「何、それ・・・どういう、こと・・・?」
―――今言った通りさ。幸村精市の手術は失敗する。彼はもう二度とテニスは出来ない。
「嘘! だって幸村は全国でリョーマと戦うんだよ!? テニスが出来なくなるわけがない!」
―――いいや、その未来は来ない。もう一度言うよ。幸村精市の手術は失敗する。彼は二度とテニスが出来なくなり、全国の舞台には立てず、立海は青学に負ける。
「負けるのは原作通りじゃない!」
―――そうして一年後、幸村精市は病死する。九月三日、享年十五歳。
「っ・・・! うそ・・・!」
―――嘘じゃないさ。君だって知ってるだろう? 僕は神様だからね、嘘なんかつかないよ。
「だ、だったら何で! 何で幸村が死ななくちゃいけないの!? ここは『テニスの王子様』の世界でしょ!? それなのにどうして幸村が死ななくちゃいけないの!」
―――そんなの決まってるじゃないか。君がいるからだよ。
「・・・え?」
―――君がこの世界の調和を乱した。作者が完璧に作り上げた『テニスの王子様』というひとつの世界が、「逆ハーレムを堪能したい」という願いを持った君によって捻じ曲げられた。だから齟齬が発生したのさ。おかしいことなんてないだろう?
「え? ・・・え?」
―――君がストーリーを書き換えた。『テニスの王子様』のキャラクターに愛されたいがために、君はこの世界に飛び込んできた。だから歪が生じたのさ。
「で、も・・・っ! トリップさせてくれるって言ったのは、あんたじゃない! あんたがあたしをこの世界に連れてきたんでしょ!?」
―――そうだね。わざわざ君の大好きな立海に転入させてあげた。男子テニス部のマネージャーにもしてあげた。
「だったら!」
―――特別可愛いわけでもないのに、運動神経が良いわけでも、勉強が出来るわけでも、性格が際立って良いわけでもないのに、君がキャラクターに好かれるよう「逆ハー補正」もつけてあげた。楽しかったかい? 君自身の魅力ではない力で、キャラクターを落としていくのは。
「っ・・・!」
―――生意気な切原赤也に「先輩」って懐かれるのは楽しかったかい? 柳蓮二に図書室で本を取ってもらうのは嬉しかったかい?
「ちがっ・・・!」
―――丸井ブン太と一緒に行ったケーキバイキングは美味しかったかい? 仕事を手伝ってくれたジャッカル桑原の優しさは心地良かったかい?
「ちがうっ・・・!」
―――遅くなればいつでも送ってくれる柳生比呂士は紳士だったかい? ファンクラブから守ってくれた仁王雅治は格好良かったかい?
「違う!」
―――真田弦一郎と唯一対等に喋れる女子になれて満足だったかい? 幸村精市に「傍にいてほしい」と言われて喜んだかい?
「違う! 違う違う違う違う!」
―――何が違うんだい? すべて君の望んだことじゃないか。キャラクター全員に好かれたい。お姫様扱いをされたい。愛されたい。大切にされたい。特別になりたい。僕はそんな君の願いを叶えてあげたに過ぎないよ。
「違う! あたしはっ・・・あたしが望んだのは!」
―――途中から転入してきて、キャラクターと隣の席になって、媚びない態度を買われてマネージャーに勧誘されて、しょうがないからって態度でイエスを返して。ファンクラブから受けるのは深刻過ぎない程度のイジメ。何かあったときはすぐにキャラクターが駆けつけてくれる。他校との交流もそれなりに。どのキャラクターにも嫌われないように、というか好かれるように。難しかったよ、君の願いを叶えるのは。何たって君自身は何もない、ただの無個性の女の子だから。
「っ・・・違う、あたしは・・・!」
―――だから齟齬が発生してしまった。気持ちのベクトルを変え過ぎた余り、話に無理が生じてしまった。幸村精市は死ぬよ。君がキャラクターに愛されたがったために、彼は死ぬ。
「嫌! やだ、やめて! やだ・・・っ!」
―――どうして? 残された一年、君は死を前にした美少年に愛される、薄幸のヒロインになれるんだよ? 幸村精市が死んでも、傷ついた心は別のキャラクターが埋めてくれるさ。何たって君は彼らのお姫様なんだからね。
「違う! 幸村は死なない! 死んじゃだめなの! 彼は全国決勝で戦うんだから死んじゃだめなの!」
―――どうしてそこまで拘るんだい? 君は幸村精市が特別好きなわけじゃないだろう? 好きなキャラクターのひとり、その程度じゃないか。所詮君にとっての彼らなんて、攻略する対象の王子様というくらいの存在だろう?
