Love myself





別に、特に何かあったわけではないのだ。
教団はいつも通りだし、千年伯爵にも変わりはない。科学班は相変わらず不眠不休で働いており、自分はそんな彼らの合間を縫いながら、コーヒーを入れたり、書類の整理をしたりする。時には眠りに落ちてしまっている兄に喝を入れたり、逆に眠るよう説得したり。時折舞い込んでくるエクソシストとしての任務をこなしつつ、女の子らしく肌の荒れを気にしたりして。何ら変わったことはない、いつも通りの日常だ。今日もリナリーは本を片手に書庫から科学班への道のりを歩いていた。
「―――神田!」
ちょうど玄関ホールを見下ろす回廊で、リナリーは見慣れた長い黒髪が真下を横切るのに気がついた。仰いでくる視線は相変わらず鋭いものだけれど、円を描くように翻った髪はとても綺麗で悔しくならずにはいられない。自分がこんなに気を使っているというのに、彼は大した手入れもせずに、あのキューティクルを保っているのだ。
「お帰りなさい。これから報告?」
「あぁ」
「私も兄さんのところに戻るの。一緒に行きましょ」
言うが早いか、リナリーは手すりを飛び越え、ふんわりと神田の前に降り立った。本当なら階段を使うべきなのだろうけれど、神田相手にそれは余計だとリナリーは知っている。彼は人との関わりを拒むけれど、強く押せばそれ以上の拒否はしない。だからこそ次の言葉を発される前に行動するに限るのだ。
案の定リナリーを目の前にした神田は断ろうとして無駄に開いてしまった唇を閉じ、面倒くさげに息を吐き出す。
「・・・・・・勝手にしろ」
「うん、勝手にするわ」
これがアレンやラビなら六幻でも取り出すのだろうけれど、自分に弱い神田をリナリーは知っている。だからこそ進んで隣に並んで歩き出した。
神田は歩調を合わせてくれるような紳士ではないけれど、リナリーと共にいるときは歩幅やスピードがいつもと少し異なる。それには神田本人も、そしてリナリーも気づいていなかった。リナリーも神田と共にいるときは、いつもと歩幅やスピードが異なるのだ。それは幼い頃から共に歩くことの多かった、二人だけのペースだった。
「今回の任務はどうだった?」
「別に。AKUMAが三体いただけだ。イノセンスでもなかったしな」
「そう。怪我しなかった?」
「レベル1だぜ。怪我なんかするかよ」
鼻で笑う神田の腕前はリナリーも知っている。まだ若いけれど、キャリアだけで言えば、彼は十分にエクソシストの古株なのだ。ずっと任務に出てばかりの神田は、リナリーよりも戦闘に秀でている。その分デスクワークが不得手なのは、短気な性格によるところも大きいのだろう。
「神田は、誰かと組んだ方が怪我する確率が高いよね」
「足手まといなんだよ」
「うん、それもあるんだろうけど」
優しいから、という言葉は飲み込んだ。そんな言葉、神田だって言われたくないだろう。彼は前だけ向いていればいいのだ。自分が兄を守るのだと決めたように、彼は彼の目的のためだけにあればいい。
それなのに訳もなく泣きたくなるのは、きっと日常がいつも通り過ぎるから。変わらない日々が怖くなる。自分たちというエクソシストは、平穏とは無縁のはずなのに。
「・・・・・・何て顔してんだよ」
ごん、と頭を殴られた。女の子相手に容赦がないと思うけれど、リナリーは神田が紳士じゃないことを知っているから黙って額を押さえる。それでもじっとねめつければ、珍しくも呆れた様子の相手が見えた。
「・・・・・・痛い」
「馬鹿なこと考えてるからだろ」
「何にも言ってないじゃない」
「顔見りゃ分かんだよ。阿呆なこと考えてないでさっさ歩け。その本、コムイに頼まれてんだろ」
指し示されたのは抱いていた本。結構厚さのあるそれだが、神田は持ってくれようとしない。それは彼自身が旅行鞄を持っているからだろう。けれど例えそうでもアレンやラビは持ってくれるのに。リナリーがそう呟くと、神田は鼻で笑った。それは嫌みなくらい高慢で、とても綺麗な表情だった。
「甘やかされてぇなら俺のとこなんか来るんじゃねぇよ。俺にとっておまえはエクソシスト以外の何者でもない。足手まといになるなら、例えおまえでも置いてくぜ」
「・・・・・・神田の意地悪。だけど、だから私、神田のこと好きよ」
優しいもの、という言葉はやっぱり飲み込んで、代わりに笑顔を浮かべてみせた。彼のようには無理だと思ったから、せめて可愛く見えるように。

平和な日常を恐れるのは、今後来る嵐を知ってるから。
知っているからこそ怯える自分を、彼は悠々と追い抜いていく。
手を差し出したりなんかしない。荷物も持ってくれやしない。
だけど、だからこそ胸を張って隣に立てる。

「神田」
「あぁ?」
扉を開けた背中に声をかける。振り向いた彼の向こう、書類の海に溺れている兄の姿が見える。最愛の兄にさえ言えないことも、神田になら言えるから不思議だ。つまりそれは、特別ということなのだろう。彼はもはやリナリーにとって他人ではない。
「大好き。愛してるわ」
一瞬の沈黙の後、教団中に響くかと思われる兄の絶叫が起こる。苦虫を噛み潰したような神田の頬に、リナリーは口付けたいと思った。

彼を愛することは、自分を愛することに似ている。





リナリーと神田は小さい頃から教団にいて、互いにしか分からない絆を持っていたらいいと思います。
2006年10月15日(2006年11月10日mixiより再録)