かってんだよ」
「だったら何で」
「優しさが、あいつを殺す。あいつの一番がコムイなのは揺るぎない事実だからな」
首だけでなく身体ごと神田が振り向いた。デザインの通じた団服を着ているはずなのに、彼の線の細さは際立って見える。心なしか頬がやつれているかもしれない、とアレンは今更ながらに気がついた。鋭角的な神田の顎のラインが、いつもより細い。
「モヤシ、てめぇが『14番目』だってことをあいつが気にしてないと思ってんのか?」
「え・・・」
話題が飛んで、それが触れられたくないものだったからアレンの肩が震えた。身長差は未だあり、アレンは神田を見上げなくてはならない。背は伸びているはずなのに、追いつける気がしない。
「それ、は」
「ラビがあいつに惚れてることは見てりゃ分かる。イノセンスも進化して、教団からかけられるプレッシャーもでかい。レベル4との戦闘になれば、まず最初にあいつが担ぎ出されるだろう」
「・・・・・・」
「その中で、いつかコムイを守るために、あいつが何かを見捨てなきゃならねぇときが必ず来る。ただでさえ、てめぇやラビの分まで背負ってんだ。これ以上他人に煩わされる必要はねぇだろ」
「っ・・・でも、そんなの!」
「知れば肩入れする。その上でどちらも守ろうとして、結局どっちも守れなくて、最後の最後であいつは絶対にコムイを取る。それで見捨てた方に謝って泣く。馬鹿じゃねぇの。誰もてめぇに守られようなんざ最初から思ってねぇのに」
傲慢な女、と吐き捨てる言葉は限りなく冷たかったが、本心は違うことなくアレンへと伝わった。リナリーが最後にコムイを選ぶ。それは、アレンにだって分かっている。コムイのために、自分のためにすべてを捨ててくれた兄のために、リナリーはそれこそ何だってするだろう。けれど優しい彼女は見て見ぬ振りをすることが出来ないから、知ってしまった他人の悲哀に心を砕き、そして助けられない申し訳なさに身を切り裂く。そんな性質を知っているからこそ、神田は最初からリナリーを突き放したのだ。最後の最後でコムイを選んで、神田を見捨てて、そのことをリナリーが一生背負いながら生きてなんかいかないために。
リナリーのことを理解しているからこその、神田の行動。そうと心が受け止めてしまえば、アレンの顔は歪むしかない。優しすぎる。そして正しい。神田という人はいつだってそうだった。少なからず救われてきたという自覚が、アレンにだってある。
「でも、そんなの・・・・・・寂しすぎます・・・」
零れた言葉は無意識だったため、それが本音だったことに、『14番目』でもある己の道筋を決めかねていた自身の本心であったことに、アレンは気づくことが出来なかった。ただ、神田は静かにアレンを見下ろし、そして振り切って宿の屋根下から一歩を踏み出す。土砂降りの雨は見る間に彼のコートを色濃くし、長く艶やかな髪を背中へと貼り付けた。雫が額に落ち、頬を伝って顎から落ちる。軌跡を見つめていたアレンに、神田は対峙してくれた。
「モヤシ。てめぇには俺が見えるか」
声は届いた。雨音に遮られず、リナリーの嗚咽にもかき消されず、しかとアレンの耳へと届いた。それ以前に神田から目を離すことが出来ず、アレンは彼の声をどこか遠くに聞いていた。
「俺が見えるか」
「・・・・・・はい」
「喋ってるな」
「・・・はい」
「触れる」
「はい」
「俺はどこにいる」
「ここにいます。神田は、僕の目の前に」
アレンの答えに、神田は笑ったようだった。雨ばかりが降り注ぎ、その表情は決してよく見えなかったけれども、それでも目尻から零れ落ちた雫は涙ではなかった。少なくとも、アレンはそう信じたかった。優しさが耳を打つ。
「そうだ、俺はここにいる。人の生きた証なんざ、そんなもんで十分だろ」
踵を返して、背が向けられる。ゆっくりと歩み始めたそれはあっという間に雨の中に紛れてしまって、もう気配すら感じられない。呪われた左目はトクサとゴウシの位置を示すけれども、神田の存在は教えてくれない。彼は消えてしまった。行ってしまった。閉ざされた世界の中へ。
人の心に残ることが生きた証だと言うのなら、それは最たる永遠で、そして刹那だ。人は未来を歩むために、時として過去を忘れゆく生き物なのだから。
「・・・・・・神田。かん、だ。神田、神田!」
名は届かない。叫びは辿らない。目尻を伝った雫は涙で、アレンは雨の中を駆け出した。出口など分からない、それでも自分たちは生きているのだから。神田も、アレンも、今この瞬間は確かに生きているのだから。
もはや大丈夫などと口に出来ない。明日すら、アレンの手の中には無いのかもしれないのだから。





全4話完結。お付き合いくださりありがとうございました!
2009年5月5日