「違う! だ、だって・・・だってあたし、見てた! 幸村がテニスをしたいって泣くのを見た! 真田や仁王たちがどれだけ厳しい練習してるのか、ずっと見てた・・・!」
―――見るのが君の望みだったじゃないか。マネージャー業なんて適当にやって、あとは彼らと如何に親密になるかばかりを君は考えてた。
「そ、そうだけど! そうだけど、でもあたし、見てた! ちゃんと見てた! 立海がひとつひとつ勝ってくとこ、ちゃんと見てた!」
―――・・・・・・。
「・・・そうだよ、あたし、ちゃんと見てた。原作には描かれなかったけど、立海だってちゃんと、地区予選も、県大会も、ちゃんと試合してきてた。試合だけじゃない。勝つために、みんなちゃんと部活してた」
―――・・・・・・。
「馬鹿みたいな練習メニューこなすの、ちゃんと見てた! 真田の鉄拳、厳しすぎるのに、痛すぎるのに、ときどき理不尽だったりするのに、赤也が絶対に避けないの、ちゃんと見てた! 仁王だってああ見えて、一度も部活を休んだことない! 柳生だって紳士のくせに髪を乱して汗だくになって練習してさ! ブン太だって甘いもの好きだけど動きが鈍るほど食べたりしない! ジャッカルだって体力もっとつけるんだって人の何倍も走ってた! 柳だって涼しい顔してさ、部活の後にひとりで今後の日程眺めて顔暗くしてた! 真田だって幸村の病室に入る前、いつも気合を入れ直してた! 幸村だって、幸村だって・・・!」
―――・・・・・・。
「幸村だって、これ以上みんなの迷惑になりたくないってひとりで泣いてた! あたし、そういうの、ちゃんと見てきた・・・!」
―――・・・・・・。
「見てきた! 見てきたよ! だから嫌なの! みんながテニス出来なくなるなんて、そんなの嫌だよ! 頑張ってきたの見た! 王者立海だからって、何もしないで勝てるわけがないんだって、見てて分かった!」
―――・・・・・・。
「あたしにとって、もうみんなはキャラじゃない! キャラになんか見れない! だから、ねぇ! 幸村の病気を治して! お願いだから!」
―――・・・歪みを正すことによって、君の存在がこの世界から弾かれることになっても?
「っ・・・」
―――彼らから君へ注がれていた好意は消えるよ。キャラクターに愛されなくても、それでもいいのかい? 君の大好きな逆ハーレムを失うことになっても?
「・・・それ、でも」
―――うん。
「あたし、キャラが好き。みんなが、好き。忘れてたけど、ずっと忘れてたけど、そうだよ、あたし、みんなが好きだったからトリップしてきたんだよ」
―――うん。
「漫画で読んだみんなが格好良かったから、好きになってもらいたかったんだ。愛されたかったの。でも、いい」
―――いいの?
