堕神





「ねぇ、神田。何かあったの」
リナリーがそう問いかけたのは、イスタンブールに入ってから三日目の夜のことだった。大きな任務だということは聞いていたが、とりあえず当面の問題は数だけのようで、ひっきりなしにAKUMAと格闘する時間が続いている。交代で食事と仮眠を取り、そしてまた戦闘に繰り出す。AKUMAはレベル2と3が主だが、4が出てくるのも時間の問題かもしれない。けれど、ここまで来ればリナリーとて第三エクソシストの存在を認めざるを得なかった。在り方に対しては未だ心が抵抗を訴えるけれども、それでも彼らの実力は確かだ。ゴウシとトクサは、我先にとAKUMAの中に突っ込んで行っては共食いをし、AKUMAを破壊する。高らかに笑いながら行われるその様は、同じエクソシストであるはずのリナリーにさえ恐怖を与えた。けれど、そんなことよりも。
「どうして、あの人たちのフォローをするの? どうして一緒に戦うの?」
振り向いた神田は、ぼろぼろになって役目を失った団服を取り替えるために宿へ戻ってきたらしい。ちょうど食事を終えたところで彼を見つけ、リナリーは背中を追って声をかけた。乱れた髪を結いなおし、コートを羽織る姿はリナリーの知っている彼と何ら変わらないけれども、それでもイスタンブールに入ってからの神田はどこかおかしい。トクサとゴウシと行動を共にし、AKUMAを見れば突き進んでいく。その戦闘スタイルは確かに神田のものではあったけれども、常とは違う、そんな確信をリナリーは抱いていた。幼い頃から共に過ごしてきたのだから分かる。今の神田は、何か変だ。
「エクソシストなんだから一緒に戦って当然だろ」
「違うよ。ねぇ神田、何かあったの? あの人たちに何か言われたの?」
「何かって何だよ」
「それは・・・」
口籠れば、あからさまな溜息が降ってくる。呆れられたのは分かったけれども、リナリーは顔を上げて神田を見た。着替えを終えた彼は酷く凛としていて、リナリーから三歩離れた位置に立っている。昔から変わらない、ふたりの距離だ。近づくことはあっても、これ以上離れることは決してなかった。神田はいつだってリナリーの傍にいてくれたのだ。
「おまえ、もう俺に構うの止めろ」
遠くで、雷が鳴る。雨が降ってきたのだろうか。辛い訓練に耐え切れなくて、森に逃げたリナリーを探しに来てくれたのは神田だった。肩を掠めていた黒髪を雨で頬に貼り付け、仏頂面で、差し出された手は優しく、リナリーを引き立たせてくれた。
「レベル4にルベリエや中央庁だけじゃねぇ、第三エクソシストまで出てきやがった。もうてめぇに構ってる暇はねぇ」
「・・・・・・神田?」
「イノセンスも進化したんだ。もう俺に守られる必要もないだろ」
「神田」
「モヤシもラビもいる。てめぇはコムイを守ることだけ考えてろ」
「神田っ!」
声は悲鳴になってしまった。戦場で立ち尽くすリナリーを叱ったのも、帰還して安堵に涙したリナリーを宥めたのも、眠れない夜に共に過ごしてくれたのも、全部全部神田だった。彼のいない自分など考えられない。それほどまでにリナリーは神田と一緒に生きてきた。なのに何故、今になって。
「何で・・・そんなこと言うの・・・っ!」
どん、と拳で叩いた胸は平で逞しい。抱きつけば分かる身体の違い。己は柔らかく、彼は固い。そんな差異がない頃から共にいたし、変化に気づいたときに覚えた心の震えを今も忘れない。初めての恋は神田だった。閉鎖された空間で、それでも彼を一番に選べた自分をリナリーは誇りに思っている。緩やかに想いは変化すれど、大切な人に変わりはなかった。彼もそう想ってくれているのだと、信じていたのに。
「ねぇ、何で! 私、何かした!? ルベリエのことで頼ったのが嫌だったの!? だったら直すから! 弱いのが悪いなら強くなるから! だからっ!」
嫌いにならないで、なんて馬鹿な言葉が口をつく。目尻に浮かんだ涙はあっという間に頬を流れてしまった。こんな女々しさを彼が嫌うなら逆効果でしかないのに、それでも悲しみがリナリーの心を占拠しては雫として溢れさせていく。神田は優しい人だ。優しい人だ。ずっと一緒に生きてきたのだから知っている。神田はいつだってリナリーを守ってくれた。守り続けてくれた。口では何だかんだ言って、行動だって決して温かいものではないけれど、真実はいつだって正しいものだったから、リナリーは彼を慕い続けてきた。見上げればこんなにも近くにいる。神田はもはや、リナリーにとって他人ではない。それなのに、それなのに。
「第三エクソシストと行動するのは、あいつらといる方が性に合うからだ。奴らはAKUMAを破壊することを躊躇わねぇ。生ぬるいモヤシやおまえとは違う」
「っ・・・!」
「俺は昔から言ってたはずだぜ? 『邪魔になるようならおまえらでも見捨てる』ってな。だが、あいつらなら俺の邪魔はしねぇ。だったら一緒に行動するのは自然の流れだ」
「嘘! 神田はそんな人じゃない!」
「てめぇに、俺の何が分かる」
それは低くも冷ややかでもない声だったけれど、リナリーの思考を奪うには十分だった。何も知らないくせに。言外にそう告げられた気がして、それが事実だったからこそリナリーの心は落ちてしまった。神田の過去を、リナリーは知らない。彼のルーツを、目指すべき道を、リナリーにとってのコムイのような、そんな魂の存在意義を、存在するか否かすら知らない。何も、知らない。
神田が好きだ。愛している。ずっと一緒に生きてきた、大切な人。苦楽を共にし、涙を流し、血反吐を吐いて戦い、教団で笑い合ってきた。決して幸せとは言えないけれど、それでも温かな日々だった。けれど、そのすべてが自分の独りよがりだったなら。神田はただ、付き合ってくれていただけなのだとしたら。
「・・・・・・ごめん・・・」
言葉が知らずリナリーの口をついていた。そんなこと言うつもりなど無かったというのに。神田が舌打ちして、リナリーの拘束を引き剥がす。足取り荒く戦闘に向かい、部屋にはリナリーだけが残された。何も知らない。そう、己は、神田のことを何も知らない。気づいた事実はリナリーの宝物だった過去を打ち砕く。
「あ、あ・・・っ・・・ああああああぁ!」
耳を塞いで、頭を抱えて、リナリーはその場に崩れ落ちた。何も知らず、馬鹿みたいに彼に頼り、縋りきってきた日々。彼が愛想を尽かすのも当たり前だ。それでも、それでも、神田のいてくれた日々は確かにリナリーにとって絶対だったのだ。
彼が支えだった。彼がいなければ生きてこれなかった。だけど彼を救うことの出来ない己を、その無情なる無力さを、彼女はようやく痛感して、泣いた。





兄さんを選ぶ私が、他の誰かを救おうとするなんて。そんなの、なんて、傲慢。
2009年5月5日