「スパイが一人、ほしいですねェ」
丸く太ったそれは、人だったのか、何だったのか。
今となっては分からない。ただその手が自分に触れ、契約を刻んだことだけは分かった。
「君に、イノセンスをあげまス。教団に入り込み、内部を探ってきて下さイ」
胸が熱くなる。文字が浮かんできたのは、ちょうど心臓の真上。黒き闇を沈め、つかの間の光が全身を覆う。
浅黒い肌が白に変わった。丸い何かが歯を見せて笑う。肩ほどまでの髪を撫で付け、それは言う。
「頼みましたヨ、ユウ」
「・・・・・・はい、千年公」
それはとてもとても前のこと。





銀貨三枚の光





胸に巻いていた包帯を解けば、すでに傷跡は欠片もなくなっていた。赤黒いそれらをゴミ箱へと投げ捨て、ワイシャツを羽織る。その上から団服のロングコートをまとい、イノセンスである「六幻」を片手に部屋を出た。
食堂までの道をたどっていると、ブックマン専用の書架になっている部屋からオレンジ色の髪が出てくる。その持ち主は神田を見つけると、自然に隣に並び歩き出した。
「はよ、ユウ。今日は任務?」
「ああ。東南アジアまで行ってくる」
「うわっめっちゃ遠いじゃん! ユウってば強いからこき使われて大変さ」
「ふん。本部で待機してるよりマシだ」
食堂に入り、向かい合うようにして席に着く。いつしか神田の周囲はラビの指定席となっていた。それは彼らが親しいからという理由に他ならない。少なくとも周囲にはそう見えていた。エクソシストの神田ユウは、その傲慢な性格から教団内に知り合いが少ない。だからこそ、その中の一人であるラビとだけ、いつも一緒にいるのだと。悔しさと嫉妬による嘲笑の中で、彼らはそう囁いていた。けれど、それは違う。
神田はラビがブックマンだから、一緒にいるのだ。
ブックマンは裏の歴史を記録する者。時の流れに身を任せ、真実の意味でどこの陣営にも属さない。今とて教団側にいるのは仮初。だからこそ神田は、ラビが共にいることを許した。自分と同じ、教団を偽りの「ホーム」としている彼だからこそ、傍にいることを許した。
朝食の蕎麦を食べ終わる。いつでも好物が食べられるのは、ここに来てよかったと思える最大のことかもしれない。立ち上がる神田を、まだ食事中のラビはフォークを止めて笑顔で見送る。
「いってらっしゃい、ユウ。怪我しないよう気をつけるさ」
彼の覆われた狭い世界の中心に誰がいるのか、神田は知らない。



六幻を用いてAKUMAを切り伏せる。それは同族殺しに見えるが、正解のようで不正解だ。神田はノアの一族であり、AKUMAではない。AKUMAに平伏される、上の立場にいる者なのだ。けれど雑魚のAKUMAたちは、そんな諸事情を知る由もない。だから本気で向かってくるし、神田はそれをたやすく返り討ちにする。断末魔を聞いても謝罪すら浮かばない。むしろ馬鹿じゃねぇの、とさえ思いながら刀を振るう。
「それでは、次の任務地はアチェになります。到着まで五時間ほどかかりますので、その間どうぞお休み下さいませ」
探索部隊の者が頭を下げ、コンパートメントから出て行く。一人になるとようやく、神田はその手から六幻を離した。車窓から見える景色はまだ緑が多く、ロンドンほど開拓されてないことが窺える。やることもないし一眠りするか。神田がそう決めてまぶたを下ろした途端に、何もないはずの室内に子供の笑い声が響き渡る。
「よぉ、ユウ。ひっさしぶりィ」
「・・・・・・てめぇかよ、ロード」
「その言い方はないんじゃねェの? せっかくボクが会いに来てあげたって言うのにさァ」
「ちっ! ・・・・・・久しぶりだな」
神田の舌打ちに、ロードは嬉しそうに唇を吊り上げた。小さな体で団服の上に乗りあがる。膝をまたいで向かい合えば、神田の人形のような美貌がさらに歪んだ。
「ボク、ユウの顔好きだよォ? すっごいキレイ。めちゃくちゃにしてやりたくなる」
「そーかよ。俺はてめぇみてーなむかつくガキは嫌いだ」
「ウソばっか。これだからユウは好きだよォ」
細く小さな少女の指が、団服の胸元にかかる。名の刻まれたボタンを嘲笑いながら毟り取り、肌蹴させたワイシャツの隙間から手を滑らせる。まるで刺青のように刻まれているそれをなぞり、ロードはにやっと神田を見上げた。
「ずいぶん薄くなってんじゃん。これじゃきつかったんじゃねェの?」
「・・・・・・大体何でてめぇなんだよ。いつも来るのはティキか千年公だろ」
「ティッキーは今お仕事中。千年公も忙しいんだよォ。ジャスデビが来なかっただけマシだと思わねェ?」
「確かにな」
家族である双子のうるささを思い出し、神田はうんざりと眉を顰めた。その表情を楽しげに見上げてから、ロードは胸元へと視線を戻す。刻まれた契約。闇を隠し、光を偽るためのもの。ちょうど心臓の上に位置するそれを指先でなぞると、小さく神田の体が震えた。ロードの笑みが一際深まる。
「じゃァ、パワーを重ね塗りしてあげるよ」
赤い舌がちらりとひらめき、白い肌を描くように舐め上げた。時折びくりと痙攣する体を、ロードは堪能しながら蹂躙した。



神田にとって、ホームとは日本を示し、家族とはノアを指す。エクソシストはどいつもこいつも退屈で、それなりに関わりはしているけれども家族などとはとても呼べない。例外としてラビという存在はあるけれど、それともそのうち縁を切ることになるだろう。何せ彼はブックマンだ。中立の存在に用はない。
敵の証のローズクロスを背負い、破壊するはずのイノセンスを手にし、白い肌で神田は歩む。
「あぁ・・・・・・きれい、だな」
見上げた空に、月はない。

照らすもののない闇だけが、彼に安堵をもたらすものだった。





おとなしくティキにしとくべきだったかもしれません。
2006年6月27日