「うん、いい。だってあたし、みんなが好きだもん。あたしが好きになったのは、テニスをしてるみんなだから。だから・・・っ」
―――・・・。
「逆ハーなんてもういらない! みんなからテニスを取り上げないで! あたしが好きになったのは、『テニスの王子様』のみんなだから・・・!」





恋をした、全力だった






ざわめくホールの出入り口で、見つけた後ろ姿に声をかける。ひとつに結った黒髪を揺らして振り向いたのは、男子テニス部のマネージャーだっただ。部活を引退してからは関わりを持たなかったからか、何だか久し振りという感じがする。背が少し伸びたかもしれない。雰囲気がおとなびた。手の中の卒業証書を遊ばせて、彼女は少しだけ笑ったらしかった。
「幸村」
「卒業おめでとう」
「幸村こそ、おめでとう」
「外部の高校に行くって聞いたよ」
「うん。家から近い県立。立海は私立だからお金がかかるしね」
少しは親孝行でもしようかと思って。そう肩を竦める彼女の視線は、幸村の首筋から肩あたりを彷徨っている。女子の平均でしかない身長を見下ろして、幸村は口を開いた。周囲では卒業式を終えて、多くの生徒たちが友人同士で抱き合ったり、写真を撮ったりしている。
「いい機会だから、伝えておこうかと思って」
彼女が顔を上げた。ようやく視線が重なり、幸村は自然と笑みを浮かべる。
「俺は君のことを、普通のマネージャーだと思っていたよ。仕事は最低限はやってくれるけど、それだけだと思っていた。ドリンクの味は作る日によってばらつきがあったし、タオルだって洗ってあるくらいのものだった。テニスのルールも基本は押さえてたけど詳細までは知らなかったし、いて邪魔じゃないけれど、いなくても構わない。俺は君のことをその程度だと思っていた」
向かい合う顔が強張ったのを幸村は見つめる。
「特に君は、言葉にこそしなかったけれど『自分は大切にされて当然』といった雰囲気をしていたしね。まぁ、俺たちが勧誘してマネージャーになってもらったわけだから、危害に対してそれなりの対処はさせてもらったけど、気に食わなかったのは事実だよ。実際、君の俺たちを見る目は、そこらへんで黄色い声を上げている女子と何ら変わりがなかった。逆に態度に出されないのが気持ち悪いくらいだった」
卒業証書を握る指が白くなっている。冷静に観察して、それでも幸村は笑みを深めた。その爪先が伸ばされていないことを、今はもう知っている。
「だけど、関東大会の後からかな。は変わった。本当に真剣に、マネージャー業に勤しんでくれた。朝は誰より早く来て部室の鍵を開け、テニスコートの整備をしてくれた。ドリンクもその日の天気や選手の体調に合わせて味や量を変えてくれたし、タオルも柔軟剤を使ってふわふわに仕上げてくれた。ルールブックにも付箋が山ほど貼ってあるのを見たよ。帰りも誰より遅くまで残って、レギュラー以外の部員の様子を纏めたり、部室の掃除をしたりしてくれた。俺たちを見る目から不純な色が消えたのも同じ頃だった」
うっすらと開かれた唇が、本当にリップクリームしか塗ってないのを知っている。全国大会での彼女は、もはや化粧どころか日焼け止めさえ塗っていないんじゃないかと思わせるほどだった。それだけ走り回っていたし、仕事に従事してくれていた。些事に捕らわれず、練習だけに集中できるようになったと気づくのは早かった。視界の隅ではいつだって、黒髪が必死に動いてくれていた。だから幸村は今こうして、彼女を呼び止めたのだ。
「全国大会での君は、とても素晴らしいマネージャーだった。俺たち選手のことを第一に考えて動いてくれた。だから本当は、もっと早く言いたかった」
笑って幸村は頭を下げた。視線が下がってぎょっとしたのだろう。慌てふためいた彼女の様子が空気だけで分かり、何だか楽しくなってしまうが、告げる言葉は本当だ。その証に一瞬だけ、幸村の唇から笑みが消えた。
を全国優勝チームのマネージャーにすることが出来なくてすまなかった。本当に・・・ごめん」
