江戸でも有名な大店である廻船問屋兼薬種問屋の長崎屋。仕事の出来る主人に年をとっても美しい妻、彼らは病弱な息子をこれでもかというほどに溺愛していた。木枯らしが吹けば新しい布団を新調し、春風が吹いても外はまだ寒いと他出を許さない。その甘やかしようは、確かに息子の身体を思えば仕方のないことなのだろう。なんたって長崎屋の若だんなときたら、朝昼晩と違う病で寝込むくらいに床と一心同体なのだから。
だが、その長崎屋には元気いっぱいの娘もひとりいた。数えで今年、十三になる。という名のその娘は、やはり両親から砂糖菓子のような愛情を注がれ、そして病弱な兄からもたいそう愛されてすくすくと育っていた。





あはれ、あはれ





「一太郎兄様、ただいま帰りました」
「ああ、おかえり、
自分が寝起きしている離れにまで挨拶に来てくれる妹に、一太郎はにこにこと笑みを向けた。今日は体調もよく、布団からも離れている。それでも火鉢の傍にいろと手代の佐助と仁吉が口うるさく言うので、おとなしく茶を片手に庭を眺めていた。
「もうそろそろ帰ってくるだろうと思っていたよ。が近くなってくると鳴家たちが嬉しそうだからね」
「ただいま、おまえたち。兄様の相手をしてくれてありがとう」
「そりゃないだろう」
眉を下げた兄の言いように妹、はふふと笑う。室内に入って座り、は一太郎の周りにいた数匹の小鬼のうち一匹を抱き上げた。恐ろしい顔で「きゅわきゅわ」と鳴く妖の額を、少女の白い指先が撫でる。
「なんだい、鳴家。おまえ照れているのかい?」
「仕方ないさね、若だんな。お嬢ときたら江戸一番の小町と評判だ。鳴家にゃ勿体無い美しさだよ」
「やぁね、屏風のぞきったら」
ころころと喉を鈴のように鳴らして、は屏風に向かって小さく手を振る。描かれている歌舞伎役者の男が、それこそ照れたように鼻の下を掻いた。これらは皆、長崎屋にいる妖だ。手代の佐助と仁吉をはじめとして、一太郎の周りには多くの妖怪たちが集まってくる。それもそのはず、一太郎との祖母、おぎんは、齢三千年を数える狐の皮衣だったのだ。祖父の伊三郎と出逢って結ばれ、西国から江戸へ駆け落ちして長崎屋を開いた。今はもう亡いが、その美しさは娘のおたえに、そして孫のに引き継がれている。
は数えで十三の今ですら、他の大店や名のある武家から縁談が寄せられている。年の頃になったらどうなってしまうのだろう、と一太郎はほとほと心配だった。この妹ときたら兄と違って健康で、そして薙刀や習字や三味線など何をやらせても人並み以上。気立ても良いと評判なのだから、江戸中の男が放っておきはしないだろう。
「お帰りなさい、お嬢さん」
「お帰りなさいまし」
「ただいま、佐助、仁吉」
熱い茶と菓子を手に現れた手代二人にも、は鳴家へと同じ笑顔を向ける。佐助は犬神、仁吉は白沢という妖であり、彼らは祖父母によって長崎屋に遣わされていた。しかしそれは病弱な一太郎の助けとなり、かいがいしく彼を世話するためである。祖父母もまさか、身体を壊した娘が第二子を授かれるとは思っていなかったのだろう。故にに対する指示はない。健康だからということもあるだろうが、に関して手代たちは一太郎に対するほど過保護ではなかった。
「すまないねぇ、
一太郎の謝罪に、はきょとりと目を瞬かせる。おたえが毎回嬉しそうに選ぶ着物があどけない美顔に映えて、その黒髪を一太郎はそっと撫でた。
「わたしの身体が強くないばかりに、おまえに迷惑をかけてしまうね。不甲斐ない兄で申し訳がないよ」
「兄様、まだそんなこと言ってるの? 病は気からと言うでしょう? もっと気をしっかり持ってくれなくちゃ」
「そうですよ、若だんな。お嬢さんの言うとおりです」
佐助も仁吉もうんうんと頷く。はぁ、と一太郎は溜息を吐き出した。自分と妹の性別が逆だったら、と一体何度思ったことだろう。そうすれば両親の期待にも応えられ、この長崎屋の跡目を何の心配もなく継ぐことが出来ただろうに。もちろん両親に愛されていることは分かっているが、如何せんこの身体ばかりは恨まずにはいられない。
「わたしがいつ病に伏せるか分からないから、もおちおちとお嫁にもいけやしないだろう? わたしが死んだら、きっとおまえの婿が長崎屋を継ぐことになるのだから」
「若だんな! 何でそう縁起でもないことを考えるんです?」
「そうですよ。若だんなは百まで長生きしますよ。美人で器量の良い嫁御を迎えて、逝くときは大往生です」
「いや、さすがにそれは無理だろう。おとっつぁんのように五十を超えたら御の字だよ」
一太郎のことになると、俄然この手代たちは饒舌で甘やかしになる。妖としては力も強いらしいのに、二人は一太郎にのみ従順だ。佐助は逞しい胸をそらし、仁吉は娘たちに評判の男前の顔に笑みをはく。相も変わらない三人の様子に、くすくすとが笑った。袂で唇を隠す様は、十三に思えない色香を見せる。
「だぁめよ、兄様。そんな楽はさせてあげないわ。兄様には立派に長崎屋を継いでもらって、もっともっとお店を繁盛させてもらうのだから」
「おや。じゃあおまえはどうするんだい?」
「わたし? そうね、兄様になら教えてあげてもよいわ」
膝を少しだけ一太郎の方に寄せ、こっそりとは耳打ちする。吐息が少しだけくすぐったくて笑いかけたが、聞こえてきた内容に一太郎は唖然としてしまった。
はね、いつか船に乗って異国を回るの。この国を出て、いろんな国を回るのよ」
「お嬢さん! そりゃあいくら何でもだんな様がお許しになりませんよ!」
「そう言うと思ったから、黙っていたというのに。佐助、お父様に言ってはだめよ」
「言えやしませんよ、こんなこと・・・・・」
はぷうっと紅色の頬を膨らませる。心臓に悪い、と佐助は蒼白になった顔に手をやり、肩を落とした。突拍子もない夢を語られて呆然としてしまった一太郎も、ようやく詰めていた息を吐き出して深呼吸する。
「ああ、それは、確かに・・・・・・おとっつぁんもおっかさんも泣いてしまうだろうねぇ」
長崎屋は廻船問屋を営んでいるから、きっとも船に触る機会が多く、海の向こうの異国に興味を持ったのだろう。しかし女は船に乗るものではない。それが分かっているのか、じゃあもうひとつ、とは唇に指を立てた。
「じゃあ、のもうひとつの夢を教えてあげる。これはね、きっとこうなるだろうと分かっているの。はね、いつかこの将来を進むのよ」
「なんだい? 今度は兄を驚かせないでおくれよ」
「ふふ、どうかしら」
膝の上の鳴家を撫で、紅の塗った唇をついと吊り上げては笑う。華のような顔は母のおたえよりも、祖母のおぎんに瓜二つだと囁かれている。嬉しそうには囁いた。

