満天の星空。
こんなの、見たことない。
カサカサと葉の擦れる音。
こんなに、大きいなんて。
目の前の相手をも遮る闇。
これほど、深いとは。



――――――――――知らなかった。





今だけはどうか、安らかな眠りを





毛布を広げて、少しでも寒さを和らげようと身を寄せ合って眠るホビットが四人。
その隣に大きな斧を抱えて眠るドワーフ。木に寄りかかるようにして眠る魔法使い。
大きな石を背にしてエルフが、芝生では人間が横になって寝ている。
月さえも見えない、真っ暗な夜。
眠れなくて、膝を抱えた。



「・・・・・・・・・ねぇ、アラゴルン」
少女は男の名を呼んだ。
素肌の膝を抱えて、見張りとして起きているだろう人間の名を。
かすかな気配を感じて、彼が自分へ少しの注意を向けたのだと判る。
それすらも、簡単に気づけるようになってしまった。
ルーズソックスが、目に映る。
「・・・・・・この旅、いつまで続くのかな」
ポツリと、つぶやいて。
「私、中間テストまでには帰りたいんだよね。でないと次の学年に進級できるか怪しいもん」
あんまり勉強って得意じゃないから、と少女が笑う。
それが夜目が利くアラゴルンにはかすかに見えて、思わず眉を顰めた。
膝に顔をうずめて、少女は囁くように言葉を紡ぐ。



「・・・・・・・・・私の国ね、日本っていうんだけど、本当かどうか知らないけど、でも私の住んでるところはすごく安全なところなんだよ」
「朝はね、いつも遅刻ギリギリで、朝ごはん食べてる時間もなくって、チャリで必死でね、毎日始業ベルと同じ頃に学校に行くの」
「勉強は嫌いだから、授業中は友達と手紙回したり、本読んだり、寝たりして。ときどき先生に指されては、すごくハラハラするの」
「お昼はお母さんの作ってくれたお弁当を食べて、友達といろんな話して」
「部活の話や、バイトのこと、それに授業や先生のこと、有名人の話とか、色々。それでもね、やっぱり一番は恋の話なの」
「友達の彼があぁだったとか、隣のクラスの女の子はサッカー部の誰と付き合ってるとか、仲良かった恋人同士が別れた、とか」
「放課後はね、彼と一緒に帰るの。私はチャリ通だからね、彼が運転してくれて、私は後ろに乗って、一緒に」
「デート、次はどこに行こうかとか、普通に、たくさん話をして、家の前で別れるの。そのときは、いっつもキスをして」
「それから私はバイト。有名な飲食チェーン店でね、大体毎日9時くらいまで?それで、家に帰ってお風呂入って、テレビ見て」
「お母さんに勉強しなさいって言われて、お姉ちゃんとバーゲンに行く話をして、お父さんには『お休み』って一言だけ。ひどい娘でしょ」
「でもね、でも、幸せだったんだよ。ううん、幸せなの。私、それに気づけなかった」
「それが当然だと思ってた。世界のどこかで戦争が起こっていようと、私には関係ないって思ってた。・・・・・・・・・だから、なのかな」
「だから、私、弱いのかな。この世界にいるのが辛いのかな」
「オークとか、そんなの、わかんないよ。だって殺人は罪に問われるんだよ。しちゃいけないことなんだって決まってるんだよ」
「でも、殺さなきゃいけないんだよね?そうしなきゃ、生きていけないんだよね?殺さなきゃ、ダメなんだよね?」
「ねぇ、私幸せだったよ。あなたたちから見たら愚かに見える人生かもしれないけど、でもね、幸せだったんだよ」
「大好きな家族がいてね、友達がいて、彼氏がいて、学校に通って、バイトして、バーゲン行って、いっぱいいっぱい楽しくて」
「前はね、当たり前のことだと思ってたけど、本当はすごく大切なことだったんだね。大切で、楽しくて、幸せで、愛しいこと」
「それに、気づけなかった」
「気づけてたら、何か変わったのかな」
「私、こんな世界に来なくてもよかったのかなぁ・・・・・・・・・」



少女の指で、銀色の指輪が光った。
金色のそれと、対なるもの。
それを消すための旅。

セーラー服では、夜は少しだけ寒い。



「大好き、なのよ。本当に大好きなの。取り上げられて初めて判った。私の人生は、あれだったの」
膝に顔をうずめたまま、少女はくぐもった声で。
「家族も、学校も、全部捨てられない。あれが、私の生きる道なんだから」
遥かにある、己の世界を描いて。
「私の居場所は、あそこなんだから。だから、絶対」
――――――――――ハッキリと。



「私は、帰るの。・・・・・・元の世界へ」





「必ず帰るよ」





銀色の指輪をはめた手を握り締めて、少女は座ったまま眠りにつく。
決意を語った唇から寝息が零れて、レゴラスは自分の分の毛布を少女へとかけた。
「・・・・・・・・・やはりまだ16歳。家を恋しく思うのは当然のことだな」
音もなく身体を起こしてボロミアが言った。
その目は小さな少女へと注がれている。
異国の、いや、異世界の服をまとった小さな少女。
その細い指に、巨大すぎる運命の一端を担って。
自分には関係のないこの世界を救うために、こうして過酷な道を行く。
自ら望んだと言いつつも、やはり心の不安は拭えない。
何も知らないこの世界に、ただ一人。
それもまだ年端もいかない、小さな少女が。
・・・・・・・・・辛くないわけがないのだ。
「ましてや一人でこの世界へ。・・・・・・・・・可哀想な、愛しい子」
レゴラスが少女の髪へとキスを落とす。
今だけは安らかに眠れるようにと、エルフの祈りを込めて。



小さな小さな少女。
日中は自ら剣を握り、己の身を守るような。
そんな勇敢な少女。
けれどそれは必死で紡いだ糸のごとく。
常に張り詰めた状態で、誰にも許されることのなく。
涙を流さない少女。
流したら最後、止められないことを知っているから。
泣いている暇はないことを、知っているから。
だから、泣けない。

泣けない。



「・・・・・・・・・我々に出来ることは、少しでも早く指輪を消滅させ、を元の世界へと返すことだけだ」
噛み締めるようなアラゴルンの言葉に、ボロミアもレゴラスも深く頷く。
明るくて、優しくて、可愛らしい異世界の少女。
周囲を染め上げる光のような暖かさと、すべてのものを切り裂くような熱い激情を両手に秘めて。
旅を、続ける。
指に嵌ったまま外れることのない指輪を、捨てるために。
銀色の指輪を、捨てるために。
今日も少女はセーラー服のまま歩み続ける。
その道が、少しでも軽くなるように。
君が少しでも多く、笑っていられますように。
そのためになら幾らでも剣を振るおう。

明日の朝は、笑顔の君に会えますように。



月さえ見えない真っ暗な夜。
夢の中で家族の名を呼ぶ少女の声が、闇に溶けて消えた。
今だけはどうか、安らかな眠りを。





夜明けはまだ、来ないから。





2003年4月6日