ひゅっと息を呑む音がして、それ以外のすべては周囲の喧騒に取って代わられた。少しの間下げていた頭を、幸村はゆっくりと態勢を立て直して持ち上げる。相対した彼女は、丸い目に溢れんばかりの滴を湛えていた。噛み締められた唇は震えており、眉は情けなく垂れ下がっている。はく、と開かれた口に、ついに大粒の涙が零れた。
「あ・・・あた、あたし・・・っ・・・力に、なれた・・・?」
「ああ。とても感謝している。ありがとう」
礼を告げれば、俯かれて何度も首が横に振られる。ブレザーの袖口で涙を拭い、それでも止まらないのだろう。周囲でも卒業に涙している生徒はいたから可笑しな光景ではなかったが、その意味合いが異なることは幸村にも分かっていた。何度か息を吸って、吐いて、顔を上げた彼女の目元はすでに僅かに腫れていた。
「あたしこそ、ありがとう。立海でマネージャーが出来て、本当によかった」
「残念だよ。高等部でも続けてもらいたかったのに」
「・・・ありがとう。その言葉だけで十分過ぎるよ」
くしゃ、と顔を歪めた彼女に対して、告げたのは本心だった。だからこそ手のひらを差し出せば、きょとんとした顔をされる。けれど分かったのだろう。おずおずと差し出された指先は、決して絹のような柔らかさを持ってはいなかった。いや、夏前までは持っていたのかもしれない。けれども関東から全国大会の一月で、彼女の指先は、指先だけでなく手のひらは、苦労を知って荒れてしまった。それでも握手して重ねた手は、幸村にとって心地の良いものだった。ありがとう。幸村が言うべき言葉を彼女は口にして、手を離した。
「これからテニス部の送別会があるんだけど、行くだろう?」
「ううん、やめとく。行ったらめちゃくちゃ泣きそうだし」
「・・・そう言って、全国の打ち上げにも来なかっただろう。赤也たちが寂しがるよ。あいつらだって、のことをちゃんとマネージャーだと認めてるんだから」
「うん、ありがとう。みんなによろしく伝えて」
卒業証書に鞄を持って、彼女は一歩後ろへ下がる。幸村、と別の場所から呼ばれた声にふたりして振り返れば、真田と柳を筆頭とした元レギュラーに現部長の赤也を加えた面子がこちらへと来ようとしていた。すでに泣いたのか、充血とは異なって目を腫れさせた赤也が、彼女に気づいて「先輩!」と明るい声を上げる。全国大会が終わり、部活を引退してから、彼女はテニス部に近づかなかった。まるでそれまでが嘘だったかのように距離を取り、テニス部に、テニス部のレギュラーに近づこうとはしなかった。だけどそれが嫌いになったからではないことくらい、今の彼女の表情を見れば幸村にも十分分かった。
「じゃあ、元気でね」
早足で彼女が幸村の横を擦り抜ける。逃げられると悟ったのだろう。丸井と仁王が駆け寄ろうとするが、溢れる生徒たちに邪魔されて上手く近づいてこれない。待て、と真田の呼び止める声までしたが、彼女は振り向こうとはしなかった。小さくなっていこうとする背中に、幸村は投げかける。
「手術を受けているとき」
びく、と彼女の足が震えて止まった。振り返りはしなかったけれど、背中が脅えているように見えた。
の声を、聞いた気がしたよ。その声を辿って、俺は戻ってくることが出来た。テニスに戻って来られた」
ありがとう。声は届いたのか、幸村には分からなかった。もしかしたら周囲にかき消されてしまったかもしれない。それでも振り向いた彼女は笑っていた。泣きそうな顔で、それでも嬉しそうに、満面の笑顔を浮かべていた。
「みんな、大好き・・・っ!」
放たれた告白に幸村も、聞こえたらしい真田たちまで目を瞠ってしまった。彼らの視線の先で、彼女はただただ笑っていた。ぼろぼろと大粒の涙を流して、それでも幸せそうに笑っていた。
「頑張ってね! テニスも、テニスだけじゃなくて、全部! 一生応援してるから! ずっとずっと、大好きだから!」
だって、と言って彼女は手を振る。

「だってあたし、みんなの大ファンだもの!」

バイバイ、とスカートを翻して全力で駆けていく背中を見送り、その姿が完全に人混みに混ざって見えなくなってしまった頃、幸村は唇を緩めた。少しばかり照れくさそうに、それでもやはり、嬉しそうに。ありがとう。そう言って、彼らも笑った。





君も、頑張れ。
2011年5月26日(title by hazy