はね、いつか妖と恋に落ちるの。そしてお祖母様のように駆け落ちて、どこかの遠い土地で幸せに暮らすのよ」

思わず、ちらりと一太郎は仁吉を垣間見た。佐助も屏風のぞきも同じように視線をやっているけれども、当の仁吉は感情を見せずに涼しい顔で茶菓子をより分けている。ふふ、とが笑った。



「何でだろうねぇ。は仁吉のことが嫌いなのかしら」
お師匠様に及第点を貰った「六段」を奏でてあげる、とは筝を取りに佐助をつれて母屋へ向かった。薬の受取人が来ますので、と仁吉は頭を下げて店へ戻っていく。食べ切れなかった団子を鳴家にあげつつ、一太郎は首を傾げた。
「仁吉がお祖母様を慕っていたのは、だって知っているはずなのに。それなのにお祖母様とそっくりのが別の男と駆け落ちするのを見送れだなんて、少しばかり酷くはないかい?」
「まだまだ子供だねぇ、若だんなも」
「なんだい、屏風のぞき。分かったようなことを言うじゃないか」
唇を尖らせた一太郎に、屏風のぞきは紙の中で派手な着物を翻した。
「お嬢は、仁吉さんが自分を通して違う女を見てるってことに気がついている。だからあえてきつく当たってるのさ。未練を断ち切ってやろうとしてるのか、それとも単に嫉妬かは分からないけどね。その心意気、お嬢ももう立派な女だよ」
「・・・・・・それはそれで、兄としては複雑だよ」
「違いない」
くつくつと屏風のぞきは肩を震わせる。そういえば先日、茶菓子をねだりに来た妖の獺が、綺麗な花を一輪手にしていた。美しく着飾った小姓の姿にそれは良く似合っていたけれど、あれはもしやへの贈り物だったのだろうか。心なしか周囲を見回していた姿に、今更ながらに推測を立てる。そういえばあの日、やけに仁吉の機嫌も悪かった。
僅かな軋みを立てて、床を歩いてくる足音がする。離れの障子を閉めるべきか、ふと一太郎は考えた。きっと妹の奏でる筝は、美しく大通りの中を流れるだろう。そしてまた縁談の数がぐっと増すのだ。困ったものだ、と溜息を深く吐き出す。
けれど障子は閉めなかった。この筝はきっと、店の仁吉の元まで届くだろうと思って。





あはれ / 情緒が深い。可愛い。悲しい。愛情。悲哀。
2008年1月31日